日本のお姉さんのアジア! ――― by 日本のお姉さん
☆ 撫順戦犯管理所で起きたこと ―――――――――― 2006/10/30

―― この記事は、なでしこさんとの、戦後の「撫順戦犯管理所」での出来事
に関する論争 → http://chinachips.fc2web.com/repo4/047064.html
について、反証の為に、これが真実であろうと思われるものを収集しました。

記事中の引用部分は、全て「あれそれこれ博覧会:あやしい調査団・満洲どよ
よん紀行・7」  より引用させて頂きました。
http://www.asahi-net.or.jp/~ku3n-kym/doyoyon/doyoyo7.html

また、自分の文章を書くにあたっては、「中国帰還者連絡会」国友俊太郎氏の
「撫順戦犯管理所の体験」  を部分的に援用させて頂きました。
http://chinachips.fc2web.com/tiny/061030.html

┌──────────「引用ここから」

昭和20年8月9日、いきなり満洲国になだれ込んだソ連軍は、約60万人の
日本人をシベリアに強制連行した。その捕虜は昭和24年までに90%が日本
に送還された。

しかし、中共建国の翌年の昭和25年、日ソ友好条約の締結時、一部の捕虜は
スターリンから中共にプレゼントされ、撫順に収容された。撫順に収監された
捕虜は969名で軍人・軍属が約800名、官僚・警察官が約200名であっ
た。

軍人の大部分は関東軍以外で、中支・北支で支那と戦った普通科部隊の将兵で
残りは関東軍・満州国の憲兵や法務、情報、治安関係の将兵だった。(将官・
高級官僚20、佐官級120、尉官級160、下士官・兵・軍属660)

中共に移監された途端に、彼らは「捕虜」から「戦犯」という身分になった。
調べもしないで「戦犯」にしたのは、捕虜のままだと国際法上よろしくないか
らである。

戦犯の処置は、新中国の重要な国家政策として周恩来が直接指揮をとり、管理
は司法部ではなく公安部が担当した。公安部長の羅瑞卿は、延安で多数の日本
兵捕虜を洗脳して日本軍の正面に送り出してきた、捕虜政策のエキスパートで
あった。

昭和25年10月、朝鮮戦争が激化し、撫順の戦犯は哈爾浜の監獄に移動、佐
官級以上と尉官級以下のグループに分けられ、別々の監獄に収監された。

朝鮮戦争が停戦に向かいつつあった昭和26年、下士官兵の669名が撫順に
戻された。彼らに入ってくる情報といえば、監獄内の放送と人民日報、日本共
産党編纂の書籍だけという環境の中で、管理所当局は「学習による思想改造」
を本格化させた。

昭和27年、日本は講和を果たし独立。撫順監獄では怒濤の「学習」が活発化
する一方、末梢神経患者が急増していた。昭和28年になると、多くの下級兵
士の脳味噌はすっかり中共色に染まっていた。

一方、哈爾浜[ハルピン]の尉官級以上の人達も「学習」が続けられ「総括書」
を書かされた。これは、学習して得た共産主義の認識に基づき、過去の自分を
自己批判しろということである。罪は重くても、完全に共産主義思想になった
者は許す。逆に軽微な罪行でも思想を改造できない者は重く処罰する、としつ
こく繰り返された。

中共側は、共産主義思想に転向してこそ初めて過去の旧思想時代の犯罪を自供
できる、と主張していた。つまり「思想改造」と「認罪」の同時工作であり、
中共国内の反革命分子に行使した方法と同じであった。尉官以上の人が取り調
べを受けたのに対し、下士官・兵は坦白大会(自白合戦)の方法がとられ、自分
たちで自らを洗脳していった。

昭和28年末、哈爾浜組も撫順に移ったが、反共組と坦白組は隔離された。
この頃、反共組は毛沢東に直訴状を書いている。

└──────────「引用ここまで」

収監されて四年間、高いレンガ塀と鉄格子によって隔離された刑務所の中で、
「監禁への不平」と「処刑の不安」を覚えながらも、彼らには、味はともかく
腹いっぱいの食事や音楽会を催すなどの自由を与えられた。管理所当局はこれ
も「政府と党の政策」であると説明している。

