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国際派日本人養成講座 ――――― by 伊勢雅臣さん |
☆ 人物探訪:国作りは人作り〜山川健次郎(下) ――― 2008/03/16
健次郎はいくつもの大学の基礎を作り、明治・大正の日本の発展を支える人作
りに貢献した。
―― 1.人を育てる
山川健次郎が勤め始めた東京開成学校は、明治10(1877)年、東京大学に編入
され、健次郎もその理学部教授補に横滑りした。教授は全員外国人だったが、
2年後、健次郎は日本人として初めての物理学講座教授に昇進した。
当時は物理学を学ぶ学生は少なく、学生はいつも数人しかいなかった。健次郎
は英語で講義をし、学生は教科書を丸暗記して授業に臨んだ。
健次郎の最初の弟子となったのが田中館愛橘[たなかだて・あいきつ]だった。
後に東京帝国大学教授となり、文化勲章を受章する人物である。
健次郎は教授を務めながら、次第に教育に関心を深めていった。自分が今日あ
るのは、何人もの人々が助けてくれたお陰である。研究に徹し、発明・発見を
して科学技術の発展に貢献する道もあるが、人を育てることによって、発明・
発見が倍々に増えていく。そんな仕事も大事ではないか、健次郎はそう思うよ
うになった。教育者・山川健次郎のスタートである。
―― 2.生徒一人
物理学を学ぶ学生は数人だったが、さらに物理を専攻する学生は年に一人か二
人しかいなかった。それがゼロとなっては、日本の科学技術の振興にブレーキ
がかかる。健次郎と田中館は良い学生を見つけることに懸命だった。
「先生、理学科に頭が切れる男がいます」と田中館が知らせにきた。物理学を
専攻したいと周囲に漏らしていたのを聞き込んだのだった。健次郎は気になっ
て、理学科の教室までその男を見に行った。目元の涼やかな端正な顔立ちの男
だった。後に原子物理学の開拓者となる長岡半太郎であった。
健次郎と田中館は長岡の勧誘に力を入れ、長岡が物理学科への進学を決めたと
きには、二人で祝杯を上げた。この年の物理学科の入学生は長岡一人だった。
健次郎はほとんど毎日、長岡につきっきりで物理学を教えた。
健次郎は、時には長岡に人としての生き方を説いた。
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西洋文明や欧米人を無批判に礼賛する輩が増えているが、それは違う。日本に
は日本のよさがある。アメリカは人種差別がひどすぎる。日本人たるもの日本
の心を忘れてはならぬ。
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長岡は武士道を学ぶべく、剣道を始めた。上級生になると健次郎に似てきて、
下級生に対して「欧米人に負けてはならぬ。日本の科学の発展こそが我々の使
命だ」と励ました。
健次郎は長岡が人間的にも立派に成長しつつあることを知って、教育者冥利に
つきる、と喜んだ。
―― 3.教師の仕事とは、その人間をどう開花させるか
明治15(1882)年、健次郎は26歳の田中館を卒業と同時に東京大学準助教授
に抜擢した。「頼むぞ」と健次郎が手を差し出すと、田中館はハンカチで目頭
を拭き、やがて泣き出した。田中館は健次郎の期待に応えて、その年のうちに
助教授に昇進し、主任教授の健次郎を助けた。
明治19(1886)年3月2日、帝国大学令が発布され東京大学は東京帝国大学と
なった。帝国大学とは国家の必要とする学問を研究・教育する機関とされた。
田中館は学生時代から地磁気の研究を進めていたが、それを計測する器械の制
作にも成功した。いまでもこの器械が世界で使われており、東京帝大物理学科
のレベルは世界的水準に達していた。田中館は明治21(1888)年からイギリス
とドイツに3年間、留学し、帰国後、教授に昇進した。
明治24(1891)年10月、岐阜・愛知一帯が濃尾大地震に襲われた。健次郎に
命ぜられた田中館はすぐに現地に赴き、崩壊した寺にテントを張って調査を開
始した。田中館は地磁気が地震で変動するのではないか、と思いつき、これが
契機となって日本の地震研究が飛躍的に進歩した。健次郎が陣頭に立って東京
帝大は地震研究所の設立に向けて動きだした。みな国家のための学問をしよう
とする気迫に満ちていた。
明治26(1893)年、健次郎は助教授になっていた長岡をドイツのベルリン大学
に留学させた。長岡はドイツの専門雑誌に次々と研究論文を発表し、学界の注
目を集めた。
健次郎はこれまでの経験から、人間は周囲の人々の愛情や叱咤激励によって、
