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国際派日本人養成講座 ――――― by 伊勢雅臣さん |
☆ 地球史探訪:冷戦、信長 対 キリシタン(上) ――― 2007/05/30
〜信長の危機感〜信者を増やし、キリシタン大名を操る宣教師たちの動きに、
信長は危機感を抱いた。
―― 1.「盗賊にして何かを得んと欲するか」
天正8(1580)年、信長は安土城において、いつものように多数の家臣たち
を同席させて、宣教師オルガンチーノとその弟子ロレンソ(琵琶法師から宣教
師の弟子になった盲目の日本人)と3時間にわたって宗教論議を楽しんだ。
その後、信長は二人を別室に招いた。そこには、以前、宣教師から献上された
地球儀があった。信長はオルガンチーノに乞うて、ヨーロッパから日本に至る
道程を地球儀の上で示させた上で、「此[これ]の如き旅行は大なる勇気と強き
心ある者にあらざれば実行すること能[あた]わず」と称賛し、笑いながらこう
述べた。
┌--------
汝らが此の如く多数の危険と海洋を超えるは、或[あるい]は盗賊にして何かを
得んと欲するか、或は説かんとする所重要なるに因[よ]れるか。
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あなた方が、かくの如き多くの危険と海洋を超えて日本にやって来たのは、盗
賊として何かを得ようとするためか、あるいは説こうとする教義がよほど重要
であるからか。
└--------
―― 2.「我らは盗賊にして」
信長は、記録に残っているだけでも、永禄12(1569)年のフロイスとの最
初の会見以来、他の宣教師も含めて、14年間で31回以上の会見を行ってい
る。そして彼らの説くキリスト教の教義や科学知識に興味を持ち、彼らと議論
をすることを好んだ。しかし、信長は宣教師たちが熱心に勧めるキリスト教に
帰依することはついになかった。
キリシタンたちは、何のためにはるばる地球の裏側から、危険を冒し、万里の
波濤を超えて日本にやってきたのか。純粋な布教目的だけでそこまでするだろ
うか。「盗賊にして何かを得んと欲するか」と疑うのは、戦国時代を戦い抜い
た武将として当然の防衛本能であろう。
信長の疑念に、オルガンチーノはこう答えた。
┌--------
ご尤[もっと]もである。何故なら、我らは盗賊にして、日本人の魂と心を悪魔
の手より奪ひて其[その]造主[つくりぬし]の手に渡さんが為に来れるなり。
---------
そう言われるのはごもっともである。何故なら我々は盗賊にして、日本人の魂
と心を悪魔の手から奪い取り、その造物主の手に渡すために来たからである。
└--------
冗談めかして「盗賊」に喩える信長と、それに巧みに応じたオルガンチーノと
の間には、冷たい火花が飛び交っていた。
―― 3.ポルトガルの野望
1411年、ポルトガルはイスラム勢力下にあったアフリカ北岸の商業都市セ
ウタを陥落させた。ローマ教皇はこれを称賛し、この地をキリスト教騎士団の
所領としてポルトガルに与えた。
当時、地中海からペルシャ湾を経てインド洋に至る海域は、イスラム帝国オス
マン=トルコが支配し、インドや東南アジアとの交易を独占していた。
ポルトガルは、アフリカ大陸を迂回してアジアに至る交易ルートを開拓するこ
とによって、オスマン=トルコの独占していた莫大な利益を奪おうとした。そ
こでセウタの所領から上がる潤沢な収益を使って、造船技術者、天文学者、地
図制作者などを高給で雇い、海洋航海術を研究させて、大航海事業に乗り出し
たのである。
┌--------
JOG(454)「大航海時代」の原動力
「知識欲と探検への情熱」や「キリスト教布教の志」が「大航海時代」をもた
らしたのか? http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogdb_h18/jog454.html
└--------
ポルトガルは、アフリカ西海岸および沿岸諸島を次々と攻略していったが、そ
こでの特権は1455年、ローマ教皇ニコラウス5世の勅書によって認められ
た。その勅書は、征服した土地の所有を認め、そこで法律を作り、税金を課し
「修道院、教会などの宗教施設を建てることができ」「非キリスト教徒を永久
に奴隷状態におくことができる」として、植民地支配することを教皇の権威に
よって正当化したのである。
1488年、ポルトガルの探検家バーソロミュ=ディアスがアフリカの最南端
に到達し、それまで「嵐の岬」と呼ばれていたこの地を「希望(喜望)峰」と改
めた。その「希望」とは、ここから臨むインドから東南アジアなどの異教徒の
土地をキリスト教化し、その豊かな物産を神の名において獲得することであっ
た。「希望」というより「野望」というべきだろう。
―― 4.東アジア争奪戦
一方、スペインは大西洋を横断して西回りにアジアに至ろうと、コロンブスの