管理当局は、戦犯たちに「学習しお互いに討論しなさい」と呼びかけた。多く
の図書・新聞が定期的に配布され、自習用の用紙・筆記具が支給された。人民
日報・中国共産党の歴史・矛盾論・実践論・文芸座談会の講話・抗日戦の戦略
と戦術…帝国主義論・資本論・政治経済学…新聞「あかはた」・日本プロレタ
リア文学・日本資本主義発達史等である。これらの新聞や図書は次々と回覧さ
れた。

更に長い時間がたった。皇国史観・武士道・愛国心・資本家と労働者・地主と
小作人・民主主義・自由主義… 天皇の軍隊・大東亜共栄圏・日本の生命線・
五族協和・王道楽土・神風… 植民地支配・民族の解放と独立・帝国主義侵略
戦争・ファシズム… 弁証法と唯物論・観念論と形而上学等など、彼らはいろ
いろな学習を重ねて、次第に自分たちを作り出した日本を憎み、犠牲者となっ
た中国人民に想いを重ねるようになっていた。

演劇班が生まれ、大掛かりな文化祭が行われるようになり、全員が参加した。
しまいには野外大劇場をつくり「草原の踊り」「原爆の子」「日本鬼子」など
の演劇が創作され、黄河大合唱が響き、数々の日本民謡や踊りが上演された。

また、月に一度程の割合で映画が上映された。中国旧社会の矛盾、抗日戦争、
新中国の建設のほか、イタリア・インド・ソビエトの作品、日本の「二十四の
瞳」「混血児」が上映された。ーーー元日本兵たちは、これら映像による感情
への刺激をつうじ、次第に自己の過去の体験を否定するようになっていった。

学習部は、より効果的な学習方法を提案した。

その一つが「創作活動」である。創作活動とは、被害者の立場に立って自己の
罪行を客観的に記録することであり、その記録形式は文学的手法をとるように
指導された。創作活動には、多くの希望者が参加し「手記」を書き留めた。

これが彼らが帰国後に「三光」「侵略」という本になって出版された。

彼らが撫順管理所に収容されて間もなく朝鮮戦争が始まった。米軍の仁川上陸
・中国人民志願軍の参戦・中国国内の「抗米援朝運動」と戦争はエスカレート
し、戦線が中朝国境に迫るニュースが新聞紙上に現れはじめた。だが、わずか
半年後に朝鮮戦争は停戦交渉に持ち込まれ終ってしまった。

元日本兵たちは、「我々はいつ迄勾留されていなければならないのだろうか?
果たして無事に日本へ帰ることができるだろうか?」と悶々と悩み続けた。元
日本兵たちの不安は拡大していった。この時期を待って、周恩来の「工作」が
始まることになる。

┌──────────「引用ここから」

昭和29年、周恩来から日本人戦犯に対する罪行調査命令が出され、調査のた
めの「工作団」700名が編成された。起訴に向けて工作員が地方まで出かけ
証人や証拠が集められ、管理所には被害者からの告発書が続々と集まってきて
いた。ーーー戦犯の供述書に、日時・場所・人名・数量や人数が妙に詳しいの
はこのためである。

そして本格的な取り調べが開始された。

「坦白する者には軽く、逆らい拒む者には重く」という取り調べの方針が告知
され、そのスローガンは所内の至る所に掲示された。

これをきっかけに「認罪運動」というものも始まった。

「私はこんな酷いことをした」と戦犯全員の前で自白する発表会がもたれた。
この「坦白大会」には、中共党幹部も同席し、管理所の洗脳工作経過を視察す
るものであったが、戦犯達も自分が何を要求されているのかが判り、いよいよ
追いつめられていった。

