戦後の(元)航空兵たちの活動 ――――― by 爺さん
☆ あの時俺たちを攻撃したのはお前たちか? ――――― 2003/10/10
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│gosakuさんの「満州回顧録」と演出者 OJIN さんの熱働に感激しました。
│ OJIN さんならずも、私も毎回そばのテイッシュの箱が空になりました。
│
│小泉首相の「心ならずも、、」と言ってくれたひと言に幾分救われました。
│
│gosakuさんほどの筆力と頭脳があれば、みなさんがあまり聞かれたことが無
│いであろう予科練生活の楽しく辛い話など聞いて頂きたいのですが、記録も
│残していなかった為、もう全く忘却してしまいましたので、あまり知られて
│いない戦後の航空兵たちの動きの一部をご紹介します。
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――ハワイ真珠湾、戦艦「ミズリー号」艦上にて、かつての敵味方が握手――

59年前、ハワイ真珠湾奇襲攻撃をした日本海軍航空兵と、空襲を受けた当時
の米艦乗組員の生き残り(米側表現はベテラン)が、戦艦ミズリー号上で握手。
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│編集部注:アメリカ戦艦ミズリー号
│昭和20年9月2日、東京湾上において米軍兵士鈴なり環視の中、重光外務
│大臣が日本降伏文書に調印。
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この記念すべき行事に参加すべく、日本の各地から生き残り搭乗員とその家族
や遺族など総勢215名が参加し、12月2日、ホノルルホテルにて合流。
アリゾナ記念館館長ほか日米関係者から歓迎行事。

12月3日:休養。
12月4日:パンチポール米国国立太平洋記念墓地、マキキの丘日本人墓地
12月5日:日蓮宗別院、州知事訪問、アリゾナ記念館見学。
12月6日:午前、
ヒッカム空軍基地で、太平洋空軍司令部や開戦当時の日本空軍機銃掃射の跡や
大戦記念碑の説明、その間当基地下士官教育の教室で孫のような米兵に、昔の
日本海軍時代の話など聞かせ質問に応じている人もいた。

その後、ミズリー号上で、米ベテランと昼食会。

14時より式典開始。日章旗と米軍楽隊の「君が代」を大きく張られた「日米
友好の幕」をバックに、アリゾナ記念館・キャシー・ビリング館長の「今日の
式典は1941年12月7日の延長線上にある、この艦(ミズリー号)は、戦争
が終結し、平和が始まったところである」という挨拶から始まり、また、他の
来賓の「1人1人の歴史、物語が必要なのです。それを多くの人に話し、書き
留めて後世の人に伝え、平和を守りましょう」という言葉で締めくくられた。

この外、ハワイ滞在中、カネオヘ基地などで米軍ベテラン及び各地司令官より
歓迎を受けた。

――ハワイ真珠湾、アリゾナ記念館とは――

日本の攻撃で被害を受けた米
太平洋艦隊の艦艇は17隻。

戦死・行方不明者は合計24
02名。このうち1177名
が戦艦アリゾナの乗組員で、
1102柱の霊は今も艦と共
に海底に眠っている。

この、半分沈んだ戦艦と大勢
の遺体そのままを記念館とし
て真珠湾の現場に保存し、内外の観光客を誘致して記念品を展示、日本の奇襲
攻撃で多数の被害を受けた情況を説明している。

例えるなら、広島原爆記念館で原爆を投下したアメリカの非道を責めると似た
ようなものか。(今は変わったのかどうか?)

────この日米ベテランの握手までには、双方の並ならぬ尽力があった

その以前には、このアリゾナ記念館を訪れる日本人観光客に対してアメリカ人
観光客からはなにかというとブーイングを鳴らされ、記念館係員からは執拗な
注意を受けるなど、常に圧迫感があり緊張を強いられるような状況であった。

 ある観光客の話:
┌──────────
│ありがちな若い日本人女性の嬌声に、係員から「此処はグレープ・ヤードだ
│(墓地)!ここはパールハーバーだ!」と太い声で注意され、件の女性は震え
│上がってしまった。
│
│また映画説明会場で、チョット席でも立とうものなら「そこのジャパニーズ
│!座れ!」など、日本人は常にマークされている。
└──────────

