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国際派日本人養成講座 ――――― by 伊勢雅臣さん |
☆ 人物探訪:河口慧海のチベット行(下) ―――――― 2008/04/27
国民教化の夢を目指して、慧海は冒険につぐ冒険の人生を送った。
―― 1.これは世界最大のコレクションであろう
明治37(1904)年、日露戦争の最中、英国遠征隊がチベットに侵入し戦闘を始
めた、というニュースが伝えられた。
帰国して2年、慧海は講演と執筆の多忙な日々を送っていたが、このニュース
に、再度のチベット入りを決意した。戦争の混乱の中では鎖国体制もほころび
が出ているだろう、前回の探検では十分収集できなかった仏典を入手できるの
ではないか、と考えたのである。
10月11日、神戸港から出発。11月3日、カルカッタに上陸した後、ビザ
を得て、翌明治38(1905)年3月に、まずネパールに入った。
2年前にネパール国王に拝謁した時、慧海は漢訳の大蔵経と、サンスクリット
語の原典を交換しようと約束していた。慧海が漢訳版を献上すると、国王は慧
海に下賜する仏典を収集するよう命じた。
日本びいきの工部大臣キショル・ナルシン・ラナの肝いりで、10人もの人手
を出して、各地の旧家に保存されている仏教原典の収集が進められた。同時に
慧海も自費での買い付けを行った。
慧海はネパールに9ヶ月間滞在し、346部もの教典をカルカッタに持ち帰っ
た。後に慧海を訪ねた著名なドイツ人インド学者ヘルマン・オンデンベルヒは
「これは世界最大のコレクションであろう」と感嘆した。
―― 2.亡命中のダライ・ラマに拝謁
慧海は、その後インド北東部ガンジス河沿いの都市ベナレスに7年間滞在し、
仏教原典を読解するためにサンスクリット語を学んだ。この地はサンスクリッ
ト研究のメッカとして知られ、慧海は中央ヒンドゥー学院=現在のベナレス・
ヒンドゥー大学)の名誉学生となり、ここの教授の指導のもと、毎日9時間か
ら10時間もの猛勉強をした。
日本にもサンスクリットの学者はいるが、チベット語もできる人はいない。サ
ンスクリット語の原典とそのチベット語訳の比較研究は、自分の双肩にかかっ
ている、というのが、慧海の使命感だった。
この時期に慧海は、第一回のチベット探検をテーマとした『西蔵旅行記』の英
語版『スリー・イヤーズ・イン・チベット』を出版した。チベット人の風俗、
習慣、精神生活をアジア人の視点から描き、また手に汗握る冒険物語の魅力も
備えたこの本は、エカイ・カワグチの名を世界に広めた。
慧海は、この間にも再度のチベット入りの機会を窺っていた。
2回目の旅では、ダライ・ラマ、パンチョン・ラマといった然るべき宗教指導
者に話をつけて、チベット大蔵経を入手しなければならない。
そのダライ・ラマは1904(明治37)年に英軍がラッサに迫った際、モンゴルの
ウルガ=現・ウランバートル)に亡命していた。1909年にダライ・ラマは5年
ぶりにラッサに帰還したのだが、今度は清の軍隊2千が東チベットを武力で制
圧した。
ダライ・ラマは、昨日の敵・英国の庇護を求めて、インドに脱出し、国境近く
の高原都市ダージリンに国賓として迎えられた。この時のダライ・ラマは13
世であったが、現在の14世とまったく同じ格好である。
慧海はダージリンにダライ・ラマを訪ね、何度か拝謁してチベット入国を許さ
れた。
―― 3.人食い坂
1913(大正2)年12月20日、二度目のチベット行に出発。今回はダージリン
からまっすぐ北上し、シッキム王国を通ってチベット入りするという最短ルー
トをとった。
1月10日、慧海と現地人の荷物運び3人の一行はメト坂にさしかかった。こ
こは人食い坂とも呼ばれ、雪嵐に襲われて凍死または餓死する旅人が前年だけ
で十数人も出た、という名うての難所である。
幸いに朝から空は晴れていた。ティスタ川上流の氷河を幾度も渡りながら急坂
を登る。午後4時、斜めに切り立った大岩壁の陰に狭い空き地を見つけ、その
晩はここに泊まることとした。火を起こして夕食をとり、周囲に床を延べて眠
りについた。
暴雪風が始まったのは真夜中のことである。従者の一人が慧海を起こして言っ
た。
┌--------
ラマ(お坊)様、風は南から強く吹いて、雪は大雪、空は真っ暗。本当に暴風に
なる気配です。ラマ様、祈祷してこの大難を払って下さい。
└--------
―― 4.慧海の涙
それでは、と慧海は起き上がり、「わしは今からこの難を逃れるために祈願す