認罪学習は徹底して行われた。みんなでしつこく何回も何回も犯罪行為を確認
し、自己批判・相互批判が繰り返された。「学習」とはいうものの、罪の自白
とつるしあげ合戦である。

「なんだそれぐらい、俺なんかもっと凄いもんね」「お前、それぐらいじゃ足
りんだろう」などとエスカレートしていったのだった。

└──────────「引用ここまで」

検察官による罪状の取り調べが始まった。

数百人ともいわれる調査官が派遣され、管理所内外に居住して戦犯を一人一人
呼び出し、戦争中に犯した罪行について審問にあたった。四年にわたって被害
現地の事情を調査し、被害をうけた住民の告発状や関係資料を収集、その数量
は貨車数台分はあったと言われた。審問は半年以上に及んだ。

元日本兵が管理されてから、すでに五年が経過していた。国のために、親兄弟
のために、正しいと信じ死を覚悟して参加した戦争が侵略戦争であり、自分の
行為が罪悪であり犯罪であったと認めることは、いかにも辛いことであり、嫌
なことであり、恥ずかしいことである。だが五年間の時間の経過は彼等を次第
に変化させていた。

元日本兵は「日本軍国主義が中国を侵略した戦争は正義に反した罪悪的戦争で
あり、その手先となっていた自分の行為は、平和と人道を踏みにじった犯罪で
あった」という共通見解に達していった。中には、共産党の工作員が次々にく
りだしてくる精神的打撃に負け所内で自殺する元日本兵も出た。

検察官による審問が開始されると、管理所当局は元日本兵全員に対し、各人毎
に戦争期間中に犯した罪状について供述書を作成するように命じた。この度は
今までのように優しい態度だけではなかった。当局は、取り調べの方針として
「担白(自白)」するものには軽く、逆らい拒む者には重く臨む」「罪行は事実
のみを正確に記述し、拡大や縮小、虚偽の供述は許されない」と告知した。

このとき、戦犯たちは改めて現実の社会に引き戻されたのである。

最初に提出された供述書は、多くが当局の要求とは大きな隔たりがあったので
全員に書き直しが命じられた。今度はその後に「もっと良く学習し認識を高め
なさい」の言葉が追加されていた。

このときには、既に戦争から十年以上の歳月が経っていた。

日時、場所、地名、人命など正確な記憶が定まらないこともあり、彼らは同じ
部隊、同じ職場にいた者でグループをつくり、管理所の告知の意味を討論し、
罪行にたいする責任のとりかた(記述すべき内容と記述方法)を語り合い、意見
を出し合った。――これが「認罪連動」「認罪学習」と呼ばれるものである。

再び同じ告知があった。「坦白する者には軽く、逆らい拒む者には重く臨む」
「罪行は事実のみを正確に記述し拡大や縮小虚偽の記述は許さない」と当局に
言われ、認罪運動は八ケ月に及んだ。

その間にも、検察側は引き続き一人一人を呼んでは審問を続行していた。収集
した告発状や物的資料を突き付けて追及することもあった。告発状には日時、
場所、人名まで明らかにされていた。その資料には、かつて戦犯自身が署名捺
印した書類や、カバンその他の物品までが持ち出された。彼らにとっては十数
年前の記憶は定かでないものが多い。彼らは、当局の資料に従って10年前の
記憶を書き出していた。

やがて供述書は受理され審問調査は完了した。

1956年(昭和31)春から夏にかけて、管理所当局は戦犯を3つのグループ
に分けて、東北地方(旧満州)の各地、続いて北京・天津・漢口・南京・蘇州・
上海の「参観」旅行を組織した。その観光と同時に、戦争の傷跡も見せて彼ら
の感情に訴えた。

撫順郊外や南京の雨花台の地で、現地の人々が日本侵略軍に

よって集団虐殺をうけた現場を訪れ、生き残った被害者の悲痛な告白の声を聞
いた。それは戦犯たちの心だけでなく、身体に対しても直接襲ってくるような
打撃であった。彼らは行く先々で生き残った被害者たちに土下座し涙にくれ、
赦しをこうた。

