ラオスからの手紙 ―――――― by 桜ちゃんのパパ
☆ アーコンコンと客家語 ――――――――――――― 2007/05/16
┌--------
皆様お元気ですか?桜ちゃんのパパです。ご無沙汰いたしました。

昨年、我が家に起こった大事件はサヨナラ「アーコンコン」ラオス語には「空
を支えられなくなる」という表現がある。日本語に訳すると「天寿をまっとう
する」になると思う。アーコンコン[オジイちゃん]が、とうとう空を支えられ
なくなったのだ。

淑珍の父=義理の父)が亡くなったのを知ったのは、福岡のホテルでである。
ちょうど仕事で日本に帰って来て、出張で九州に行っていた時である。川崎の
父より電話で「淑珍のお父さんが亡くなった」と連絡を受けた。
2006年7月28日、廖松發、享年86歳(ラオス生まれの華僑、客家人)
└--------

そういえばアーコンコンはラオス語がほとんどできなかった。家族との会話は
客家語だった。淑珍の兄弟姉妹全員、アーコンコンと喋る時は客家語を使って
いた。ラオスに生まれた華僑だけれど、ほとんどラオス語は覚えないで中国語
だけで生きてきた、多分ラオス華僑の社会では最初の世代の一番最後のグルー
プだろう。

というわけで、私もあまり義理の父とは会話をしたことなかった。義理の父の
思い出は、私が客家語をしゃべると喜んでくれたことーーー。

義理の父と淑珍の会話を聞いていて最初に覚えた言葉は、頻繁に出てくる単語
「チュンギー」、意味は「大好き」。否定形になると「ムー・チョンギー」に
なる。おそらくこの「ムー」は、漢字で「無」に当たると思う。

最高に傑作な客家語は「ニー・ヒー・メン?」

日本人には何も面白くないだろうが、ラオス人と、ラオス語を知っている人に
とっては爆笑ものである。

「ニー」は北京語と一緒で「あなた」
「ヒー」は北京語の「去」に当たると思うが、日本語の意味は「いく」
「メン」は「〜〜しましたか?」になる。
つまり「ニー・ヒー・メン?」は「あなたはもう行きましたか?」という意味
になる。そして「まだ行ってない」という場合「ムー・メン・ヒー」になる。

北京語の「去」は「チー」という発音だが、客家語では「ヒー」ーーーこれは
ラオス語の「女性の性器」を意味する「ヒー」に発音が似ている。----厳密に
いうと、この2つの単語は声調が違うのだが----

客家語の「メン」は、ラオス語の「臭い」を意味する「メン」に発音が似てい
る。----厳密にいうとこの2つの単語も声調が違う。

つまり、
「ニー・ヒー・メン?」という客家語「あなたはもう行きましたか?」という
フレーズをラオス人が聞くと「あなたのお◎ンコは臭い」というように聞こえ
る。そして「まだ行ってない」という意味の「ムー・メン・ヒー」も、逆さに
言えば「ヒー・メン」なので「お◎ンコ臭い」と聞こえるーーー。

父と娘の会話を聞いて、このフレーズには笑ってしまった。それ以降、義理の
父を訪れてくる客家人にこのギャグを話しては一緒に大笑いしたものである。

ちなみに、台湾人と結婚したあるラオス人女性(娘の蘭の同級生のお母さん)の
中国語「あなたが行きたいところはどこでも行く」を、ヤオ・チー[行きたい]
がヤオ・シー[SまるXしたい]になって、聞いていた淑珍が笑ってしまった。

中国語の「行く(チー)」の発音はラオス語にはなく、彼女はこれを(シー)と発
音したのだ。その発音が、ラオス語では「お◎ンコしたい」の意味になる。
つまり「あなたがヤリたいならどこでもヤル」というふうに聞こえてしまった
わけだーーー。

だけど、これは中国語とラオス語を知っている華僑だから笑える話で、純粋の
中国人やラオス人には何が面白いのかよくわからないだろう。----話が脱線し
ました----

義理の息子が少しでも客家語を喋るとアーコンコンは喜んでくれた。多分アー
コンコンは、ラオス華僑で最後の客家人世代だろう。自分の代で客家は終り、
息子や娘は客家語を喋れるが、孫は客家人ではなくラオス人になってしまった
といった現実に淋しさを感じていたのかもしれない。

