┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━  迷子になったらここ!(^O^)  ━┓
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┃ 満州青春録 :―――――――――――――――― by 松本進さん

☆ ソ連軍占領・奉天から安東へ ―――――――――――― 2003/11/07

戦争に負けてしまった。これからどうなるのかわからないうちにソ連軍が戦車
とジープで入ってきて、飛行機、銃等の武器、工具、機械などを全部引き渡せ
という命令が出た。ソ連は日ソ中立条約を無視して、日本が無条件降伏をする
直前の八月八日に宣戦布告し、朝鮮、満州に侵入してきていた。

数日かかって部品や工具を拭きあげ、飛行機や自動車もきちんと並べてソ連軍
に引き渡した。それからは、心配していた捕虜になることもなく、何をするこ
ともなく毎日敷島宿舎でブラブラしていた。

私達がなぜ捕虜にならなかったのか、その辺の事情はよく分からない。奉天の
私達は無事だったが、錦州にいた同期生は捕虜になり、その後シベリア送りに
なったらしい。二三七部隊のほとんどは捕虜にはならなかったと聞く。

「お前たちは自由にしろ」ということで、何百人もいたはずが知らないうちに
二、三十人になってしまっていた。

私達は、とりあえずどこへ逃げるというアテもなく、毎日遊んでいた。倉庫に
忍び込んで落下傘の布を切ってマフラーにしたり、靴や飛行時計を身につけて
格好よくなるように工夫した。戦争中は忘れていたが、若者らしさを少し取り
戻したような気分であった。

倉庫はたくさんあり、どこの建物になにがあるのか分からなかったが、ソ連兵
も全部を監視はできなかった。次々と監視の目をかいくぐり危険を承知で出掛
けていった。もし帰ってこなければ撃たれて死んだと思わなくてはならない。

私も米田君と二人で午後三時頃出かけた。

ある倉庫の前に来ると、入り口に足跡がある。先に来た連中が忍び込んだに違
いない。急いで入り戸を閉め、黒いカーテンを引いた。見つかりはしないか、
外の気配ばかりが気になる。

「エライ臭いのう」
「おお、臭いのう」

そのうちシュシュ、シュシュと音がしだした。そこはマッチの倉庫だった!!
先に入った者が間違って箱を開け、マッチだとわかって床に落して行ったらし
い。それを私達が踏んだため火が付いてしまった。

慌てて足で踏み消そうと歩き回ると、マッチを踏んづけてさらに火が付く。

煙が外に出るとソ連兵に気付かれ撃ち殺されるに違いない。黒いカーテンを引
き剥がし、外の水槽に浸けて燃えるマッチの上に広げ火を消した。倉庫の中は
煙でいっぱいになった。私達は窓から逃げ出し、走って二つ向こうの部品倉庫
に入った。

五十メートル以上の長い倉庫で、ここには部品を並べた棚が何列も長く並べら
れていたが、人の声が聞こえたので慌てて下から三段目に滑り込んで隠れた。

入り口辺りで話している声が倉庫の中によく響く。そのうち声の主がこちらに
近付いてくる。

「ソ連兵だッ!」

コツコツコツ......生きた心地がしない。......気が遠くなりそうだ。

やがて足音はだんだん小さくなり、倉庫から出ていった。しかし夜になるまで
ここから出るのは危険だ。緊張感が緩んだのか、それからグッスリと眠ってし
まった。

チュンチュンという鳥のさえずりで目が覚めた。

「米田、帰るか。昼になるとまずい」
「よし、帰ろう」

私達は鉄の柵の所まで足音を立てないように急いだ。柵の内側には飛行機の古
タイヤが山のように積み上げられていた。戦争中、飛行機のタイヤはスリップ
しないように溝がすこしでも減ると廃品にしていたのだ。

柵の外には中国人が二、三人いる。その中国人が私達に金を見せて、そのタイ
ヤを売ってくれと言う。タイヤ一個が一円だという。私と米田君は汗だくにな
りながら柵の外にタイヤを運んだ。

