異聞シベリア抑留記 ―――――― by 江藤一市さん
☆ アナール収容所にて(12) ――――――――――― 2008/06/30

――【大食いの賭け】

彼は情報室勤務をしていた関係で、少々なロシヤ語は理解できた。しかしそれ
を公然とは言わなかった。

憲兵、警察官などがソ連側から白眼視されるのを知っていたから、軍隊時代に
特務機関などのような情報蒐集に携わっていたと判ったらただでは済まないと
考えていたからである。

彼がアナールの収容所には入ってから、黒パン3kgを1時間で食えるか、と
いう賭けに挑戦したことがあった。

アナール収容所には、イワンとシュリゲという二人の、一日交替でジジョルネ
(日直将校)に就くロシヤ人将校がいた。

収容所には、他にも人事係、営繕係、倉庫係、ドクトル、政治部員、その他に
も数名のソ連人がいたが、この二人が私達と接触する機会が最も多く、けっこ
う日本語も習得していたので親しみ深かった。

ナチャイリニク=収容所長)アルロフは、五十歳前後の恰幅のいいロシヤ人で
非常に厳格であった。収容所の職員達でさえピリピリしているほどだった。

イワンもシュリゲも二十五、六歳のリチネント(中尉)で、陰になり日向になっ
て我々をナチャイリニク・アルロフから庇ってくれたものだった。

――【将校のプライド】

ある日曜日のことだった。それぞれ将棋を指したり、碁を打ったり、花札に興
じたりと、それぞれ自由時間を楽しんでいた。

私達五、六人で輪になって雑談をしているところへ、イワンがぶらりと入って
きた。ーーー日曜なので、所内には彼の他には誰も職員はいない。

私たちの話はいつもと同じ食べ物の話。3kgのパンを1時間以内に食べれる
か?という話になった。イワンがその話を聞いて、

「よし!誰か食べられる者がいたら、俺が50ルーブル出そう!」

と言い出した。

「よし!俺が食おう!もし食えなかったら俺が50ルーブル払おう」

と応じたのが、他ならぬ小野君だった。

彼なりの自信はあっただろうし、また、彼の健啖ぶりは定評のあるところだっ
た。しかし黒パンの3kgといえば容易な量ではない。

幅約12〜3cm、高さ15cmぐらい、長さ25cmはあろう。ーーー常人
ではとても食べ切れる量ではない。

彼は余程の自信があったのだろう、首に提げている巾着袋の中から50ルーブ
ル紙幣を取り出すと、皺を伸ばし、イワンの出してある紙幣の上に重ねグッと
押さえた。――――皆は、面白くなったぞ!と、将棋や碁で遊んでいた連中も
中止して集まってきた。

使いの者が炊事場に行って、イワンの名前で黒パン3kgを受け取ってきた。

岩塩の砕いたものと水が用意され、炊事から借りてきた包丁でパンを五つに切
り分けた。イワンが、持っていた時計を置くと、愈々パンを食べ始めた。

初めの一つは大して時間もかけずに平らげると、水も飲まずに直ぐ次に手を伸
ばした。しかし、半分ぐらいから段々ペースが落ち始め、50分経った頃には
盛んに首を振ったり、胸を叩いたりし始めた。

さあ、目分量で2kgも食べた頃、小野君は「もう駄目!負けた!」と後ろの
寝台に引っ繰り返った。イワンは大声で笑うと「ヘーイ!スパシーボ!」=や
あ、ありがとう)と、100ルーブルをポケットに入れた。

------この後で喜多少尉は、黒パン500grとバター500grを、30分
以内で食べるのに100ルーブルを賭けて見事に勝ち、100ルーブルを取り
返した。

しかしその賭金は、翌日イワンと小野君に50ルーブルずつ返したとの事だっ
た。ーーー腐っても鯛、例え捕虜になっても、陸軍将校として賭事など・・・

ーーーというプライドをなくしていない立派な人でした。

                           = つづく =
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└→ 感想や激励をよろしくお願いいたします。 
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