 ある手記:
┌──────────
│「騙し討ちの日本」という汚名はアメリカでは既定の事実ということになっ
│ているので、アリゾナ記念センター内から、すでに気分は敵国人だ。黄色く
│て、日に焼けてなかったら大体日本人観光客と見なされ、愛国心をかき立て
│にやってきているミリタリーマニアの若者の恰好の餌食となることもある。
│
│ここは退役軍人のみなさんもいらっしゃる場所なので、当時日本と戦ってい
│たご本人が目の前にいる可能性だってある。冷たい視線を浴びるのは覚悟し
│て、気合いを入れて臨まないとつらいかもしれない。
└──────────

こうした状況を、たまたま記念館を訪れた真珠湾攻撃参加者の予科練生で組織
する「海原会」が知るに及んで活動が開始され、アメリカ側のベテランたちに
も理解を得るため、双方の関係者が日米を往来すること約十年の歳月を費やし
て、ようやく成し遂げられた快挙である。

その十年間には、双方のベテラン(旧兵士)たちが毎年のように互いの慰霊祭に
出席している。予科練先輩たちが米国の慰霊祭に出席し、日本では旧海軍飛行
予科練習生(予科練)発祥の地の土浦で毎年慰霊祭が行われているが、米国大使
館付武官や、ハワイや米本土からベテラン、英国武官なども毎年参列してくれ
ている。

1996年、
日本側が第1回日米ベテラン友の会の親善旅行で訪米、記念式典に参加。

1997年10月18日
その答礼としてアメリカ側が来日。
(従って2000年の握手は第2回目になる)

19日土浦「雄翔園」(予科練慰霊碑)
   慰霊祭に出席。

20日靖国神社昇殿参拝。(下段の写真)
20日在日米軍司令官ホール中将参列親善式典。

以下、

京都飛雲漢音(天竜寺)