初め二、三人だった中国人が二十人ぐらいに増え、どんどんタイヤを取ってい
く。私はマフラーを広げて、お金をそこに入れてもらった。抱えきれないほど
の大金だった。

宿舎のみんなは、私達が帰ってこないので死んでしまったものと思っていたら
しい。もう少しで我々の持ち物はみんなに分けられてしまうところだった。

私達が、中国人に古タイヤを売り儲けたお金を見せるとみんなさらに驚いた。
米田君には止められたが、私はそのお金をバケツに一杯ずつ他の部屋の者にも
分けてあげた。生きるも死ぬも一緒、お互いさまではないかと思ったからだ。

それでもまだまだ私の手元にはかなりの金が残っていた。私はマフラーにその
お金を包み、台の上に置いておいた。お金は遣うわけではないのに、日に日に
少なくなっていく。ちょうど財布に入るぐらいになったので懐にしまった。

そのうち、中国人が日本の民間人の家を襲うという暴動が起き、家財を盗られ
た日本人が私達の兵舎に逃げてきた。女の人はほとんど夫が戦地に行ったまま
安否も分からず、生きる希望も持てずにいるようだった。

何日かはそこにいたが、食料も少なく、近くの寺や小学校に移っていった。

敗戦の時海外にいた日本軍人は三百五十万人。また一般居留民が三百五十万人
の合わせて七百万人の日本人が、財産を失ったうえ引き揚げることになった。

特に悲惨だったのは満州からの引揚者で、飢えと病気でたくさんの人々が亡く
なられた。飢えて死ぬよりはと現地の人に子供を託したり、またはぐれたりし
て多くの残留孤児をうむ結果となり、現在まで問題を残している。

治安は最悪となり、我々もいつまでも奉天にいるわけにもいかず、八月の末に
移動することになり、南下して安東=現在の丹東市)に向かうことにした。

奉天駅には他の日本人と共に行った。女の人は顔に墨を塗り、男のような身な
りであった。女性だと分かるとソ連軍に乱暴されるからであった。犠牲になっ
た人も少なくない。汽車に乗る時は四列になった女の人を中に入れ、外側を男
の人が取り囲んで乗りこんだ。

駅には何百人という中国人がいて、少しでも隙があると荷物などをむしり取ろ
うとする。汽車にはスシ詰め状態で押し込められたが、故障だといってなかな
か動かない。運転手に賄賂を渡さないと動かないのだ。

やっと動き出したと思ったら、政府軍が乗り込んできて時計など金目のものは
盗られてしまうし、病人も出てきた。いつもなら奉天から安東までは六時間半
ほどの旅だが、この時は二日もかかった。

汽車のなかはあまりの混雑で、女の人も子供も、もちろん座ることなどできな
い。すごい暑さだ。思いついて、数人で汽車の屋根に上がった。風が吹いて心
地よい。しかし幾つかトンネルを抜けるうちに、顔が真っ黒になった。目と歯
だけが白い。安東に着いてお互いの顔を見たが、おかしくてゲラゲラ笑ってし
まった。

汽車から降りてから顔を洗ったが、ススはなかなか落ちなかった。

                           = つづく =
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┃┃ お便りで頂きました感想。
┗━┛
┏━━━━━━━━━━「トロロさん」

「ソ連軍占領・奉天から安東へ」冒頭部分にこうあります。

「ソ連は日ソ中立条約を無視して、日本が無条件降伏をする直前の八月八日に
 宣戦布告し、朝鮮、満州に侵入してきていた。」

わが国軍隊は「ポツダム宣言」に従って無条件降伏しましたが、政府(国家)は
無条件降伏を要求されておらず、また無条件降伏はしておりません。
これは重要な点です。

ポツダム宣言は「五 吾等ノ条件ハ左ノ如シ」として連合国側の(戦争終結の
ための)条件を列挙しています。それらは厳しいものでしたが受け入れ可能で
した。

――ただ、宣言では天皇の地位については触れられていませんでした。

8月10日、御前会議は「天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包合しお
ざることの了解の下に」ポツダム宣言を受諾する旨の申し入れを、今度は日本
が連合国に対して行ないました。
8月12日、回答(バーンズ回答)が寄せられます。