るから、お前たちは安心していなさい」と言って、敷布の上に座り直し、一心
不乱に釈迦牟尼の姿を観じ、この暴風雪を晴れしめ給え、と祈った。しかし、
暴風雪が岩壁を打つ音はますます激しさを加えていく。
┌--------
嗟呼[ああ]斯[か]くては我は信力少く、徳微[かすか]にして此処[ここ]に死に
果てんか、十年以来我帰朝を待ち給へる我老母は云何[いか]に感ぜらるゝなら
ん、不孝の我身よ。
└--------
こう思った途端、十数年前の最初のチベット旅行の際にはどんな危難にあって
も決してこぼれたことのない涙が、慧海の両眼からどっと溢れ出た。
それからしばらくして、従者の叫び声が慧海の瞑想を破った。
┌--------
ラマ様、雪が止んで、空に2、3の星が見え、雲がまばらになってゆきます。
この分なら、私らも死なずにすみそうです。まことにありがたいことです。
└--------
慧海は、晴れゆく空を見ながら、仏がこの凡夫の真心を受け取って下さったの
だと、改めて熱い涙を流した。
―― 5.首都ラッサの変貌
チベットに入ると、一行は馬を提供され、宿のない所ではその地方の村長宅に
泊めてくれた。この優遇の理由を慧海は、チベット人の間で日本を妙に買い被
る風潮があったためと指摘する。
日本は、義のため、平和のために他国を救う仏菩薩の国である。だから、日本
人を大切にしておいたならば、他日、日本がチベットを救う時、まずわれわれ
を率先して救ってくれるだろう、と現地の人々は考えていたようだ。これには
ロシアの極東侵略を防いだ日露戦争の影響が多分にあるだろう。
また、前回ラッサ滞在中に評判となったセライアムチ=セラの医師)が来た、
という報を聞きつけた人々が、毎日のように治療を受けにやってきた。慧海は
前回の経験から、出来るだけの医薬を持ってきていたので、惜しげもなく施薬
した。
生まれてから薬を飲んだことのないチベット人には、面白いように効いた。耳
かき一杯ほどの薬を与えると、翌日には治って、お礼に来るほどであった。
8月7日、首都ラッサ入り。慧海は12年ぶりに見る「仏の地」の変貌ぶりに
驚いた。侵入してきた中国軍との戦闘で、市街地の3分の2は火災を被り、今
なおあちこちに空き地が残っていた。
ダライ・ラマ13世は、独立を維持するために、英国の後ろ盾を得たい、と考
えていたようだ。また元日本陸軍軍曹・矢島保次郎が、ダライ・ラマに見込ま
れてチベット軍要請訓練教官を務めていた。ダライ・ラマは、チベット軍を近
代化するために、日本の協力を期待していたらしい。
国際社会の荒波は、世界の秘境にも、ひたひたと押し寄せていた。
―― 6.仏典収集
前回のチベット入りでは十分な仏典収集ができなかったが、今回はダライ・ラ
マ、パンチョン・ラマと直接会って、仏典の下付を願い出た。
パンチョン・ラマには漢文大蔵経を献上しチベット大蔵経の下付を請願した。
パンチョン・ラマは著名なナルタン版の版木を管理しており、西の都シガツェ
近郊のナルタン大僧院で1組、印刷されて、慧海に下賜された。
ダライ・ラマは、慧海のためにサンスクリット語の仏典の写本を探させた。中
央チベット南部の町ギャンツェのパンコル・チョエデ寺で良い写本が見つかっ
たので、それが慧海に下賜されることになった。
また慧海自身も、各地の古寺を訪ねて仏典を探した。シガツェの東方22キロ
のところにあるシェル寺を訪ねたところ、11世紀に書写されたサンスクリッ
ト語仏典が見つかり、そのうち『法華経』と仏教詩集の2部を贈られた。
こうした旅の途中、慧海はチベットの高山植物の採集にも熱心に取り組んだ。
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昼間長い道を旅して、夜はまた採集した植物の整理をするのは並大抵のことで
はなかった。昼間も従者達が食事の支度をしている間に、標本に当てた湿った
紙を取り替えるなど、少しの暇もなかったが、幸に身体が壮健であったし、珍
しい植物を集めて持ち帰ったら日本の植物学者がどんなにか喜ぶだろうと考え
ると、困難も忘れて熱心に採集した。 [『慧海伝』,1,p282]
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慧海が収集した1千余点といわれる植物標本は、後に国立科学博物館に寄贈さ
れた。この中から、新種、新変種などが20種ほど発見されている。
さらに化石を含む鉱物標本、毛皮などの動物標本、仏像、仏画、仏具、装飾・
