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国際派日本人養成講座 ――――― by 伊勢雅臣さん |
☆ 人物探訪:白洲次郎(下)〜日本復興への責任と義務 2008/04/06
「吾々が招いたこの失敗を、何分の一でも取り返して吾々の子供、吾々の孫に
引き継ぐべき責任と義務を私は感じる」
―― 1.「吾々が招いたこの失敗」への「責任と義務」
戦後の日本に関して、白洲次郎はこう書いている。
┌--------
吾々の時代に馬鹿な戦争をして、元も子もなくした責任を、もっと痛切に感じ
ようではないか。日本の経済は、根本からの立て直しを要求しているのだと思
う。恐らく吾々の余生の間には、大した好い日を見ずに終わるだろう。それ程
事態は深刻で、前途は荊[いばら]の道である。しかし、吾々が招いたこの失敗
を、何分の一でも取り返して吾々の子供、吾々の孫に引き継ぐべき責任と義務
を私は感じる。 [1,p270]
└--------
自分たちは被害者だ、軍国主義者に騙された、という風潮が支配的な時代にお
いて、「吾々が招いたこの失敗」の「責任と義務」を主体的に負おうというの
が次郎の生き様であった。
昭和21(1946)年4月、戦後初の総選挙で自由党が第一党となったが、社会主
義政権誕生を目論むGHQ民政局のケーディスらは、党首・鳩山一郎を公職追
放処分にしてまで組閣を阻止した。
そこで、鳩山や前首相・幣原に推されて、吉田茂に組閣の大命が下った。その
吉田にも公職追放の手が伸びていた。その情報を掴んだ次郎は、ケーディスの
対抗勢力であるウィロビー少将と必死に掛け合ってなんとかそれを阻止した。
首相に就任した吉田は、マッカーサーに会って「日本を赤化させるおつもりで
すか」と迫った。おりしもソ連との冷戦の緊張が高まり始めていた時期でもあ
り、マッカーサーはGHQ内でとくに「赤い」と目されていた局員を大方帰国
させる措置をとった。
米国内では、日本を防共の盾とする議論も出てきて、占領方針も民主化から経
済復興へと力点が移りつつあった。ようやく次郎の「責任と義務」を果たす機
会が訪れてつつあった。
―― 2.経済安定本部次長
昭和21(1946)年12月、次郎は経済安定本部(後の経済企画庁)次長を兼任す
ることになった。半年ほど後に、蔵相石橋湛山が経済安定本部長官兼任となっ
た。石橋も気骨ある人物で、GHQ経済科学局の幹部を相手に丁々発止とやり
あった。しかし、この石橋も任期途中で公職追放となってしまう。
石橋は軍部を批判して、満洲を放棄し、朝鮮・台湾を独立させよ、と主張した
人物である。そんな人物までGHQは公職追放したのだった。
経済・財政面で石橋を頼りにしていた吉田は、経済学者たちをブレーンとする
ことで事態を打開しようとした。その根回しに次郎が走り回った。目をつけた
一人が東京大学経済学部教授の有沢広巳[ありさわ・ひろみ]である。
しかし、教授が政府のブレーンになるというのは一般的でない時代のことであ
る。有沢は、次郎が何度頼み込んでも一向に首を縦に振らない。
そこで次郎が考え出したのが、吉田を囲む週一回の昼食会に何人かの著名な経
済学者とともに参加して貰う、という方法である。これにはさすがの有沢も断
れず、吉田を囲んでの議論に加わった。
この席で有沢が披露したのが、傾斜生産理論である。限られた資金・資源を、
まず石炭の増産に集中し、この石炭を鉄鋼生産に集中投下するという方法で、
これにより生産が急回復し始め復興の起爆剤になった。
―― 3.民主主義も憲政の常道も完全に無視した独裁者
昭和22(1947)年年頭、深刻な食料事情の中で頻発している労働争議やストラ
イキを沈静化させるべく、吉田はラジオで国民に呼びかけた。しかしその中で
「私はかかる不逞の輩[やから]が国民中に多数ありとは信じませんぬ」と口を
滑らした。これが労働組合などを刺激して、世情騒然となった。
GHQ民政局は吉田降ろしの好機と見て、マッカーサーを動かし、総選挙を命
じた。やむなく吉田は議会を解散して総選挙に踏み切ったが、「不逞の輩」発
言で支持率が急降下しており、片山哲率いる社会党に第一党の地位を奪われて
しまった。
片山は、単独では政権を担う自信がないので、自由党からも閣僚を送って貰い
たいと申し出たが、吉田はきっぱりと断った。「主義主張を異にする両党が連
立するのは、政党政治の本領に反する」と言って野に下ったのである。
片山内閣で農相となった平野力三は吉田に近い人物だったので、ケーディスは
強引に公職追放にしたが、平野派40名の支持を失った片山内閣は総辞職に追
