投稿記事
☆ 私の中の小林よしのりの凋落 ―――――――――― 2008/07/21
                       by 尊野ジョーイさん

小林よしのりのゴーマニズム宣言は、かつての輝きを失って迷走を続けていま
す。もともと極左思想の持ち主だった私が保守思想に転向したきっかけがゴー
マニズム宣言でした。

ーーーそれまでは天皇制も否定していたし、高校の時には国歌の斉唱を拒否し
ていた――――。

もともとサヨク思想の持ち主だった小林は、初期の頃はサヨク的な言説のゴー
マニズム宣言を描いていた。それが、つくる会の運動に参加する課程で、だん
だんと保守思想に目覚めてきました。

私も、小林が成長するのと合わせて、自分自身の思想も進化していきました。

そうです、ゴーマニズム宣言は、小林自身の成長とともに読者も成長していく
マンガだったのです。

その頃の小林には謙虚さがあったので、まだ成長する余地があり、そのつど新
たな思想的成長を示していました。

そこまでのゴー宣は健全であったと思います。

それがどこで間違えてしまったのか、小林自身の勘違いで、自分が偉いと尊大
な精神を持つようになってしまったのです――――。

それからのゴー宣は、かつての健全さを失い、頑迷で尊大で虚栄に彩られた見
苦しい内容に変質しました。

それまでは、どんなに間違っていても、それを反省して、新たに成長してきた
ゴー宣でしたが、そしてそれが魅力でしたが、そのゴー宣の長所がなくなって
しまっては、とたんに色あせたプロパガンダのような存在になってしまいまし
た。

ーーーかつてのゴー宣の輝きを知っているだけに、今の状況が非常に残念に思
えてなりません。

私は、小林に反省を促す手紙を書いたりもしましたが、それを素直に聞いてく
れる心の余裕は彼にはないのでしょう。ここはもう、晩節を汚すぐらいなら、
いっそのこと連載の打ち切りを望みます。

過去の栄光を残したまま、既存の思想をマンガで伝える=新たに創造すること
はできないけど)というゴー宣の役割を終えて欲しいと切に願います。

ところで、ゴー宣の当初の目的は「現実を物語化」することでした。

これだけシラケきったつまらない世の中を、何とか生きがいを持てる面白い世
の中にしようというのが初期のゴー宣の目的だったはずです。そして、マンガ
という手法によってそれは成功していたと思われます。ーーー薬害エイズでの
人集めの成功など。

それが、自分の分を弁えずに、漫画家であることに満足せずに、思想家になろ
うとして「わしズム」などを始めたのが間違いの始まりであったと思います。

それまで、思想家としての訓練をしてこなかったのに、にわか仕込みで一朝一
夕に思想家になれるわけがないのです。出来ないことをやろうとした、身の程
をわきまえなかったのが、今の惨状を招いた元凶でしょう。

いま、彼に言葉を送るとしたら、「もう一度、初心に戻って、漫画家としての
使命を再認識して下さい」と言いたいですね。

漫画家はあくまでも漫画家であることに誇りを持つべきであり、思想の解説を
してもいいかもしれないけど、自分自身が思想家になろうなどと思い上がった
行動は厳禁です。

ちなみに、小林が没落を始めたきっかけは、小林が西尾幹二先生を理解できな
かったことが大きく関係していると思います。

ーーー最初に小林と西尾先生が対立したのは、台湾に関する論考でした。

台湾独立派の思想的な甘さを厳しく批判した西尾先生に対して、小林が激しく
反発しました。

この時、私はどうしたかというと、西尾先生の意見に賛同したのです。

ここから、それまでは思想的に小林に導かれる立場であった私が、小林からの
独立を始めた端緒でありました。それから私は、思想的には小林から離れて、
西尾先生のほうに傾倒することになります。

私は新たに成長したのですが、小林の成長はここまでが限界だったようです。

余談ですが、

私が西尾先生の台湾に関する論考について感想を手紙に書いて送ったところ、
何と賛同してくれて、ありがとうという手紙を頂きました。

郵便受けに「西尾幹二」と書かれた封筒を見つけた時は、本当に驚愕したのを
今でもはっきりと覚えています。西尾先生ほどの人が、当時は25、6歳だっ
た若者の書いた手紙を、まさか真剣に読んでくれるとは思っていなかったから
です。

さらに驚いたことには、ある日曜の朝、電話が鳴ったので出てみると、低い声
で「西尾ですが○○さんはいますか」というではありませんか。

私は思わず「に、西尾先生ですか!?」と叫んでしまいました。

何事かと思っていると、何と畏れ多いことに、私の書いた手紙を自分の論考に
引用したいので、その許可を求める電話だったのです。ーーー私の住所から、
わざわざ電話番号を調べたらしい。

ここで私は即諾することができず、しばらく逡巡することになりました。

引用してもらえるのはありがたいのですが、当時は大学院生だった私は、社会
学という極左の集まっている学問分野を専攻していたので、当時つくる会の会
長である西尾先生と懇意であるということが知られると、自分の将来に対して
不利益が生じるかもしれないという保身の心が働いたのです。

もう少しで「いや、掲載するのは待ってもらえますか」という言葉がのど元ま
で出かかっていました。

しかしすでに、雑誌(正論)へ寄稿は終わっていて、印刷も終わって後は発行す
るだけの段階になっているとのことーーー。せめて匿名にしてもらえないかと
言おうと思ったのですが、それも無理という状況でした。

〜〜〜西尾先生も、もっと事前に電話してくれれば良かったのに。(苦笑)

今から掲載を拒否すると、印刷をやり直したりして迷惑がかかるなぁと思った
私は、苦渋の選択として掲載を許諾したのでした。

今から考えれば、西尾先生に引用してもらえるなんて名誉は滅多にないのです
から、最初から快諾しておけば良かったのですけどね。

しかし、当時、私が西尾先生の支持者であるということで、指導教官から嫌が
らせを受けたりとか、他の教授にも嫌みを言われたりとか、さんざん嫌な目に
会っていたので、極左教授にほとほとうんざりしていたので、それも無理から
ぬことではなかったかと思います。

今は誇りに思っていますが、私の書いた手紙は、西尾幹二著『国を潰してなる
ものか』「私の台湾紀行」の307P〜308Pに引用されています。

今、改めて読み返してみると、稚拙な文章ではありますが、我ながらなかなか
鋭い指摘をしているなぁと感じました。(^^ゝ

                           = おわり =
┌―――――――――――――――――――――――――――――――――┘
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