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異聞シベリア抑留記 ―――――― by 江藤一市さん |
☆ アナール収容所にて(2) ―――――――――――― 2008/04/21
――【元軍曹が泥棒】
入隊前は(旧制)中学の先生をしていた「T」という乙種幹部候補生上がりの元
軍曹がいた。軍隊当時は大した張り切り屋で、もの凄い気合いを入れることで
有名、兵隊に随分恐がられていたものだった。
その彼が、収容所に入ってからは信じられない程の変わりよう。
顔は全く精気を失くし、ドロンとした眼差し、それでいつもキョロキョロ落ち
着きがなかったが、こと食べ物となると、まるで人が違ったように目をギラギ
ラさせる。
収容所に入ってからは下士官も兵隊もない。『働かざる者食うべからず』で、
皆一様に労働に服する。ところが彼は、作業に行っても他の人の半分も動かな
い。空腹で腹一杯の力仕事はできないという者もいたが、彼のようにサボる者
は他にいなかった。
毎朝、暗い食堂でパンとスープを受け取って、長い机に並んで食事をするので
あるが、スープを飲んでいるほんの一寸の隙に、目の前のパンが消える。なに
しろ一日の活力源なので当然大騒ぎになる。
結局彼のポケットからそのパンが出た。そして袋叩きに遇った。
一度などは見つかって「これは俺のだ」と言い張ったこともあったが、自分の
分は受け取って直ぐ立ったままで食べてしまっていたのだが、それを見ていた
者がいて誤魔化しは効かず、その時も随分殴られた。
しかし彼は懲りもせず、食べる机を変わったりしてその後もちょいちょいやっ
ては露見、その度に随分殴り飛ばされたものだった。
そのことは全員に知れ渡って、食事の時、彼の周りの者は、スープを飲む時で
も片手はパンから放さないようになった。皆が皆そうではないのだが、困窮、
殊に飢餓状態になると、人間は考えられないような変わりようをするものだと
はっきり知らされた。
――【医療所開設】
病人が出た場合、収容する場所が是非必要だというので、医療所を開設すると
いう事になった。これができたら私は診療の手助けをする事になるので、あの
大変な雪掻きに行かなくて済むようになるので大賛成だった。
隊員の中から、木工経験者五名、左官その他手伝い五名を集めて建築に取りか
かった。彼等も本職の仕事なので嬉々として働いた。木材の採寸、切り込み、
組み立て、流石に本職、実に鮮やかな手際である。
なにしろソ連での家造りは傑作である。
柱を立てるには、地面に穴を掘ったら、そこに直接柱を立てて埋める。それに
上って紐を張り、高さを揃えるのに上部を切る。そしてその上に梁を乗せ、鎹
[かすがい]を打ち込んで止める。実に簡単なものである。
日本人のように、鑿[ノミ]で穴を掘ったり、ほぞを作って差し込むというよう
な器用な仕事は駄目なのである。途中で何度も、所長やその他の職員が作業を
見に来たが、誰もが日本人の巧妙な建築法に驚嘆したものだった。
結局十日程で立派な療養所が完成。診療を開始することになった。
――【ドイツ人が通訳】
診療のスタッフは、軍医1、衛生下士官1、衛生兵2、という編成で、我々は
その一部屋に起居することとなった。今までの狭苦しい、汚い二段ベッドの生
活とは雲泥の差、まさに天国の思いだった。
診察は軍医が行ない、ソ連の軍医が立会する。
体の具合の悪い者は、所属の隊長に申し出て診察を受ける。軍医が診察してそ
の病状をソ連軍医に報告し、作業を休む許可を貰うのである。作業に出すかど
うかを決めるのはソ連軍医である。
ところが入ソしてまだ日が浅いので、言葉が全然通じない。部隊に一人だけ通
訳はいるが、作業のほうの連絡に掛かりっ切りで、とてもこちらまでは手が回
らない。そこでソ連軍医はドイツ人の衛生下士官(これも捕虜)を連れてきた。
軍医は、学校時代に使った片言のドイツ語でドイツ人に話す。これをドイツ人
はロシヤ語に直してソ連軍医に伝える。そしてその返事も逆順で軍医に戻って
くる。
軍医のドイツ語もそう達者ではないので、その意志が完全には伝わらない。こ
れではあまりに不便なので、私は、少しロシヤ語を勉強して、診療が少しでも
スムーズにいくように、せめて日常の用足しができるぐらいになろうと決心し
た。
早速部隊の通訳のところへ行き、事情を話して、たった一冊しかない日露辞典
を貸してもらった。日常に必要と思われる単語だけを拾って、二昼夜かけてそ
のボロボロの辞書から書き写した。
それからというものは、それを片時も手放さず、会う人毎に何かと話しかけ、
ロシヤ語の習得に努めた。ーーー人の一心とは恐ろしいもの、一ヶ月もすると
どうやら日常会話はカツカツ通じるようになり、診療の時のドイツ人も要らな
くなった。
ーーー考えてみると、これが私の抑留生活の上でどんなに役に立ったことか、
どんなに助けられたことか、計り知れないものがあった。
= つづく =
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└→ 感想や激励をよろしくお願いいたします。
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