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国際派日本人養成講座 ――――― by 伊勢雅臣さん |
☆ 人物探訪:河口慧海のチベット行(上) ―――――― 2008/04/20
仏教原典を求め、慧海はインド、ネパール、チベットを6年間、旅した。
―― 1.雪と岩の間を旅する
1900(明治33)年7月4日、河口慧海[えかい]はネパールとチベットを分
ける峠の頂上に立った。岩場の雪を払って、荷物をおろし、一息ついて南方の
ネパール側を眺めると、ヒマラヤ山脈の白い峰々が虚空にそびえている。
北方に目をやれば、初めて見るチベットは、山々が波を打ったように重なり合
い、その合間を縫って雲間から幾筋かの川が光っている。
3年前の明治30年6月に神戸港を出発した時、チベットに入るには三年かか
るだろうと考えたことを思い出した。その計画通り、3年後の今、自分はここ
にいる。腹の底から愉悦の感情がこみ上げてくるのを感じた。
麦の粉に雪とバターをこねただけの簡単な食事を終えると、慧海は立ち上がり
これまでと違って雪深い北側の斜面を、一歩一歩降りていった。慧海は、それ
までの旅を、
空の屋根 土をしとねの草枕 雲と水との旅をするなり
と詠んだが、それから後の旅は「空の屋根雪をしとねの岩枕」で、「雪と岩の
間を旅するやうな訳で御座いました」と『西蔵旅行記』に書いている。
―― 2.「神秘の国」チベット
チベットは、南をヒマラヤ山脈、西をカラコルム山脈、北を崑論山脈に囲まれ
た、日本の6.5倍もの面積を持つ世界最大の高原地帯である。
この高地にチベット民族は大乗仏教を核とする文明を築いてきた。1642年
以来、チベット仏教の活仏(かつぶつ、仏の転生者と考えられている高僧)ダラ
イ・ラマが代々統治してきた。
19世紀に入ると、チベットは外国に対する警戒心から国境を閉ざし、鎖国体
制をとった。実際に19世紀初頭から20世紀初頭にかけて、西はコーカサス
から東はチベットに及ぶ広大な地域で、南下を狙う帝政ロシアと、それを封じ
ようとする大英帝国との間で諜報合戦が繰り広げられており、チェスに見立て
て「グレート・ゲーム」と呼ばれていた。
慧海がチベット行きの準備として、インドの高原都市ダージリンで師事したイ
ンド人チベット学者サラット・チャンドラ・ダースも、実は英国の秘密調査員
であり、2度もチベットに潜入して地理・社会・経済・政治などの調査を行っ
ていた。これがチベット側に発覚し、ダースに接触したチベット人達が死刑・
投獄・財産没収などの処罰を受けている。
こうした鎖国体制と、世界の秘境ともいうべき地理的特性が相まって、チベッ
トは「神秘の国」と呼ばれ、世界中の探検家、学者の関心を引きつけていた。
また、仏教学者にとっても、チベットは「神秘の国」であった。
チベット人は、7世紀には独自の文字を持ち、8世紀後半からはその文字を用
いて仏典翻訳の大事業を推進した。その結果、チベット大蔵経がまとめられた
のだが、インド本国で散逸してしまった教典も含んでおり、仏教原典を求める
学者たちがその入手のためにチベット入りを志していた。慧海もその一人だっ
た。
―― 3.一切衆生(生きとし生けるもの)は皆我が子
河口慧海、幼名・定次郎[さだじろう]は、明治維新の2年前、慶応2(1866)年
に和泉国(大阪府和泉市)堺に、樽職人の長男として生まれた。信心深い両親の
もと、幼い頃から信貴山、高野山などの仏教聖地に親しんで育った。
15歳の時に読んだ『釈迦一代記』で、長い修行の末に悟りを開いた釈迦が、
「一切衆生(生きとし生けるもの)は皆我が子」と言って、衆生救済の決意を
胸に山を降りる姿に激しく胸を揺すぶられた。そして自分も出家して、衆生救
済のために一生を尽くしたい、と願うようになった。
家業を継がせたいと願う両親に、定次郎は出家の希望を説き続けた。明治20
(1887)年9月、仏教界の人材育成を目指す、哲学館という学校が東京に開かれ
た。定次郎はそれに入学すべく、ついに両親を説得して、翌年春に上京した。
23歳の旅立ちであった。
東京では、月4円の授業料と生活費を、朝の5時から午後2時まで団扇作りを
して稼ぎ、その後一時間歩いて哲学館に通う、という極貧の苦学生生活を送っ
た。
明治23(1890)年、定次郎は数え年25歳にして、東京の羅漢寺にて得度を受
け、慧海の名を与えられた。
―― 4.「ネパール或は西蔵(チベット)に行かなくてはならぬ
慧海はその後、宇治の万福寺・別峯院に2年ほど籠もって、仏教聖典の総集と
いうべき大蔵経の読誦に取り組んだ。それらの教典を分かり易く和訳して広め
たいと志したのである。
しかし、そこで一つの問題に突き当たった。例えば『法華経』の漢訳は3種類
あるが、それぞれにかなりの相違があった。
┌--------