その被害者たちは、土下座してむせび泣く彼らに「再び戦争をしてはなりませ
ん、わたしたちは決して過去のことを忘れません。どうか皆さんも平和のため
に努力してください」の言葉を与えた。

被害者住民のこのような態度から、彼らは、共産党政府の平和教育と民衆の生
活が次第に向上し、安定した日々を送れるようになった事実を感じ取ったので
あった。前後一カ月に近い参観旅行が終わると、3回に分かれて、臨時に設け
られた法廷に呼び出された。

戦犯に対する判決が下された。「起訴免除、即日釈放」であった。

釈放された元日本兵たちは、既に戦争が終わってから10年以上の月日が経っ
ていたが、留学に来ていたような感覚に陥っておる、壊かしい学校を卒業する
ような思いにかられたそうだ。先生は「中国政府・中国共産党・中国人民」で
あり、生徒は管理所職員にさんざん手をやかせた自分たち「戦犯」であった。
ーーー1956年6月のことであった。

このようにして、元日本兵は戦後10年以上の間拘束され、すっかり心も頭も
共産主義に挿げ替えられて日本に帰国することになった。彼らは、「再び日本
軍国主義の復活を許してはならない」「日本は満州を侵略した悪い国」だとい
う見解に基づき、帰国後も日本国民と中国人民との友好関係のために貢献する
ことを生きがいとして、老体にムチを打って日本人に中国共産党と同じ見解を
述べているのである。それが彼らの平和運動なのである。

アジア太平洋戦争の終了後、アメリカ、イギリス、フランス、オランダなどの
連合軍、蒋介石軍、ソ連軍に捕虜となった日本軍人は100万を越える。BC
級戦犯に問われたものも数千人に及んでいる。東京軍事法廷や、アジア各地の
軍事法廷で多くの日本人戦犯が処刑された。BC級戦犯でも銃殺刑、絞首刑に
されたものが多くいる。

┌──────────「引用ここから」

中国の国民党政府(蒋介石政権)も、広東、台北、南京、漢口、徐州、済南、太
原、上海、瀋陽の10個所で裁判を行い、605件883人を裁き149人を
死刑に処している。

しかし裁判とは名目のみで、日本人被告に有利な証言は黙殺され、被告の反論
も相手にされなかった。人違いやえん罪、こじつけ、身代金要求、最悪の監獄
環境など、酷い裁判だったのは知られている通りである。

ところが清廉を喧伝されている中共党は、実はそれ以上に惨いものだった。

――― 中共の裁判

撫順監獄では一人も死刑にしなかった。また、多くの戦犯を不起訴にして帰国
させた。それに、有期刑の戦犯も、ソ連を含む今までの拘留期間をさっぴいて
計算するし、昭和39年には全員、満期前に返してやったり、中国人民はなん
て寛大なんだ!と、しきりに宣伝している。

確かに、1949年に中共党が支那全土を掌握した時には、各国のたいていの
戦犯裁判は終了した後であり、撫順と太原の戦犯に対して行なったのが最初で
最後だと思われている。

ーーーしかしそれは表向きの話であった。

山東省政府顧問だった園田慶幸氏は、昭和23年、中共により逮捕され済南監
獄の独房に放り込まれた。2年ほど経て、「反革命的行為」という罪名を告げ
られ、尋問と「学習」が始まった。しかし氏にはまるで洗脳が効かず、昭和2
9年、撫順戦犯管理所に送られた。8ヶ月でまた済南監獄に戻され、監禁が続
いた。

中共が、もはや国内には未決囚はいない、と世界に公言していた昭和32年、
氏の初めての審理が始まった。10年の刑が言い渡された。未決中の期間を考
えれば翌年釈放のはずが、4年間拘禁が続き、昭和37年また15年の刑が宣
告された。―――結局、釈放されたのは昭和38年で、18年間も幽閉されて
いたのだった。