自分を見つめ、己の人生を築いていく、と考えていた。教師の仕事とは、その
人間をどう開花させるかであった。二人の弟子は、健次郎の愛情と励ましを通
じて、見事に開花したのである。
―― 4.青年たちの「理学普及運動」に協力
弟子の育成と並行して、健次郎は教育行政に打ち込んでいった。
明治14(1881)年、東京大学を卒業した青年たちによって「理学の普及を以っ
て国運発展の基礎と成す」の信念のもと、東京物理学講習所が設立された。東
京大学の卒業生はほんの一握りで、日本の科学技術を発展させるには、広く学
生を教育することが必要だという考えからだった。
健次郎はこの青年たちの「理学普及運動」に共鳴し、率先して協力した。同校
は明治16(1883)年に「東京物理学校」と改称する。現在の東京理科大学の前
身である。当時、物理学を教える学校は、東京帝大とこの東京物理学校しかな
かった。
明治26(1893)年、健次郎は40歳の若さで東京帝国大学を構成する5つの単
科大学の一つ、理科大学の学長に任命された。
―― 5.東京帝大総長
明治34(1901)年3月、健次郎は東京帝大総長に選ばれた。当時の東京帝大総
長は、日本の学界、教育界を代表して、政財界、官界、軍部とあらゆる分野に
影響力を及ぼし、国家の期待度は今日の東京大学の比ではなかった。
今まで賊軍として虐げられてきた各地の会津人たちは快哉を叫び、次は大臣だ
と期待した。しかし、権力欲のない健次郎はそんな話がでると、プイと横を向
いて、不機嫌になるのだった。
やがて日露戦争が勃発し、戦局が日本に有利に進むと、東京帝大法科大学の戸
水教授らは、講和の条件として「バイカル湖以東を割譲させよ」などと過激な
主張をした。文部省が総長の健次郎の頭越しに戸水教授休職処分を断行した。
健次郎自身は早期講和すべきと考えていたが、文部省の一方的な処分は学問と
言論の自由から問題あり、として抗議し、同時に混乱を招いた責任をとって、
学生たちも含めた全学の慰留運動を振り切って、総長を辞職した。
―― 6.私腹を肥やすにあらず、余は教育にその利益を投ずる
東京帝大総長を退いても、健次郎はゆっくりしている暇はなかった。九州の大
財閥・安川敬一郎が健次郎の自宅に訪ねてきた。
安川は炭坑の経営にあたっていたが、日清・日露戦争で巨利を得ると、「私腹
を肥やすにあらず、余は教育にその利益を投ずる」として、本業以外の財産を
すべて投じて、科学教育の専門学校を作ろうと考えたのである。そして、学校
経営の一切を健次郎にお任せしたい、と言う。教育を天職と考える健次郎が断
れるはずもない。
「校名は安川工業専門学校としてはいかがであろうか」と健次郎が提案すると
安川は即座に断った。「私は自分のために学校を開くわけではない。校名も山
川さんに一任します」 そこで健次郎は「明治専門学校」と名付けた。後の九
州工業大学である。
明治42(1909)年4月1日、孫のような新入生55名を迎えて開校式が行われ
た。「本校は、たんに技術者をこしらえるのみの学校ではない。技術に通じる
ジェントルマンを養成する学校である」と、健次郎は訴えた。
同時に「私は会津の戦争で辛酸をなめた。祖国を守るための軍備は絶対に必要
である」として軍事教練にも力を入れた。生徒たちは健次郎を「親父、親父」
と呼んで慕った。健次郎は若者を手塩にかけて育てる喜びを再び味わった。
―― 7.今日ほど嬉しいことはない。会津は朝敵ではないのだ
明治43(1910)年秋、第2次桂内閣は、東北と九州に帝国大学を設置すること
を決め、健次郎に九州帝国大学の初代総長就任を求めた。健次郎は明治専門学
校の総裁と兼務しても良い、という条件で引き受けた。
九州帝大総長を2年間務めた後は、再び東京帝大総長への出馬を求められた。
工科大学・理科大学・文科大学の拡張、安田講堂の建設など、今日の東大の基
礎を作った。また短期間ではあったが、京都帝国大学の総長も兼任した。
健次郎はいまや教育界の重鎮となり、総理大臣や文部大臣も教育問題について
は健次郎の意見を聞いてから取り組むのが通例となった。
大正3(1914)年3月、健次郎は東宮御学問所評議員に選ばれた。時の皇太子、
後の昭和天皇を教育する、という重大な職務である。学習院院長を務めていた
乃木希典大将が明治天皇崩御に際して殉死する前に、健次郎を推薦しており、
その意向を聞いていた東郷元帥が強く要請したのである。「畏れおおいことで
す」と健次郎は感無量の思いで大任を引き受けた。
かつて会津人は皇室に刃向かった朝敵の烙印を推されていたが、その会津人の
一人が次代天皇を育てる役割を与えられたのである。山川は「今日ほど嬉しい