素人にも解り易い経文を拵[こしら]へたいと云ふ考で漢訳を日本語訳に翻訳し
たところが、果たしてソレが正しいものであるかドウか、サンスクリットの原
書は一ツでありますが、漢訳の経文は幾つにもなッて居りまして・・・甚だし
きは全く其意味を異にして居るのもあり・・・何れにしても其原書に依つて見
なければ此経文の孰[いず]れが真実で孰れが偽りであるかは分からない、是は
原書を得るに限ると考へたです。(『西蔵旅行記』上巻、1−2頁) [1,p98]
└--------
しかし、どこでサンスクリット語の原典を得るか。
┌--------
大乗教の仏典なるものは、仏法の本家なる印度には跡を絶ッて今はネパール或
いは西蔵(チベット)に存在していると云う。其原書を得る為には是非ネパール
或は西蔵に行かなくてはならぬ。(『西蔵旅行記』上巻、2頁) [1,p100]
└--------
ネパールでサンスクリット語の仏典を発見したのは、19世紀前半に英国東イ
ンド会社の駐在公使として21年も駐在したブライアン・ホートン・ホジソン
であった。ホジソンは集めた大量の仏典をロンドン、オックスフォード、パリ
の図書館や研究機関に送り、ここからサンスクリット語による大乗仏教の研究
というまったく新しい学問分野が開けていった。
これに刺激されて、日本仏教界でも、仏典研究において西洋諸国に遅れをとっ
てはならないと、チベット仏教探訪の必要性が唱えられていた。例えば、慧海
の哲学館での同窓生である能海寛は『世界に於ける仏教徒』の中で、次のよう
に唱えていた。
日本仏教徒の責任として、同じ大乗仏教国であるチベットを探検し、仏典の原
典や釈尊の正伝を探究するとともに、両国仏教徒の団結を計り、閉鎖国チベッ
トの発展を図らねばならない。
特にロシアが北から、イギリスが西から、フランスが南から、そして支那が東
から迫っていて、チベットが一大戦場になりかねない今日、これは一日も猶予
できない、と。慧海もまさしく同様の考えであったろう。
―― 5.何ぞ旅行費なきを憂へんや
明治30(1897)年6月26日、慧海は数人の知人に見送られて、神戸港から日
本郵船株式会社の貨客船・和泉丸に乗って出発した。日本にいても、チベット
に関する正確な情報は手に入らない。とにかくインド辺りまで出かけてみるし
かない、と考えていた。
旅費の調達は思うに任せなかったが、「釈尊の教えられた最も謙遜の行乃ち頭
陀乞食[ずだこつじき]=食を乞いながら野宿などして各地を巡り歩いて修行す
ること)を行ふて行かんには、何ぞ旅行費なきを憂へんや」という気持ちだっ
た。そして大阪や堺の友人・信者たちが支援してくれた資金を手に、船に乗り
込んだのだった。
シンガポールで英国汽船に乗り換え、7月25日にカルカッタ港に着いた。こ
の年、インドは大飢饉に襲われ、餓死者10数万人を出し、さらにペストが大
流行していた。カルカッタに本部を置く仏教徒の組織・大菩薩会の救援要請に
応えて、日本の各宗派が義捐金を送っていた。
その縁で、慧海は大菩薩会に宿を提供して貰い、さらにチベット語を習いたい
との希望を聞いて、ネパール国境沿いの高原都市ダージリンに住むチベット学
者サラット・チャンドラ・ダース(前述)への紹介状を書いてくれた。
慧海はダージリンに1年5カ月間滞在し、チベット語を学びながら、情報収集
に努めた。ダージリンから北東に向かえば、すぐにチベットとの国境を越えて
首都ラッサに通ずる街道が延びていたが、いくつもの関所でチベット兵が厳し
い監視を行っていた。
慧海は、まずは大きく西に迂回して、ネパールに入り、そこからチベットへの
道を探ることとした。1899(明治32)年1月5日、ダージリンを出発した。
―― 6.非常識な大回り
慧海はネパールの首都カトマンドゥの近郊に1ヶ月余り滞在し、各地から集ま
る巡礼乞食から、チベットへ向かう道の情報を集めた。カトマンドゥから北の
ヒマラヤ山脈を超えて直接ラッサに向かう間道はいろいろあるが、どれも12
回も関所を通らねばならない。関所で尋問を受けたら、外国人でないかと疑わ
れる危険が極めて高い。
しかし、カトマンドゥからさらに北西に200キロほども迂回して、そこから
チベットに入り、さらに200キロほど北西のマーナサロワール湖を回ってか
ら、1000キロ以上も東のラサに向かう、というコースをとれば、関所を通
らずに済む、という結論を得た。さすがにこんな非常識な大回りはチベット側
でも想定していなかったのであろう。
慧海はカトマンドゥから200キロほど北西のチベット国境近くの集落ツァー
ランに10カ月も留まって、土地の学僧についてチベット仏教を学びながら、
さらにチベットへの潜入路の情報収集に努めた。じっくり時間をかけて慎重に
情報を集めた上で断行するのが、慧海の身上であった。