憲兵准尉だった上村喜頼氏は、昭和51年まで北京に収容されていた。
陸軍伍長だった平井栄三郎氏は、昭和53年に釈放されたが、25才から58
才まで、実に33年間も獄中にあった。

八路軍は、進駐すると満洲各地で日本人を検挙し、「民衆裁判」で多数を処刑
した。以下は満洲で日本人に対して八路軍が行なったもので「事実として判明
しているものだけ」である。
┌--------------------

昭和20/09吉林省徳恵県 戦犯・反共者として13名処刑
昭和20/09間島省 民衆裁判により戦犯・反共者として28名処刑

昭和20/10本渓 民衆裁判により約50名を処刑
          撤退時、婦女子230名と男性10名を連行・行方不明

昭和20/11錦州 副市長など3名を銃殺

昭和20/12鉄嶺 戦犯として官吏など16名を処刑
昭和20/12安東 民衆裁判により約300名処刑
          戦犯として将兵6名を銃殺

昭和21/02通化 通化事件で戦犯として約700名を処刑

昭和21/03遼陽 戦犯として官吏など15名を銃殺
昭和21/03吉林省蚊河県 戦犯として日本人会会長夫妻を処刑

昭和21/04安東省昌図 民衆裁判により戦犯として3名銃殺
昭和21/04哈爾浜 反共者として30名処刑・270名行方不明

昭和21/05三江省糧川県 民衆裁判により26名を処刑
昭和21/05吉林 反共者として約50名を拉致・連行
昭和21/05長春 撤退時に反共者として1051名を拉致・連行

昭和21/06敦化 反共者として3名処刑
昭和21/06黒河街 反共者として約200名を殺害

昭和21/07延吉 戦犯として官吏など30名を処刑

昭和21/08哈爾浜 日本人会幹部800名を逮捕、30名を処刑

昭和22/10哈爾浜 日本人会幹部20数名を逮捕、階級敵とし2名銃殺

昭和24/04奉天省蓋平県 民衆裁判により戦犯として3名銃殺

└--------------------

中共党軍支配地区での裁判は判決文すらなく、民衆裁判で即決の死刑だった。
しかも、どのぐらい行われたのか、全体数も不明である。「反共分子」を罪名
とした凄まじい殺戮であった。

しかも戦時中ではなく、戦後に行われた処刑である。これこそ「戦争犯罪」で
あろう。侵攻したソ連軍は、日本人を「労働力」として連行する命令があった
ので、強姦・掠奪はやったが殺戮はしなかった。

満洲での日本人の虐殺は、支那の暴民と八路軍によって行われたのだった。

戦後の満洲で、医者や技術者は現地で家族共々留用され帰国できなかった。工
場や運輸などの生産設備を分捕った上に、人間までも拘束したのだった。それ
は国民党も中共党も同じであった。

長引く戦火で、中国国内では優秀な技術者が不足していた。もともと満洲の鉱
工業は、ほとんど日本人が建設運営していたので、日本人技術者を使うほうが
効率的と考えたのである。ーーーこれは、日本人をすみやかに本国に帰還させ
ることを謳ったポツダム宣言の主旨に明らかに反する。

└──────────「引用ここまで」

戦後抑留されて使用(留用)された日本人も、撫順戦犯管理所で洗脳された日本
人も、共に戦争の犠牲者である。ーーー中共の宣伝隊の如く現在活躍中の人々
だって、洗脳されてしまった戦争犠牲者なのである。一生懸命国の為に戦って
くれて、敗れてなお洗脳までさせられてしまった方々に対して、いったい日本
人の誰が非難することができるだろうか。

そうした洗脳の被害に幸運にも遭わずにすんだ日本人は、中共党の洗脳がどの
ようなものだったのか実態を知り、日本と国民党が戦争になったいきさつを学
んで、日本だけが悪いのではなく、国民党も共産党も共に戦争犯罪を犯してい
るんだという事実をきちんと理解してもらいたい。

                        = この稿おわり =
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