広島原爆ドーム他見学。

27日成田発帰米。


日米英元兵士等による靖国神社合同参拝の画像はここをクリックして下さい
小泉首相の弁にもあったが、「心ならずも戦場に派遣された..」ベテランたち の間には、戦が終れば、お互い相手に敵意などあるはずもない。 しかし、この式典に日本の報道関係者も多数詰め掛けたが、彼らが靖国神社を 参拝するとのひと言で、その姿は潮が引くように消えてしまったという。 一部の地方紙か地方局は報道したところもあるように仄聞したが、仔細は不明 である。 戦った相手すら参拝するというのに、そこに眠る英霊の血涙に護られて今日あ る日本国の報道関係者のこのザマは、一体どのように理解すればいいのか!? ーーーマスコミ関係者の猛省を望むものである ────握手を記念して「日米友好の碑」建立。 日米両国旗を配し、両国語で書かれた、かつての敵国の友好碑を2基作り、 一基は米国太平洋国立墓地内に、一基は予科練発祥の地土浦「雄翔園」に建て られた。 ┌────────── │「雄翔園」紹介サイト:土浦武器学校訪問記土浦武器学校訪問記 〜予科錬 雄翔園・雄翔館霞ヶ浦−予科練記念館「雄翔館」を訪ねて自衛隊ニュース 2003年8月1日(6)陸上自衛隊武器学校(旧海軍予科練跡地)海軍飛行予科練習生 └────────── ────ハワイ・カネオへ基地は勇敢で名高い海兵隊基地である。 1941年12月7日、飯田房太海軍大尉はゼロ戦搭乗員として当基地上空で 空戦中、敵の防御砲火に被弾したため空母への帰投を断念し、地上の格納庫め がけて突入し自爆。これを見た米軍側は「敵ながら天晴れ」とその突入場所に 鎮魂碑を建立し、さらに、この話を同基地員の訓練教材にも掲載している。 ┌────────── │飯田房太: │第二次攻撃隊「空母蒼龍」制空隊 第三中隊 第一小隊 一番機 │ │大正2年2月11日生れ、山口県都濃郡富田町出身、 │海軍兵学校第62期出身、海軍中佐 └────────── ────ハワイには日本海軍の墓地がある布哇 マキキの丘 日本海軍墓地 写真提供:零戦搭乗員会 高橋希輔様 ハワイ・マキキの丘に広がる、1866年 建立の日本人墓地の中に「日本海軍墓地」 もあります。 日本軍艦の寄港は明治以来五十数度に及び 戦後も海上自衛隊が墓地改修のために立ち 寄っています。 昭和46年1月には、真珠湾攻撃で戦死した者の御霊を招魂合祀。
日本海軍 鎮魂碑
「鎮魂碑」碑文 ┌────────── │遠く萬延元年四月、日米修好条約批准書の交換の遣米施設護衛艦咸臨丸が帰 │国の途次、初めてハワイに寄港して以来、日本軍艦の来航は五十数回を重ね │在留邦人の権益擁護と日布(布=ハワイ)親善に寄与した功績はまことに大な │るものがあった。 │ │これら旧帝國海軍は各々その任務を全うしたが、中には不運にも任務半ばに │病のために倒れた将兵もあった。 │当マキキ日本人墓地は明治元年以来、ハワイ開拓日本人移民の縮図ともいう │べき由緒有る日本人最古の墓地である。 │ │マキキの日本海軍墓地には、明治九年日本海軍創設当時の帝國海軍軍艦初代 │筑波二等若水夫荒川又十郎ほか明治三十二年までの間に病没者十六柱の英霊 │が埋葬されている。これが海外における日本海軍最初の墓地であるが、爾来 │幾星霜、茲に壱百年、墓標は傾き霊域は荒廃し、見るに忍びないものがあっ │た。 │ │依って我々同志相諮り日本朝野関係各位の賛同と当地日系有志諸士の協力の │下に「明治元年移民渡航者の碑」と共に墓地改修を発願し、ハワイ海域に眠 │る無名諸英霊をも招魂し茲に鎮魂碑を建立、史跡を保存し記録を永く後世に │伝え、以って太平洋永遠の平和とこれら諸霊の冥福を祈念するものである。 │ │昭和43年日系同胞寄付金を募り、新規に海軍墓地を買い求め、海上自衛隊 │から石碑石材の提供を受け海上自衛隊艦船によってこの地に運ばれ昭和45 │年完成。 │ │ーー 合掌 ーー └────────── 海上自衛隊が訓練航海でハワイに立寄る際は、必ず国立太平洋記念墓地と日本 海軍墓地に参拝している。                            = おわり =
「青島海軍航空隊の終戦」の記事を読む
┏━┳━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┃┃ この記事にご意見を頂きました。 ┗━┛ ┌──────────「gosakuさん」男性@七十代@自営業@愛知 ーーー真珠湾攻撃は“だまし討ち”なのか? 極東国際軍事裁判の中、只一人インドのラダビット・パール博士判事の判決書 によれば「日本が真珠湾攻撃を行ったのは、アメリカの仕掛けたワナにはめら れたからだ。日本が開戦を決断したのはその殆どが安全保障=自衛)のためで あった」と結論付けています。 少数意見として取り上げられることはありませんでしたが、日本の近代史が見 直されてきた中、注目すべき意見ではないでしょうか。 最近、当時のルーズベルト大統領は、日本艦隊がハワイに近づきつつあること を知りながら、アメリカ側が探知したことを(日本側が)知って引き返す可能性 を怖れ、ハワイへ新たな命令を封止した(エドガー・フーバー情報局長官の談 話についての証言)という説が強くなっています。 おそらくルーズベルトは、ある規模の奇襲艦隊が刻々とハワイに近づきつつあ ることを承知しており、そしてハワイにはすでに警戒命令が発せられている以 上、地上航空による反撃によって日本艦隊に相当の損害を与え得ると判断し、 この日本艦隊の奇襲攻撃により、アメリカ国民を“孤立主義”から引っ張りだ すために、むしろそれを歓迎したフシが強い。 ーー以上 gosaku の私見です。 米国は開戦前の十一月二十六日、日本に対し最後通牒を突きつけた。 