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異聞シベリア抑留記 ―――――― by 江藤一市さん |
☆ アナール収容所にて(10) ――――――――――― 2008/06/16
――【炭坑の女達:バーニヤマダム】
辛い炭坑作業だが、一日を気持ち良く働けるのも、終わってからの疲れをすっ
かり忘れさせてくれるのも、バーニヤマダムだった。
バーニヤには、小盗児[ショートル]マダムと観音様とカーチャの三人の女が、
一日勤務で交替して働いていた。小盗児[ショートル]とは満州語で「こそ泥」
と言う意味。
トーリヤというこの女には少々盗癖があった。
バーニヤマダムの仕事は、私達が坑内に入る時に着るスペーツ(作業衣)の管理
と、私達が着てきた衣服とか持ち物の監視、及び部屋の掃除、整頓が主な任務
であった。
トーリヤが純粋なロシヤ人でないことは判ったが、何処人なのか見分けがつか
なかった。----当時聞いた話では、ソ連には60以上の民族がいるといわれて
いた。後で聞いたらチェチェン人とのことだった。
理由は良く知らないが、チェチェン人は他の人種の人達に軽蔑されているよう
に思えた。故郷を持たぬジプシー(流浪者)が多いとのことだった。
年齢は50歳を過ぎたぐらいで、いつもニコニコして気立ては優しそうだった
が、彼女がバーニヤの日直に就くと、必ず誰かのムイロ(石鹸)が紛失する。
5立方センチぐらいの、小さく真っ黒な粗雑な物だが、それでも一個あれば三
回ぐらいは使える。或いは金が失くなる。初めの頃はマダムが盗むなどとは誰
も想像しなかったが、何度も何度も紛失事件が起こるに従って、この女の仕業
だと気がついた。
しかし盗む現場を見た者がいないので咎めるわけにもいかず、皆で話し合って
トーリヤの日直の日は、所持してきた金、小物、石鹸など皆持って坑内に入る
ようにした。
その事を除けば実に優しい女で、私達が汚れたスペーツを脱ぎ散らかして帰っ
ても別に文句も言わず、一つ一つ衣料掛けにかける。スペーツが無いと言えば
部屋の隅々まで探してくれる。
私達に対して何一つ煩く言うこともなく親切に振舞ってくれる。その悪い癖さ
えなければ、私達にとっては申し分のないバーニヤマダムだったのだが‥‥。
観音様と呼ばれたアンナは、呼び名のように奇麗で、性格も優しい30歳前後
のウクライナ人。勤めるようになって日も浅いせいか、私達の言うようにして
くれる。
勿論盗癖もないので、彼女の日直の日は何も心配なく、外套も貴重品も石鹸も
バーニヤに置いて安心して坑内に入る。坑内から上がってくると、彼女は眠っ
ているような細い目の笑顔で迎えてくれる。
誰からか教わったのだろう、「ゴクローサン」と言いながら・・・。
もう一人のマダム・カチューシャ(カーチャと呼ぶ)は、22〜3歳ぐらいで、
かなり勝ち気な、そして娼婦型の女で、総ての点でだらしがない。
私達が、スペーツが無い、手袋が無いと騒ぎ出すと、「お前達の置場所が悪い
んだ!」とか「ちゃんと後始末しないからだ!」とか、凄い剣幕でキンキン声
を上げる。そして、そこらにあるスペーツを放り出す。
その中からどうにか見つけ出して、後の残りをそのままにでもしておこうもの
なら、また甲高い声で「片付けろ!」と喚く。知らぬ振りをしていると、近く
にいる誰をでも掴まえて、どうしても片付けさせようとする。
捕まった者は「俺は知らん!」と言って逃げる。次の者を掴まえる。また逃げ
る。皆は面白がって囃す。皆結構楽しんでいたようだ。最後には皆を押し出す
ようにして外に出してしまう。
坑内から上がってきてもスペーツは散らかしたまま、掃除した様子もみえぬ。
ペーチカだけは勢い良く燃えていて、側の長椅子に寝そべっている。時には鼾
をかいて寝込んでいることもあるが、
私達がバーニヤに入るため全部脱いで横を通るとき、どうかすると起き上がっ
てニヤニヤしながら眺めている。なんとなく薄気味悪く感じるほどだった。
作業中に、頭痛がするからと途中でバーニヤに帰った兵隊が、片隅の長椅子の
上で警備の兵隊と抱き合い、扉が開いたのにも気がつかず、聞くに耐えない呻
き声を上げている彼女を見た、というのも聞いた――――。
= つづく =
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