船団を派遣し、アメリカ大陸を発見していた。
東回りのポルトガルと、西回りのスペインが競合したので、ローマ教皇は地球
を二分割して両国に支配を許す勅許を与えた。しかし、その解釈上の問題で、
地球の反対側の地域では、両方の勢力圏が重なりあう部分ができてしまった。
ーーーそこにたまたま日本が入っていたのである。
日本に最初に到達したのは、天文18(1549)年のポルトガルの宣教師フラ
ンシスコ=ザビエルであった。ザビエルは、日本を強力なキリスト教国家にし
てポルトガルの支配下に置こうとした。
一方、スペインは1565年にフィリピンのルソン島を実力支配し、そこから
中国、日本に触手を伸ばそうとしていた。ポルトガルの宣教師たちはスペイン
勢力がやってくる前に、是が非でも日本を植民地化しようと、信長に近づいて
いたのであった。
―― 5.長崎に誕生したキリスト教王国
ザビエルが日本での布教を開始して13年、永禄5(1562)年肥前(長崎県)
西部の大名・大村純忠は、宣教師トルレスの強い説得に応じて、自領内の横瀬
浦を貿易港として開港し、港とその周囲半径10キロメートルの土地をイエズ
ス会領として寄進した。またこの地に入港してくるポルトガル商人と、各地か
ら集まってくる日本商人に対して、10年間、一切の税を免除する事を決定し
た。
フロイスの『日本史』によれば、博多や山口、さらには京都からも大勢の日本
商人が交易を求めてやってくるようになり、横瀬浦は貿易港として急速に発展
した。
大村純忠は、この地に仏教徒が住むことを禁止し、自らもキリスト教に入信し
て、トルレスから「ドン=バルトロメウ」という洗礼名を授けられた。以後、
家臣や住民にも洗礼を受ける者が続出し、横瀬浦と純忠の本拠地・長崎県大村
の領地で1千2百余名のキリシタンが生まれた。
純忠が戦いに臨む際には、陣羽織には「JESUS(イエス)」の文字を入れた
地球が描かれ、首には十字架のついた数珠を掛け、「聖なる十字架」を描いた
旗を高々と掲げた。まさに十字軍の騎士さながらの出で立ちであった。
純忠は同時に仏門にも入ったが、宣教師コエリヨはこれを強く非難し、神仏と
決別する証として、領内からあらゆる偶像崇拝を根絶し、一人の異教徒も住ま
わせないよう強く迫った。純忠はこれに従い、寺社の破壊焼失、僧侶を含む全
住民への洗礼強制、抵抗する僧侶の殺害、その他反対者の国外追放などを強行
した。
この結果、領内では2万人の住民がキリスト教の洗礼を受け、仏像仏閣がすべ
て破壊され、その後に教会と十字架が建てられた。小さな子どもまでも仏像の
破壊に加わり、その顔に唾を吐きかけたという。また『郷村記』は、猛り狂っ
たキリシタンたちによって純忠の養父・純前の墓が暴かれ、その骨は川に投げ
捨てられた、と記している。
―― 6.キリシタン大名への軍事援助
キリシタン大名を得るための方策として、交易による利潤の他にもう一つの手
段があった。軍事援助である。それを求めて宣教師との結びつきを深めたのが
大友宗麟[そうりん]であった。
宗麟は豊後(大分県南部)を治めていたが、日本に最初にキリスト教を伝えたフ
ランシスコ・ザビエルから、直接説教を受けており、キリシタン大名の中でも
最も早くキリスト教に接した人物である。
永禄2(1559)年、宗麟は豊後の他に豊前(大分県北部)・筑前(福岡県北部)
・筑後(同・南部)の4カ国の守護職となり、将軍・足利義輝から「九州探題」
に任命されたため、宣教師たちの期待も高かった。
宗麟はキリスト教の保護者を以って任じ、宣教師たちの布教活動を援助すると
ともに、その引き替えに軍事物資の提供を求めた。永禄10(1567)年、宗
麟はマカオに滞在していた司教にあてて手紙を書き、中国地方を支配する毛利
元就に打ち勝ってキリスト教を広げたいので、鉄砲の火薬の原料となる硝石の
日本への輸入を禁止し、自分の領国にのみ販売するように依頼している。
―― 7.長崎と茂木の軍事要塞化
天正7(1579)年に、東洋地域全域を所管する巡察師アレッサンドロ・ヴァ
リニャーノが来日すると、その指導にとってキリシタン勢力が急伸した。大村
純忠は、ヴァリニャーノの来日を機に、長崎(長崎港周辺部)と茂木(長崎市茂
木町)をイエズス会の永久教会領として寄進した。
ヴァリニャーノは翌天正8(1580)年に、この長崎と茂木の地を、ポルトガ
ル人を中心として軍事要塞化するように指示した。これに従って数年後には、
同地は大砲・鉄砲などにより武装され、軍艦も建造配備された。
天正13(1585)年には、純忠の領土の全領民約6、7万人がキリシタンと
なり、ここに完全なキリシタン王国が誕生したのである。
大村純忠の縁戚で、島原を領有していた有馬晴信は、当時、肥前東部(佐賀県)
の龍造寺氏から度々攻撃を受けて窮地に陥っていた。晴信はヴァリニャーノか
ら洗礼を受け、その見返りとして、食糧不足に苦しんでいた4つの城で、多量