淑珍の兄弟も、みな最初に覚えた言葉は客家語である。バンコクにいる1番目
の姉から、ビエンチャンにいる15番目の少梅まで、下手か上手いかは別に、
一応全員客家語はできる。

しかし日常会話で客家を使う機会はもうない。アーコンコンが亡くなったから
だ。兄弟の会話は完全にラオス語になった。バンコクにいる一番上の姉の子供
も客家語はできない。アメリカの兄貴の子供も客家語は駄目。ビエンチャンの
我々の子供、桜ちゃん、蘭ちゃんもラオス語、日本語、北京語だけ。客家語は
誰も教えてくれない。

ビエンチャンは、1975年の革命で社会主義を嫌う華僑が海外に難民として
出て行った。そしてその後に、2000年頃から新しく来たのが雲南省から来
た中国人。おそらく昔のような客家社会はできないだろう。

アーコンコンと中国語で喋る古い華僑も減ってきた。日本に帰った時にNHK
のアーカイブという番組を見た。アイヌの人たちの話である。彼らはお葬式は
アイヌの習慣で儀式をおこなうのであるが、先に亡くなった人はいいが、最後
の人はアイヌの言葉でお葬式をしてくれる人がいなくなる。それを長老たちが
嘆き悲しんでいるという話であった。

ーーーということで、親孝行のためにもっと客家語を勉強しておけばよかった
と思った。アーコンコンが死んだ後で思ってももう遅いがーーー。80年前の
ビエンチャンの様子はどうだったか、当時の華僑の生活、第二次世界大戦の時
の話、今になって思えば、もっといろいろなことを聞いておけばよかった。
こういったことは本には書かれていないし、貴重な資料にもなると思う。本当
に残念なことをした。

去年の暮れに家族で食事をした時、桜ちゃんに「客家語、勉強しますか?」と
聞くと「意味ないジャン」との返事。それを聞いて淋しかった。彼女も客家人
なのに。ひとつの時代が終ったと感じた。

客家は東南アジアには多い。2006年の暮れにコプチャイ・ドウー・レスト
ランで食事した時、淑珍が「あの団体の人たち客家よ、客家語を喋っている」
顔を見るとたしかに客家の顔をしている。日本人旅行者が外国で日本人に会っ
た時に懐かしさを感じる、それと同じような気持ちになった。

淑珍によると「客家の顔」というのがあるようだ。つまり特徴のある顔つき。
思うに昔、広島カープで活躍したピッチャーの大野豊選手、彼は祖先が中国人
でも客家ではなかったのかとにらんでいる。毎週NHKのスポーツ・ニュース
を衛星放送で見ている。そこで野球解説者の大野さんを見ると、うちの親戚の
おじさんにソックリなのだ。

どういう顔つきが客家顔かというと、うまく説明できないがタイプがある。 
高木敬蔵著「客家・中国の内なる異邦人」(講談社現代新書)という本に、著者
の高木さんが客家と初めて出会った時のことが書かれている。(以下8P抜粋)
┌--------
私はその青年がどこか普通の中国人と違っていることに気付きはじめた。何よ
りも顔立ちが違うのだ。顔の形が細長くて鼻筋がやや長いのである。ヤブニラ
ミ気味の目とダンゴ鼻という顔の多い南方中国人のなかにいると、これはよく
目立つのである。
└--------
ということで、今度NHKの「サンデー・スポーツ」に解説者で出ている大野
さんの顔つきに注目してください。

さて、ビエンチャンの華僑であるが、ほとんどは潮州人である。他にも広東も
いるが、客家はマイナー。したがって中国人理事会も潮州人が勢力を握ってい
る。おそらくラオスの華僑は、タイから来た人が多いのではないかと思ってい
る。なにせタイの華僑はほとんど潮州人だから。

ということで新たに客家協会を作ろうとする動きもある。客家の親睦団体であ
るが、ビエンチャンにはおよそ40家族ほどの客家人が住んでいるらしい。

実はこの前、客家のお葬式に行ってきた。タラート・レーンに住んでいる客家
である。この人たちとは以前は交際はなかった。知り合いになったのはカンボ
ジアに住んでいる親戚=おばさん)がきっかけである。

カンボジアの親戚は、義理の父の遠い親戚で、以前はシアン・テーン県に住ん
でいて、現在はプノンペンにいる。ビエンチャンにも遠い親戚がいるというこ
とで訪ねて来てくれた。その時に、彼女が結婚する時にお世話になった人がタ
ラート・レーンに住んでいるというので淑珍が連れて行ってあげたのがきっか
けである。