ツァーラン滞在中にも、慧海は15人ほどに酒を止めさせ、30人ほどに煙草
の葉を噛んで辛い汁を飲む習慣を改めさせた。どの地にあっても、人々をよい
方向に導く事が、菩薩道を行く者の任務と心得ていたのである。
1900(明治33)年の新年を、慧海は例年のように天皇・皇后・皇太子の万歳を
祝する読経式で迎えた。3月10日、百人以上の村人に見送られてツァーラン
を出発。
そして、冒頭に述べたように、7月4日、チベットに入った。日本を出てから
すでに3年の月日が流れていた。
―― 7.セライアムチ(セラの医師
慧海がチベットの首都ラッサに着いたのは、それから8カ月も後の翌明治34
(1901)年3月21日であった。それからまもなく、中国人との触れ込みでラッ
サ北方の山裾にあるセラ寺に入学を許された。この寺はラッサ3大寺の一つと
称せられ、当時7千人以上の僧侶が居住していた。
ある日、散歩に出た慧海は、近くの僧坊の小僧が喧嘩で肩の骨を外して泣き叫
んでいるのに出会った。多少、接骨の心得のある慧海が直してやると、これが
瞬く間に大評判となり、病人が次々に押しかけてきた。仕方なく、慧海が中国
商人の店から漢方薬を買ってきて、病人たちに与えると、薬など飲んだことの
ないチベット人には見事に効いた。貧乏人からは薬代もとらず、活きた薬師如
来様かと崇められた慧海は、「セライアムチ(セラの医師)」と呼ばれるように
なった。
この評判が法王ダライ・ラマの上聞に達して、目通りが叶った。法王は「長く
セラに留まって僧侶及び俗人の病気を治すように」と述べた。これを機会に、
慧海はラッサの多くの上流人士と交わるようになった。
しかし、ダージリンで慧海に会ったことのある人物が、セライアムチは日本か
ら来た秘密探偵だと言い触らした。危険を感じた慧海はすぐにチベットを脱出
する覚悟を固めた。まず、ダライ・ラマ宛に「世界に大乗仏教を護持する2大
国、チベットと日本が協力して、他の国々に正法を広め、衆生を涅槃に導く大
方便を法王から授けて下さる事を請うために、自分はチベットに来た」との上
書を書き上げた。
ラッサで集めた書籍を荷造りしてカルカッタに送る手はずを整えた。さらにセ
ラ寺での先生や保証人などお世話になった人々に金品を贈って恩を謝した。
慧海がラッサから姿を消したのは、1902(明治35)年5月の事であった。40
0キロほど南西に一直線に下り、インドのダージリンに逃げ延びた。途中、5
つの関所があったが、セライアムチの名声で押し通した。
―― 8.恩人救出のためのネパール入り
慧海は逃避行の途中でマラリアに罹り、ダージリンでしばらく静養を続けた。
10月になって、久しぶりにチベットからの一行がダージリンに到着したが、
ラッサではセラ寺の教師や保証人など、慧海と接触のあった人々が逮捕される
との報をもたらした。
世話になった人々を罪に落としながら、自分一人逃げおおせるのは日本人とし
て耐え難いことである。慧海はその年のうちにカルカッタに戻り、そこでつて
を辿ってネパール国王への紹介状を得ると、再びネパール入りした。
ネパールはアジアの新興国家日本に興味を持ち、初の海外留学生を日本に送り
込んでいた。国王は慧海に会ってくれ、その熱情にほだされて、ダライ・ラマ
への上書の取り次を約束してくれた。この上書は、恩人たちの釈放に一役買う
ことになる。
1903年4月、慧海はボンベイから日本に向かう船に乗り込んだ。1ヶ月ほ
どの船旅であるが、故国が近づくにつれて、彼はこのまま帰るのが恥ずかしく
なった。6年近くもインド、ネパール、チベットをさまよったが、自分はもと
の凡夫のままである。しかし、一つの歌ができて、それが慧海の気持ちを軽く
してくれた。
日の本に 匂う旭日はヒマラヤの 峰を照らせる光なりけり
┌--------
仏日の光輝は至らぬ隈なく宇宙に遍満して居りますから、何れの世界に行ッて
も修業の出来ぬ道場はない、日本も我が修行の道場であると観ずれば別段苦し
むにも及ばない。
└--------
(文責:伊勢雅臣) = つづく =
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関連リンク:
a.JOG(123) チベット・ホロコースト50年(上)〜アデの悲しみ〜
平穏な生活を送っていたチベット国民に、突如、中共軍が侵略を始めた。
b.JOG(124) チベット・ホロコースト50年(下)〜ダライ・ラマ法王の祈り
アデは27年間、収容所に入れられ、故郷の文化も自然も収奪された。
参考書籍:(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
1.奥山直司『評伝 河口慧海』★★★、中央公論新社 H15
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