――この回答の評価を巡って閣議は紛糾。結論が出ません。

8月14日、昭和天皇の聖断によって終戦が決定され、「終戦の詔勅」が発せ
られます。この詔勅に全閣僚が副署。正式に国策となりました。
翌15日、玉音放送。
9月2日、米戦艦ミズリー号上で、降伏文書調印式。

この日をもって大日本帝国は、国際法上正式に連合国に対して降伏したことに
なります。日本は国際法上、通常の降伏をしたにすぎません。

では、なぜわれわれは、つい「無条件降伏」と言ってしまうのでしょうか。
犯人が逮捕される時に条件をつけるはずがないし、また許されません。
アメリカ(連合国)=警察官、日本=犯罪者というイメージを、我々の頭の中に
つくり上げられたためです。

アメリカ占領軍とそれに追随したマスコミ、日教組教育の結果です。
┌──────────
│編集部注:ポツダム宣言
│(出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
│
│ポツダム宣言は、1945年にドイツのポツダムにおいて、ポツダム会談の
│最中、アメリカ(トルーマン)、イギリス(チャーチル)、中国(蒋介石)の三国
│の首脳が共同で7月26日に日本に対して発した降伏勧告の宣言である。
│宣言を発した各国の名をとって「米、英、華三国宣言」ともいう。 
│
│会談に加わっていたソ連は、日本に対して中立の立場をとっていたため宣言
│に加えられなかった。ソ連が内容を知ったのは公表後であったためスターリ
│ンは激怒したという。8月8日に対日宣戦布告してからソ連も宣言に加わっ
│た。 
│
│宣言の骨子は下記のとおりである。 
│
│日本国軍(注:政府ではない)の無条件降伏、及び日本国政府によるその保障
│占領地の放棄(日本国領土の限定)
│平和的傾向をもつ政府であることを前提とした独立維持の確約
│
│ポツダム宣言を受けて、日本政府の内部で激しい議論が起こった。
│争点になったのは、天皇制維持(国体護持)について言及されていなかったこ
│とであった。結局、日本はポツダム宣言の黙殺を決めた。
│
│天皇制に関し、(アメリカ)国務次官グルーと陸軍長官スティムソンによる起
│草段階では天皇制維持の条項が含まれていたが、当時はアメリカ政府内でも
│その是非について見解が定まっておらず、最終案では削除されていた。
│
│当然ながら、当時の両陣営ともこうした相手側の内部事情を察することはな
│かった。 
│
│日ソ中立条約を結んでいたソ連が参戦したことに衝撃を受けた日本は、8月
│9日の御前会議で「国体の護持」を条件に受諾を決定し、10日に連合国に
│伝達した。返答したアメリカは、日本政府の政体は日本国民が自由に表明す
│る意思のもとに決定されると、宣言の内容を繰り返した。
│
│国体がどうなるか曖昧なまま、日本は14日の御前会議で改めて宣言受諾を
│決定した。15日正午、玉音放送(天皇の声を"玉音"と言った)により、日本
│国民と陸海軍に降伏が伝えられた。 
└──────────
┗━━━━━━━━━━
 
┏━━━━━━━━━━「gosakuさん」―――――――――― 2003/11/21

トロロさんの感想文に関して。

たしかに「ポッダム宣言」は“有条件降伏”でした。

ポッダム宣言の主たる項目。
┌──────────
│第 6項 平和・安全・正義の秩序
│第 7項 戦争遂行能力の破砕
│第 8項 領土・主権の範囲
│第 9項 完全な武装解除と家庭復帰
│第10項 戦犯処罰と言論・宗教・思想の自由
│第11項 賠償のための産業維持と軍事産業の禁止
│第12項 平和的で責任ある政府樹立・占領軍の撤収
│第13項 日本軍の無条件降伏についての政府の保証
└──────────
「我等の条件は以上の通りである、我々はこの条件より逸脱することはない」