ことはない。会津は朝敵ではないのだ」と言って、盃を重ねながら、涙を流し
た。
―― 8.72歳の校長
大正9(1920)年6月、健次郎は東京帝大を退官した。東京開成学校に勤め始め
た頃から数えると、44年に及ぶ奉職だった。
退職後は講演活動で全国を行脚していたが、それも長くは続かなかった。大正
14(1925)年2月、7年制の武蔵高等学校から顧問就任の要請があった。現在
の武蔵大学、武蔵高校である。
この学校は実業家・根津嘉一郎の出資によって作られ、設立の段階から健次郎
は相談に乗ってきたが、いよいよ開校の段になって、顧問就任を依頼されたの
だった。健次郎は72歳になっていたので、激務は無理だが顧問ならば、と引
き受けた。
ところが、初代校長一木喜徳郎が宮内大臣に就任することになり、根津は「山
川先生、なんとか校長をお願いできませんか」と何度も健次郎の家を訪ねて懇
願した。「それは、しかし」と健次郎は困ってしまったが、「山川先生、日本
の将来はいかに有意な青年を育てるかにかかっております」とまで言われると
もう断れなかった。こうして72歳の校長が誕生した。
武蔵高等学校でも、健次郎は人格教育を重視し、寮生活を取り入れた。「生徒
に万一のことがあってはならん」と、健次郎は毎日のように自ら寮の井戸水の
水質検査を行い、舎監や調理人にも厳しく衛生面を注意した。これからの青年
は世界を見なければならない、と生徒の外遊制度を作り、その資金として自ら
200円を出した。
寮生の一人が発疹チフスに罹って、重態に陥ったことがあった。日頃の注意も
あって、他の生徒への伝染は避けられた。健次郎はすぐに病院に見舞いに行っ
たが、その生徒はそのまま帰らぬ人となってしまった。健次郎は遺族に自分の
懐から弔慰料を贈り、遺骸を浅草駅まで見送った。家族は健次郎の行為に感泣
し、生徒たちも感動した。
会津戊辰戦争で白虎隊士として多くの若者の死を見た健次郎にとって、若者が
開花の前に命を失うことは耐え難いことだった。
―― 9.国作りは人作り
この間にも、健次郎は陰ながら会津のために尽くした。旧主松平家が窮乏生活
に陥っていたのを、宮中から3万円の下賜をいただけるよう働きかけた。
また、幕末会津史の編纂にも力をいれ、『京都守護職始末』によって幕末の会
津藩の立場を鮮明にし、『会津戊辰戦史』で戦争の全容を明らかにした。今日
この2冊は幕末会津史の根本資料とされている。
さらに会津戊辰戦争で戦った長州との和解を進めるため、会津藩の最後の藩主
・松平容保の次男・英夫を長州の山田顕義のもとに婿入りさせている。山田顕
義は日本大学、國學院大學の学祖ともいわれており、健次郎とは教育への情熱
で相通ずるところがあっただろう。
健次郎の晩年の功績として、松平容保の四男・恒男の娘・節子を昭和天皇の弟
宮である秩父宮雍仁[やすひと]親王の妃として皇室入りさせたことがある。節
子姫は皇后陛下と同名だったため、勢津子と改名して、秩父宮妃となった。
健次郎は御納采の答礼使として宮中に参内し、御礼を述べた。
武蔵高校に戻った健次郎に、教頭・山本良吉が「会津家ご先代の御志がいま初
めて御上に通じ、定めて地下でお喜びでございましょう」と言うと、健次郎は
無言のまま涙を流し、その涙が机の上に落ちた。
松平容保は幕末、京都守護職として孝明天皇の厚い信頼を受けていたのだが、
一転朝敵とされ、会津城での悲惨な戦闘では多くの人命を失い、降伏後も賊軍
として蔑まれてきた。その会津藩の最後の藩主の孫娘が、今、宮中に迎えられ
たのである。
健次郎が会津落城後、15歳にして長州藩士・奥平謙輔の書生として越後に赴
いて以来、多くの人々に支えられ、導かれてエール大学を卒業した。帰国して
からは、今日の東京大学、東京理科大学、九州工業大学、九州大学、京都大学
武蔵大学などの基礎を作り、明治から大正にかけての日本の躍進を支える人作
りに打ち込んできた。
山川健次郎の77歳の生涯を振り返ると、改めて「国作りは人作り」と思われ
てならない。
(文責:伊勢雅臣) = おわり =
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関連リンク:
a.JOG(538) 国作りは人作り〜山川健次郎(上)
参考書籍:(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
1.星亮一『山川健次郎の生涯』★★★、ちくま文庫、H19
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