工芸品、日用雑貨などが大量に収集され、現在は東北大学文学部の「チベット
資料室」に、河口コレクションとして保管・展示されている。
―― 7.11年の収穫
慧海は、大量の仏典と収集品をインドに持ち帰り、1915(大正4)年8月7日、
カルカッタから日本郵船の博多丸で帰国の途についた。
11年にも渡った今回の旅の収穫は大きかった。主目的であるサンスクリット
語およびチベット語の仏典を手に入れ、また、植物・鉱物・仏教関連の膨大な
資料を収集した。
さらに、今後の仏典研究のために、サンスクリット語を習得し、パンチョン・
ラマなど、数多くの人々と親交を結んだ。
しかし、これらの業績は、慧海にとっては志を実現するための一里塚に過ぎな
いものであった。慧海の本志は、仏教の原典を辿ることによって、その真の教
えを明かし、広めることであった。
この志を抱いたのが、明治23(1890)年頃であったから、すでに四半世紀ほど
の年月が経っていた。慧海はようやくサンスクリット語、およびチベット語の
仏教原典を入手し、両言語を習得して仏典和訳の入り口に立ったのである。
―― 8.仏典500巻の和訳へ
慧海は、帰国した翌年の大正5(1916)年4月から、有志の資金協力を得て仏典
の研究・翻訳に着手した。同時にチベット語学生を募集し、東洋大学で、週に
12時間、また夜間、自宅においてもチベット語を教授し、3年後には一通り
チベット語を学び終えた弟子を5人ほど得た。
これに力を得た慧海は、サンスクリット語、チベット語仏典で、漢訳を改訳す
べきもの、漢訳されていないもの500巻を選び、今後10年かけて和訳する
という青写真を作成した。これに従って『法華経』『維摩経』などの和訳対訳
が次々と刊行されていった。
こうした原典の研究を通じて慧海は、多くの宗派に分裂した仏教界のあり方に
根源的な疑問を得た。釈尊の入滅後、仏教は中国を経由して日本に伝わったが
その間に分裂を重ね、互いに優劣を競ってきた。各宗派は、自らが伝えるもの
のみを真として他を貶[けな]しているので、いずれが真の仏教であるか分から
ない。
慧海はサンスクリット語、およびその逐語訳に近いチベット語訳の仏教原典を
通じて、釈尊の思想そのものに迫っていった。
―― 9.生ある間はその尽くすべきに尽くさんことを期す
こうした仏典の研究・翻訳の傍ら、慧海はチベット語の文法書である『西蔵文
典』の著述を大正5(1916)年から始め、10年ほどかけて完成させたが、実際
に出版に漕ぎ着けたのは、昭和11(1936)年であった。
文法書が出来上がると、慧海は休む間もなくチベット語辞書『蔵和辞典』の編
纂にとりかかった。辞書があれば、チベット大蔵経に収録された数千の仏典を
統一された訳語で効率よく和訳する道が開ける。和訳大蔵経による国民教化と
いう夢に至る道である。
昭和12年に知人たちに送った書状では、13万語の辞書を13年の年月をか
けて完成させる、という決意を述べている。この時、慧海はすでに72歳であ
る。
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何時死ぬか解らぬ生命を以て、斯[かく]の如き長時を要する事業をなさんとす
るは実に冒険事なりと云うべし。然れども大方の事業は冒険なしに成就するも
のは甚だ稀なり。故に自らその険を冒して、自衛自進以てその業を成ぜんこと
を期す。・・・生ある間はその尽くすべきに尽くさんことを期す。
└--------
慧海は昭和25年の完成を目指して、辞書編纂に邁進したが、大東亜戦争末期
の昭和20年2月、眠るように亡くなった。享年80歳。『蔵和辞典』はつい
に完成することはなかった。
国民教化という見果てぬ山頂を目指して、チベット探検から大蔵経和訳、そし
て『蔵和辞典』編纂と、冒険につぐ冒険の人生であった。
(文責:伊勢雅臣) = おわり =
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関連リンク:
a.JOG(544) 河口慧海のチベット行
仏教原典を求め、慧海はインド、ネパール、チベットを6年間、旅した。
参考書籍:(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
1.奥山直司『評伝 河口慧海』★★★、中央公論新社 H15
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