上記のように、連合軍はこれらの条件を逸脱して要求も強制もしないと明言し
たにも関らず、実際には再侵略の予防などと称し、神道は国家や政府との関連
の一切を断たれ、「大東亜戦争」という呼称をはじめ、国家主義を連想させる
用語の全てを禁止し、かつ占領目的を批判する一切の言論を禁止しました。

その報道管制は30項目にも及び、徹底且つ厳重を極めました。

敗戦の責任は複雑です。軍人だけに押し付けるのは分かり易いようですが単純
過ぎる見方で、それ以前に政治家の腐敗や財閥への不信感なども大きな要素の
ひとつでしたし、なにより軍人は、征戦4年、酷寒炎熱の中で勇戦敢闘、また
銃後の国民も一致団結、挙国一体となって困苦欠乏に耐えました。

前日までは「必ず勝つ!」「鬼畜米英は不倶戴天の敵」と戦争を扇動していた
ジャーナリズムは占領軍の徹底した報道管制のもと「悪いのは一部の指導者と
軍人にある」、国民は「無罪」いやそれ以上に「被害者」であるとする論調に
転向しました。

死に物狂いで国の教えに従ってやってきた戦前、戦時の全てが悪く間違ってい
た、だから捨て去らなければならないという風潮が醸成されて、老いも若きも
男も女も、みな自信を喪失し、茫然自失なすべきところを知らない状態におか
れました。

マッカサーはこのように、日本軍の武装解除を急ぐと同時に、日本人の“精神
的支柱”を打ち砕くための施策実施を急ぎました。彼は日本のかつての指導者
たちを裁き、日本人へ見せしめとする事、そして日本軍の犯した数々の"蛮行"
を白日の下に曝すことによって日本人のいわれなき誇り--彼にはそう思われた
--を粉砕しなければならない、と考えたのです。

占領軍によって、かつての大本営発表の赫々たる戦勝報道は「全て嘘だった」
と次々に発表され、また夥しい日本軍の暴虐発表に仰天してしまいました。

しかし史上はじめての敗戦の体験に茫然といていたうえ、あまり疑うことを知
らなかった日本人は、このような報道には宣伝と誇張がふんだんに含まれるも
のであることに気づかず「戦争に関してはすべて日本が悪かった」と思い込む
ようになってしまいました。

長く、厳しかった戦争の体験で、軍は国民に嫌われるようになっていましたし
また、日本人のなかに明治以来ひそんでいた欧米崇拝の感情が占領軍の発表を
受け入れやすいものにし、それでもなお納得のいかない思いはあっても、日本
は敗けたのだから仕方がないと諦めて、それ以上深く考えることを停止してし
まったのだと思います。

いずれ、お話したいと思っていますが、

1.真珠湾の騙まし討ち
2.日本が侵略した
3.日本軍は残虐だ
4.南京大虐殺
5.バターン死の行進

などが、日本の近代史を歪曲しているものだと認識しています。

なお恥ずべきことには、日本人でありながらそうした論調を煽る厚顔無恥或は
無知蒙昧な連中がいることではないでしょうか。

┗━━━━━━━━━━
 
┏━━━━━━━━━━「NOGUさん」――――――――――― 2003/11/21

あまりにひどすぎるので反論します。

ポッダム宣言の主たる項目。
┌──────────
│第 6項 平和・安全・正義の秩序
└──────────
「我等の条件は以上の通りである、我々はこの条件より逸脱することはない」
上記のように、連合軍はこれらの条件を逸脱して要求も強制もしないと明言し
たにも関らず、実際には再侵略の予防などと称し、神道は国家や政府との関連
の一切を断たれ、「大東亜戦争」という呼称をはじめ、国家主義を連想させる
用語の全てを禁止し、かつ占領目的を批判する一切の言論を禁止しました。

反論1:
ポツダム宣言第6項には
「日本国国民を欺瞞し、これによって世界征服をしようとした過誤を犯した者
の権力及び勢力は、永久に除去されなければならない。」
・・とありますから、連合国が行ったことは当然でしょう。