今年(2007年)の4月にそこのおじいさんが亡くなったというニュースを聞
いて、お通夜に行ってきた。おばあさんと淑珍は客家語でしゃべっている。親
戚の30代の若い女性が来ていたのでお喋りしてみる。彼女もシアン・テーン
出身の客家。旦那さんはパクセ出身のラオス人である。

さすがに彼女ぐらいの世代になると客家語はあまり上手ではないようだ。ラオ
ス語で話してみる。ちなみに、シアン・テーンはメコン河に沿った大きな町で
ラオス語も通じる。メコンに沿ってラオス語圏がカンボジアの中まで広がって
いるのである。町には客家が多く住んでいる。

詳しいことは聞かなかったが、彼らはいつ頃ラオスに来たのだろう?1975
年のクメール・ルージュ革命の後にラオスに逃げて来たのだろうか?ラオスに
逃げて来ればラオス語が通じるから、言葉の点では楽だったかもしれない。

ビエンチャンの大きな金屋さんもカンボジアから来た華僑だという。そうする
と、意外とメコン河に沿ったラオス語圏から逃げて来た人たちかもしれない。
インドシナ3国といっても、その国境はフランスが引いたもの。民族の境界は
もっとフレッキシブルだったのではないか。

さて、義理の父が亡くなって気がついたこと。

以前は毎日のようにサムセンタイの実家へ遊びに行っていた淑珍や梅ちゃん。
このごろは以前のようには実家に帰らなくなった。実家には兄嫁と弟の嫁がい
る。どうもあまりウマが合わないみたい。

以前は、ほとんど毎日父の顔を見に行ってた。2・3日サムセンタイに遊びに
行かないとアーコンコンが心配するらしい。「淑珍はこの頃来ないけれどどう
しているの、梅は子供は元気?」ーーーそうなると親を喜ばせるために子供は
親に会いに行く。

ところがその求心力であった両親が亡くなると、いくら兄弟姉妹とはいえそん
なに度々遊びに行かなくなる。まして兄弟とはいえ、結婚してしまえばそれぞ
れ家庭がある。兄弟の配偶者といっても元は赤の他人である。親戚とはいって
もウマが合う、仲のいい人とそうでない人は当然ある。

べつにラオス人・華僑だけではない。日本人だって同じであろう。もちろん血
を分けた兄弟姉妹である、たとえ親が死んでも兄弟同士ではあるが。だけど親
が生きていた時に比べて結びつきが弱くなるのは当たり前。そのぶんだけ妻の
親戚、近所の人たちとの付き合いが深まってくる。

日本人はよく「ラオス人はすぐ親戚(ピー・ノーン)だからお互いに助け合って
仲良くしているのでしょ」という。ただ、親戚とはいってもこのように、親が
元気だった時、そして亡くなった後、これによって親戚の範囲、付き合いの度
合いも違ってくる。

ちなみにウチの家族が一番付き合いがあるのはドンミアン地区の近所の人たち
かなーーー。ビエンチャンの中でも地区によって住人の階層が違う。ひと回り
ドライブしてみるとよく分かると思う。

上流階級が住んでいる地区は、高い塀と門がついていて門番がいて、周りは外
国人の専門家や大使の邸宅があるような豪邸地区。そういったハイソの地区と
いわゆる日本の下町3軒長屋みたいな家屋が密集している地区。

こういったところでは近所付き合いの仕方もぜんぜん違うだろう。

ウチの近所はけっこう近所の仲がいい。この前も近所の友達のお父さんがマホ
ソット病院に入院していたのでみんなでお見舞いに行った豪邸地区の住人なら
ば、おそらく近所付き合いはそんなにないのではないかと思う。

                        = この稿おわり =
┌―――――――――――――――――――――――――――――――――┘
┌--------
│ LAOS(ラオス)の情報  ・・です!!
│ http://members.tripod.co.jp/kengchang/
└--------
┌―――――――――――――――――――――――――――――――――┘
└→ 感想や激励をよろしくお願いいたします。 
ラオスからの手紙の目次に戻ります







SEO [PR] お金 ギフト  冷え対策 わけあり商品 動画無料レンタルサーバー ブログ SEO