異聞シベリア抑留記 ―――――― by 江藤一市さん
☆ アクモリンスク収容所(4) ――――――――――― 2008/08/25

――【快適なMTC(エム・ティ・エス)生活】

1947年、入ソして三年目の五月末から約四カ月間、本部から200キロ程
離れたΜ・Τ・Cというところへ、十五人が一グループとして派遣されること
となった。

もうこの頃になると、可成り個人の自由も許されて、休日には二、三人が組に
なってバザールへ買物に行くこともあり、あかには作業場で知り合った女性に
会いに行く者もいたぐらいだった。

Μ・Τ・Cとは、自動車、農耕機械のセンターという意味で、大型トラックや
大型コンバインなどが、数十台常駐、播種、収穫等の季節になると各地の農園
からの要請に応じて運転者付きで派遣、収穫、集積、納入などが終われば帰っ
て来て、冬期間に整備などに従事する。

夫婦同行のこともあるし、別々の農場に行くこともあった。従ってそれが原因
のトラブルも結構あったらしかった。

集落は全部で四十戸ぐらいで、若い男女はほとんど各農場に出向き、留守宅は
大抵老人と子供ばかり、従って自家労働力の不足を補う為、我々の派遣を要請
したものらしい。

どんな基準で選ばれたのかは、本部のやった事なので詳しい事は判らないが、
大工、左官、その他なんらかの特技を持った者が選ばれたらしい。

五人一グループで、長は設けなかったが四ヶ月間起居を共にした警備兵のマッ
キャモフ(ウズベック人)とビッシェロフ(タタール人)が隊長代理みたいなもの
で、毎日の作業の受領、割り当て、記録、報告まで一切彼等が行なった。

四ヶ月間同じ釜の飯を食ったせいもあろうが。実に日本人には好意的で、優し
く、余程の規則破りでもしない限り叱るというようなことはなかった。

私は医療所に居た関係で、衛生係兼通訳という形で、別に作業には出なくても
良かった。林という専属の炊事係がいたので衛生的な助言をしたり、炊事の手
助けをしたりで毎日を過ごした。

我々十七人の居住用に家を一軒与えられた。直ぐ隣にあるストローワヤ(食堂)
=一般の人も出入りする)で、朝、昼、晩とも食事する。炊事はそのストロー
ワヤ付属のクッフネ(調理場)でする。

各人は、毎朝指示された家に行く。仕事によって単独のこともあり、二、三人
組のこともあるが、家屋の修理、自家農園の耕作、道路の補修とか、あらゆる
作業につく。

私と炊事係の林とは、皆が仕事に出た後の部屋の整理整頓、清掃も日課の一つ
だった。私達も、仕事に行った連中も、留守宅の老人子供と交流があり、これ
が捕虜生活だろうかと疑うほどのんびりした楽しい毎日だった。

月に一度か二度ぐらいは、全員纏まって少々離れた所に臨時の作業に行くこと
もあったが、このことに就いては後述する。

――【ソ連人の捕虜に対しての意識】

こちらは捕虜なのに何故?と理解できないと思うので、ソ連の人々が捕虜とい
うものをどんな風に理解していたかに就いて少し書いてみることにする。

「生きて虜囚の辱しめを受けず」とは、大和魂としていやという程叩き込まれ
てきた観念でした。捕虜になれば、虐殺される、耳や鼻を削ぎ落とされる、手
足を切り落とされるとか、あらゆる残虐な仕打ちを受けると広く言われていた
ものだった。

1829年の、捕虜に関するジュネーブ条約などを知っているのは、極く限ら
れた一部の人で、大半の人々はその存在さえ知らなかっただろう。

だから一般では「捕虜」になるのは死ぬ程恥ずかしい事、恐ろしい事とだけし
か思わなかった事でしょう。だからこそ敗戦を知り、捕虜になると知った時、
自らの命を絶った人が何人もいたのを私は知っている。

ところが、ソ連に抑留されて実感したのは全く違うものでした。

ロシヤ人の上級幹部はどうだったか知る由もないが、一般では「捕虜」という
ものに対してのイメージが我々とは全く違うものでした。

第一「捕虜[ワイエンヌイ・プレンヌイ]」という言葉を聞かない。戦闘に参加
した勇士として「兵士[サルダート]」と呼ぶ。ソ連という国は、六十以上の民
族の集まりといわれるだけに「人種差別」というものがなかった。

----内実は、ロシヤ人だけは他の民族に対して或る種の優越感を持っているよ
うに思えたが・・・

私は可成りの期間一般地方人と接したが、そんな気配を感じたことは一度もな
かった。もっとも私の接した人というのは、独ソ戦当時、ドイツ軍の占領下で
ドイツ軍に協力したとかの罪で、巻き返したソ連軍に捕らえられ、はるかな地
へ流刑になった人が多く、内心はスターリンを、共産国家を恨みに思っていた
のかも知れないが・・・・

話しても「俺の祖父さんは日露戦争に行った」とか「広瀬中佐を知っている」
とか「日本は柔道が強い」とかで、寧ろ好意を持っているようにさえ感じたも
のだった。

そして、スターリンの政治体制について、可成り批判的な言葉もしばしば聞か
された。しかし、それは絶対に他の人に洩らしてはいけないと口止めを忘れな
かった。

一人でも日本人以外の人間が居る時には、絶対に口にしない。若し他の人間に
聞かれたら大変なことになる。何しろ、ゲー・ペー・ウー=国家秘密警察の手
が何処に伸びているか全く判らない。

一般人の中に紛れ込み、普通の人と変わりない生活をしている。一般住民の内
の十人に一人はそうだといわれているが、実態は全く不明。このゲー・ペー・
ウーなるものは絶大な権力を持っているらしく、極端に怖れられていた。警察
権・司法権まで持っているらしい。

一度だけその権力を垣間見たことがあった。

まだ集結前の奉天での出来事だった。或る日、三人連れで市内の某アパートを
訪ねた。勿論その頃の市内は暴動が起きていた頃だったので、各人拳銃には実
弾をこめて携行した。

そのアパートには、同行した一人の姪御が住んでいた。彼女はまだ二十三、四
歳で独身。(姓が福岡だったのが印象深く今だに覚えている)市内の満蒙デパー
トに勤めていたが、これは表向きで、実は軍の特務機関に籍をおく特別工作員
で、奉天市内の経済状態の調査、経済攪乱などの任務についていた。

市内の闇市場などには随分と顔も利くらしく、訪れた時にも、その頃では入手
不可能とも思える高級ワイン、コーヒー、チョコレート、その他菓子類など、
ふんだんに貯えていて惜しげもなく振る舞ってくれた。

                           = つづく =
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