い込まれてしまった。ケーディスは肝いりの社会党内閣を、自らの強引な追放
措置で潰してしまったのだった。
ケーディスは、その後も政権を野党第一党の自由党に渡さず、民主党総裁の芦
田均を首相に据えた。ケーディスはいよいよ、民主主義も憲政の常道も完全に
無視した独裁者となっていった。
―― 4.ケーディスとの最終決着
怒り心頭に発した吉田と次郎は、参謀第2部のウィロビーと共闘してケーディ
スの追い落としを図った――――。
おりしも、昭和電工が大規模な贈賄を行って、復興金融金庫からの融資を引き
出しているという疑惑が浮上していた。社長の日野原は、前社長が吉田やウィ
ロビーに近い人物だったために公職追放とし、ケーディスが新たに送り込んだ
人物だった。
次郎やウィロビーは、ケーディスの身辺調査を行い、彼にも多額の現金が渡っ
たという情報を新聞に流して、しきりに報道させた。ケーディスの影響力は急
速に低下していった。
芦田内閣そのものも、この昭和電工の贈賄事件により、わずか7ヶ月で総辞職
に追い込まれた。次郎はウィロビーと共闘して、マッカーサーから「GHQの
総意としては吉田首相で問題なし」という確約を得た。吉田は衆議院で多数を
得て、昭和23(1948)年10月に第2次内閣を発足させた。
ケーディスはなおも吉田内閣を潰そうと画策したが、吉田は国会を解散して民
意を問うた。翌年1月の総選挙では、吉田率いる民自党=自由党と民主党の一
部が合同)が圧勝し、第一党だった社会党は143議席から48議席へと激減
し、党委員長の片山まで落選の憂き目をみた。
ケーディスは失意のうちにアメリカに帰国した。こうして日本に社会主義政権
を作ろうとする陰謀は未然に防ぐことができたのだが、その陰には次郎の奮闘
があったのである。
―― 5.経済復興のための大抜擢人事
傾斜生産方式が奏功し、我が国の鉱業生産は戦前の5割程度まで回復していた
が、GHQ財政顧問として来日したジョゼフ・モレル・ドッジはインフレを沈
静化するために、復興重視の政策を超均衡財政に転換しようとした。
次郎は「ドッジ・ライン」と呼ばれる政策が発表された時、これまでの努力が
すべて水の泡になるのではないかと危惧した。ドッジに対抗するためには、経
済理論に明るく、押しも強い人物を大蔵大臣につけなければならない。そうし
た人物を求めて、次郎は東奔西走した。
そして見つけたのが、前大蔵省事務次官の池田勇人[はやと]だった。
吉田は昭和24(1959)年1月の総選挙で、池田を立候補させ、当選すると一年
生議員にもかかわらず大蔵大臣に大抜擢した。当選回数を重ねた議員から囂々
たる不満が噴出した。しかし池田は期待通りの活躍を見せた。ドッジとも何度
も渡り合って、深い信頼関係を築いた。
池田は、昭和34(1959)年に首相となるが、天才的なエコノミスト下村治をブ
レーンとして、10年間でGNP(国民総生産)を2倍にするという「所得倍増
計画」をスタートさせ、高度成長を実現していく。 [a]
―― 6.新しい貿易庁を作る!
昭和23(1948)年12月1日、次郎は吉田首相から商工省の外局である貿易庁
の長官に任命された。次郎は以前から、輸出産業を育成し外貨獲得を図るため
に、商工省を改組してもっと強力な組織を作る必要がある、と主張していた。
そこで吉田から「じゃあ、お前やってみろ」と言われたのである。
商工省は多くの優秀な役人を抱える巨大組織である。それを変革するのはよほ
どの信念と実行力を持った人物が必要である。それには次郎しかいない、と吉
田は見込んだのである。
次郎はまず味方にすべき人物を捜した。そこで目をつけたのが商工省物資調整
課長の永山時雄であった。まだ若かったが省内随一の切れ者として名が通って
いた。
次郎は永山を呼んだ。ちょうど永山のほうも、商工省の事務次官から次郎の動
向を探るように依頼を受けていたので、敵情視察のつもりだった。その永山に
対して、次郎にしては珍しく熱弁を振るった。
┌--------
今の日本にとって、もっとも重要なことは輸出産業を振興させて外貨を獲得し
その外貨でさらに資源を購入して経済成長にはずみをつけることだ。ところが
これまでの商工省の施策は、国内産業の育成が中心だった。これからは、貿易
行政があって産業行政があるというふうに、180度考え方を変えていかなけ
ればならない。だから、、、
└--------
と息をついで、一気に言い切った。
┌--------
占領下で動きのとれない外務省も、軍需省の尻尾をひきずる商工省も、ともに
潰して新しい貿易庁を作る!