その第三項に「日本は中国及仏印の全土から陸海軍と警察力を全部撤収するよ う」要求した。これは明らかに日清・日露両戦役の結果、日本が正当に得た権 益を捨て去ることを要求するもので、この要求は宣戦布告と同様である。 米国は11月27日、前哨地帯の諸指揮官に対し戦闘体制に入るよう秘密指令 を発した。米国は事実上この日に対日戦争を開始した事になる。米国議会はこ の事実を知って非常に驚き、上下両院合同の査問委員会を結成して軍部の挑発 行為を激しく非難した事実がある。 大東亜戦争は誰が仕掛けたのか。ーー侵略戦争であったのか防衛戦争であった のかは一目瞭然であります。 注:仏印=旧フランス領インドシナ(現在のベトナム・ラオス・カンボジア)。 └────────── ┌──────「しゅうさん」男性@三十代@会社員@神奈川 2004/06/21 2004年6月4日、父の念願であったパールハーバー訪問を果たしました。 父は第二次世界大戦で、敵国アメリカとフィリピン沖で死闘を繰り返し、撃沈 された海軍軍人でした。いまでも、左足の大腿部に甲板で負った弾の痕がくっ きりと残っています。 降り立ってわかったことですが、あまりにも悲惨な状況がドキュメンタリーの ように目に飛び込んできました。日本人で、戦争を知らない私でさえ、何故か 「ここにいてはいけないのではないか?!」という衝動を覚え、明らかにここ は観光地ではないということを悟りました。 父は、この場所でだけ写真を撮りませんでした。又、大きな碇の前で家族写真 をと思いましたが、「敵艦の碇前での写真など言語道断!」と言われてしまい ました。ーーー人の心の中には、それぞれ忘れられない怒りや苦しみを抱えて 生きている人が沢山いるのだということを再認識させられた一日でした。 ーーー真珠湾で戦死された英霊に対し、心よりご冥福をお祈り申し上げます。 └────────── ┌───「suzuki takeshi tさん」男性@七十代@その他海外 2006/09/11 1959年に渡米したわたしは、1981年初めて真珠湾を訪問しました。 観光地ではなく、戦没者記念史跡という感じがしました。丁度12月7日であ りました。冷静な戦争の見方で荘厳さがありました。日本人の参加は私一人だ けでした。 アリゾナ記念艦の中で、まだ艦底にうずまる1100名の乗務員の遺体を想像 しつつ、黒い縁、黒いリボンの、当時の真珠湾攻撃に関与した日本と米国の将 官の大きな遺影が飾られていました。 日本側は山本連合艦隊司令長官、南雲ハワイ攻撃機動部隊長官、もう一人の写 真は誰だったか思いだせません。米国側の三枚は、キングハワイ防衛海軍司令 とマーシャルハワイ諸島防衛陸軍司令、もう一人はやはり忘れました。 戦後の平和友好親善は、昨日の敵は今日の友という如く、両者の武人への尊敬 と崇拝でした。当時、日本のどの神社仏閣、戦争記念碑でも両者の武勲を称え る記念碑とか写真をみたことはありませんでした。どうやら1970年代から 少しずつ見えてきたもののようです。 今、中国や韓国でスポーツの試合を観戦すると、これらの国の殆どのファンは 日本の相手国の応援のみで、日本チームにはブーイングだけです。 1959年に日本大学選抜が「Santa Barbara」に来て親善試合をしました。 日系二世はやはり米国チームを応援していましたが、日本チームのファインプ レーには必ず大声で称賛し拍手をしていました。たったこんな小さな事ですが 簡単ではありません。米国を学んだのはこの小さな感激からでした。 長野県の町に冬季オリンピック決定とIOCが発表した時、その町の町長が感 激して立ち上がり拍手をしていたが、選考に敗れた国々の代表は情けない顔を しているだろうと見廻したら、全員が立って自分に拍手をしてくれていたので 恥ずかしく感じ、それから、国際化しなければいかんと痛感したそうです。 └────────── ┌──────────「爺さんから」 Suzuki Takeshiさん、ご意見ありがとうございます。仰るとおり、人々が自覚 を持って国際化できれば、いろんな紛争も防止できるのではないでしょうか。 欧米諸国など、情報が開かれた自由諸国の国民でも その国の政府にとって都 合の良い事しか知らされていない。閉ざされた国の国民でも、開かれた情報を 得て外から自分をみることが出来る人々は、ある程度ナショナリズムを超えて 寛大な考え方を表現できていると思います。ーーーアリゾナ記念艦の中で日本 人女性を叱咤したアメリカ男を、眉をしかめて見つめていたアメリカ人も居た のではないでしょうか。 「自分の息子が、夫が、日本軍に殺された」という言葉は、アメリカ人やオラ ンダ人からも聞いたことがあります。しかしよく聞いてみると、戦争で戦死し ているのです。戦死した本人たちは、殺されたとは思っていないと思います。 若い頃、戦後20年ごろから約20年間、仕事の関係で東南アジア各地で活躍 している華僑や印僑、その他の住民と交際がありました。日本軍が来てくれて 良かったと言ってくれる人が居た反面、「私の父や母は日本軍に殺された」と 言う人達も少なからず居りましたが、心を広く持って付き合ってくれました。 そういう人達は、その国が情報制限をしていても、外国人と付き合うことで何 らかの方法で世界の情報を手に入れて、自分をその中に入れて見ることができ たのだと思います。 お話の中国人や韓国人も、なかには眉をしかめながら自国の民のブーイングを 聞いている人も多々いたのではないでしょうか。 └────────── ┌―――――――――――――――――――――――――――――――――┘ └→ 感想や激励をよろしくお願いいたします。
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