の糧食と金子[きんす]を受け取った。
さらに、マカオからやって来たポルトガルの交易船から、弾丸に使う鉛や火薬
の原料となる硝石を贈られた。こうした軍事援助で、晴信は龍造寺氏との戦い
で危機を脱することができた。
晴信はこの返礼として、ヴァリニャーノが自領に滞在していた3ヶ月の間に、
領内にあった40を超える神社や仏閣をすべて破壊し、領民2万人を入信させ
た。さらに浦上(長崎市浦上)の地をイエズス会の教会領として寄進した。
宣教師たちはこれらのキリシタン大名を経済的軍事的に支援する一方、毛利氏
・龍造寺氏・島津氏など反キリスト教の大名とは交易関係すら結ばなかった。
―― 8.「十字軍騎士」となったキリシタン大名
ヴァリニャーノは、キリシタン大名との政治的・軍事的連携を強化する一方、
布教体制の改革を進めた。セミナリオ(神学校)、ノビシアド(修練院)、コレジ
オ(学院)の3種類の教育機関を設け、日本人司祭の養成に努めた。
天正10(1582)年頃には、西日本各地に設けられた教会堂の数は大小合わ
せて200ヶ所、神父・神弟(日本人の伝道師)は75人に上り、急速な布教が
進められた。信者数は京都から中国地方に2万5千人、大友宗麟の治める豊後
で1万人、大村純忠・有馬晴信が支配する大村・島原・長崎地域に11万5千
人、合計15万人ほどにも急増した。
この年1月には、それぞれの教育機関で育成した日本人子弟の中から、優秀な
4人の少年を選び出し、大村純忠・有馬晴信・大友宗麟の3キリシタン大名の
使節として、ローマ教皇とスペイン・ポルトガル連合国国王の許に派遣した。
翌年2月に少年使節たちはローマで教皇グレゴリオ13世に拝謁した。教皇が
皇帝や国王を迎接する「帝王の間」で拝謁するという異例の栄誉を受け、3人
のキリシタン大名からの親書を手渡した。
こうした儀式を通じて、キリシタン大名たちは、ローマ教皇に忠誠を誓い、日
本の「異教徒」と戦う「十字軍騎士」とされていったのである。
―― 9.「我一生の不覚也」
信長が安土城で宣教師オルガンチーノと会見し、「盗賊にして何かを得んと欲
するか」と聞いたのは、こういう状況下であった。
天下統一を目指す信長は、当時中国の毛利氏と戦っていたが、その背後から九
州探題・大友宗麟も中国を狙っていた。九州から京都を目指すキリシタン勢力
と、京都を押さえ中国・九州へと全国統一事業を進めつつあった信長とは、早
晩対決が運命づけられていた。
『切支丹来朝實記』には、この頃の信長の心境をこう記している。
┌--------
破天連方よりは、便[たより]毎に今年は日本人何千人勤め、今年は何万人勤め
入ると臺帳に記[か]きて、南蛮へ渡すとか。宣教師たちが貧民病者を慈しみ、
尚[な]ほ此等[これら]の妻子眷属に一人前金一銭づつを與[あた]ふる等、弓矢
を不用[もちいず]して日本を随[おと]さんとの謀事、然るに信長、南蛮寺の取
沙汰、あやしき宗門の様子及聞[ききおよんで]、心の内には後悔しけり。
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日本に駐在している宣教師からの報告で、今年は日本人が何千人入信し、今年
は何万人入信したかと、台帳に記して本国のポルトガルに送っているとの噂。
宣教師たちが、貧しい者や病人を慈しみ哀れみ、それだけでなく妻子眷属に一
人当たりの前金として一銭ずつ与えるなどして、弓矢を使わずに日本を征服し
ようと謀略を企んでいること。このため信長はキリスト教会内の活動や信者た
ちの怪しい所行について聞き及ぶ所があって内心では後悔していたのである。
[1,p8]
└--------
さらに『實記』が伝えるところによれば、信長は前田徳善院玄以という仏僧に
「自分は彼らの布教組織を破壊し、教会を打ち壊して宣教師たちを本国に返そ
うと思うが、どう思うか」と諮問したが、「もしそのようなことをすれば、た
ちまち一揆が起こることは間違いありません」と答えたので、信長は今まで宣
教師たちを保護してきた政策について「我一生の不覚也」と漏らした。
(文責:伊勢雅臣)= つづく =
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JOG(003) 悲しいメキシコ人(日本がスペイン領になっていたら)
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h9/jog003.htm
参考:(お勧め度★★★★:必読〜★:専門家向け)
1.椛島有三『織田信長の国家戦略』明成社H17
■ Japan On the Globe(497)■ 国際派日本人養成講座 ■
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└→ 感想や激励をよろしくお願いいたします。
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