いいですか。「権力」だけでなく「勢力」を「永久に除去」することを日本が
受諾しているのです。
ポツダム宣言から見れば、連合国が行ったことはあまりに不十分でした。

天皇制や神道の廃止が不可欠であり、また処刑された戦犯もあまりに少な過ぎ
ましたが、米国は「日本を反ソの城塞とする」という意図を持っていたため、
軍国主義勢力を温存したのです。

そのために、あなたのような妄言を吐く連中がいまだに残っているのです。

敗戦の責任は複雑です。軍人だけに押し付けるのは分かり易いようですが単純
過ぎる見方で、それ以前に政治家の腐敗や財閥への不信感なども大きな要素の
ひとつでしたし、なにより軍人は、征戦4年、酷寒炎熱の中で勇戦敢闘、また
銃後の国民も一致団結、挙国一体となって困苦欠乏に耐えました。

反論2:
多くの反戦義士が獄中にいたことをご存じないようですね。

前日までは「必ず勝つ!」「鬼畜米英は不倶戴天の敵」と戦争を扇動していた
ジャーナリズムは占領軍の徹底した報道管制のもと「悪いのは一部の指導者と
軍人にある」、国民は「無罪」いやそれ以上に「被害者」であるとする論調に
転向しました。

反論3:
これはきわめて大きな問題です。
日本人自身が反省せず、責任を軍部に押し付けてしまったために、あなたのよ
うな軍国主義者がいまだに温存されているのです。

死に物狂いで国の教えに従ってやってきた戦前、戦時の全てが悪く間違ってい
た、だから捨て去らなければならないという風潮が醸成されて、老いも若きも
男も女も、みな自信を喪失し、茫然自失なすべきところを知らない状態におか
れました。

マッカサーはこのように、日本軍の武装解除を急ぐと同時に、日本人の“精神
的支柱”を打ち砕くための施策実施を急ぎました。彼は日本のかつての指導者
たちを裁き、日本人へ見せしめとする事、そして日本軍の犯した数々の"蛮行"
を白日の下に曝すことによって日本人のいわれなき誇り--彼にはそう思われた
--を粉砕しなければならない、と考えたのです。

反論4:
日本が受諾したポツダム宣言にあるとおり、軍国主義勢力を「永遠に除去」す
るために日本人を思想改造することは当然です。

占領軍によって、かつての大本営発表の赫々たる戦勝報道は「全て嘘だった」
と次々に発表され、また夥しい日本軍の暴虐発表に仰天してしまいました。

しかし史上はじめての敗戦の体験に茫然といていたうえ、あまり疑うことを知
らなかった日本人は、このような報道には宣伝と誇張がふんだんに含まれるも
のであることに気づかず「戦争に関してはすべて日本が悪かった」と思い込む
ようになってしまいました。

反論5:
宣伝と誇張ってなんですか?
むしろ日本が行った戦争犯罪は戦後にもごく不十分にしか報道されなかったこ
とが真実ではありませんか?

強制連行や性奴隷の問題など最近になってから本格的な研究が始まりました。
日本が行った戦争犯罪は、敗戦直後はわずかしか知られていませんでした。

いずれ、お話したいと思っていますが、

1.真珠湾の騙まし討ち
2.日本が侵略した
3.日本軍は残虐だ
4.南京大虐殺
5.バターン死の行進

などが、日本の近代史を歪曲しているものだと認識しています。

反論6:
1は、日本側の手違いで宣戦布告が遅れたものであって、日本側に「だまし討
ち」の意図はなかったようですが、手違いは日本側の責任でしょう。

2や3のどこが間違いなのか。

4と5は何ですか?
南京大虐殺は無かったなどという妄言は、ホロコースト否定論と同様の歴史修
正主義です。欧州諸国では歴史修正主義は刑事罰の対象になっていますよ。
日本でもそうすべきですね。

なお恥ずべきことには、日本人でありながらそうした論調を煽る厚顔無恥或は
無知蒙昧な連中がいることではないでしょうか。

反論7:
そうです。あなたのような厚顔無恥な軍国主義歴史修正主義者が存在すること
は日本の恥です。

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└→ 感想や激励をよろしくお願いいたします。 

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