└--------
永山は全身に鳥肌がたった。純粋に国を思う情熱、先例や常識をかなぐり捨て
た構想の合理性、先進性。この日を境に永山は次郎の信奉者となった。
―― 7.通商産業省の誕生
次郎は、永山に「通商産業省(仮称)設置法案」をまとめさせ、翌24(1959)年
2月8日に閣議決定に持ち込んだ。就任後、わずか2ヶ月ほどのスピードで、
役人たちには反撃の隙も与えなかった。
商工省からは、せめて名称を「産業貿易省」にしてくれ、と言ってきた。国内
産業重視の看板を下ろしたくない、という最後の抵抗である。しかし、次郎は
「貿易より産業が先にきているような名前はダメだ!」の一言。さらに通産省
内のすべての局に「通商」という名前をつけさせて貿易重視の意識改革を徹底
した。
同年5月25日、通商産業省が誕生した。貿易庁から引き継ぎにきた事務官に
対し次郎は「引き継ぎするものなど何もない。お前らは通産省を貿易庁の後身
だと思っているのか。過去は振り返えらんでいい。これからまったく新しい行
政を始めるんだ」と言って一切の引き継ぎを拒んだ。
そして通産省の次官や局長には、次郎が目をつけた優秀な官僚を配置して立ち
上げを確固たるものにした。その上で、自分はさっと身を引いてしまったのが
次郎らしい無私なところであった。
この後、通産省は日本経済の「参謀本部」として高度成長に向けて牽引してい
く。
―― 8.何だこれは!書き直しだ!
昭和26(1951)年9月、吉田茂は講和条約に調印すべくサンフランシスコに向
かった [b]。次郎も顧問として随行した。
調印式の後には、吉田による受託演説が予定されていたが、吉田はその二日前
に、次郎に演説草稿のチェックを頼んだ。
外務省の役人が持ってきた草稿を一目見るなり次郎は渋面を作った。英文だっ
たからである。「日本人は日本語で堂々とやればいいじゃないか!」
内容も問題だった。占領に対する感謝の言葉が並んでいて、まるでGHQに媚
びているような文面である。
┌--------
「何だこれは!書き直しだ!」
「ちょ、ちょっと待ってください。事前にGHQ外交部のシーボルト氏やダレ
ス顧問にチェックしてもらったものですから、勝手な書き直しなんかできませ
んよ」
「なんだと!講和会議でおれたちはようやく戦勝国と同等の立場になれるんだ
ろう。その晴れの日の演説原稿を、相手方と相談した上に相手国の言葉で書く
バカがどこの世界にいるんだ!」
└--------
―― 9.ウィスキーのグラスをあおりながら
次郎はサンフランシスコのチャイナタウンで和紙の巻紙を買い求めさせ、毛筆
で書き始めた。
懸案である奄美大島、琉球列島、小笠原諸島の返還にも言及した。外務省の役
人は必死に止めようとしたが、次郎は「GHQを刺激するから触れるなだと。
バカヤロー、冗談を言うな!」と一喝した。「小笠原や沖縄の人々の気持ちに
もなってみろ」という思いだった。
草稿は、吉田の演説直前にできあがった。長さは約30メートル、巻くと直径
10センチほどになった。ぶっつけ本番となったが、吉田は悠揚迫らぬ態度で
読み上げていった。
日本の新生を世界に報ずる一大イベントも無事に終わった。
次郎はマーク・ホプキンス・ホテルの自分の部屋のソファーに身を沈めた。早
いピッチでウィスキーのグラスをあおりながら次郎は泣いていた。
敗戦後、僅か6年だったが、いろいろな事があった。屈辱的な憲法改正、赤い
GHQ将校たちとの死闘、そして通産省創設など経済復興への段取り。
「吾々が招いたこの失敗を、何分の一でも取り返して吾々の子供、吾々の孫に
引き継ぐべき責任と義務」の幾分かは果たせたのである。サンフランシスコの
夜は静かに更けていった。
(文責:伊勢雅臣) = おわり =
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関連リンク:
a.JOG(103) 下村治 高度成長のシナリオライター
b.JOG(206) サンフランシスコ講和条約
「和解と信頼の講和」に基づき、日本は戦後処理に誠実に取り組み、再び国
際社会に迎えられた。
参考書籍:(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
1.北康利『白洲次郎 占領を背負った男』★★★、講談社 H17
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