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歴史再考 ――――――――――― by 竹下義朗さん
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この記事中の画像は全て「帝国電網省」の該当ページより転載しています。
☆ 大化改新秘史(2)〜真の首謀者は誰だ? ――――― 2008/04/18
蘇我入鹿をとおして大化改新の「真の原因」は明らかになりました。
しかし、謎はもう一つ残っているのです。大化改新の「真の首謀者」すなわち
「主犯」は誰だったのか?ということです。
大化改新の登場人物を眺めてみると、暗殺された蘇我入鹿=被害者)、暗殺を
実行した中大兄皇子=後の天智天皇)中臣鎌子=後の藤原鎌足)蘇我倉山田石
川麻呂=暗殺実行犯)らの他に、もう一人重要な人物が登場します。
それは軽皇子=後の孝徳天皇)です。
よく劇画などでは、大化改新の入鹿暗殺の場面を、颯爽と登場した中大兄皇子
が悪名高い蘇我入鹿を鮮やかに暗殺する、といった感じで描いています。しか
し実際には、中大兄皇子も、中臣鎌子も、そして、蘇我倉山田石川麻呂も、皆
震えが止まらず、なかなか暗殺できなかったようです。
つまりは暗殺実行犯の面々は皆肝が小さい連中だったということで、時の権力
者蘇我入鹿という大人物を、よりにもよって宮中の太極殿で、入鹿の愛人であ
る皇極天皇の面前で暗殺するなどという大それたことを計画実行できる器では
なかったのです。
しかし、彼らは暗殺を実行しました。それには、事後処理において、自分達の
身の安全が完全に保障されていなければなりません。
また、暗殺段階でさえ及び腰だった実行犯の面々が、蘇我氏の本家をも滅ぼす
など、作戦はあまりにも電撃的で鮮やかでした。ーーーここで考えられるのは
実行犯と計画犯=首謀者)は別ではなかったのかということです。
そんな中、浮かび上がってくる人物が「軽皇子」です。
大化改新後、蘇我入鹿の愛人であった皇極天皇は、政変の翌々日に退位しまし
た。本来ならば、大化改新の最大の立て役者・中大兄皇子が即位するはずでし
た。なんといっても政変の実行犯ですし、皇極天皇の子なのですから。
しかし、ここで即位したのは、中大兄皇子ではなく、皇極天皇の弟で、中大兄
皇子の叔父に当たる軽皇子でした。そこで浮かんだのは、大化改新の計画犯、
つまり「真の首謀者」は軽皇子ではなかったか?ということです。
軽皇子は、なぜ大化改新の僅か2日後という直後に、何の功労もないのに、大
化改新の最大の立て役者・中大兄皇子を差し置いて即位できたのか?
これは今まで大いに謎でした。正にダークホースです。
しかし、もし彼が中大兄皇子らに計画を吹き込んで、周到な準備をさせ、裏で
作戦を指揮していたとしたらどうでしょう。政変直後に即位できたことも納得
がいくのです。
しかし、中大兄皇子がそう簡単に皇位というニンジンを放棄するでしょうか?
いや、これがあり得るのです。それは、中大兄皇子の母・皇極天皇の処遇につ
いてです。
皇極天皇は蘇我入鹿と愛人関係にあった・・・つまり天皇家のプリンス達から
は、いわば「裏切り者」ともいえます。蘇我入鹿が暗殺された際、本来なら当
然連座して暗殺されたはずです。しかし、皇極天皇は退位しただけで、何のお
咎めもありませんでした。
これは皇極天皇の子である中大兄皇子にとってみれば、最大の安心材料です。
さらに、自らが皇太子になれるのですから、次代の皇位を約束されたようなも
ので、こんな好条件を飲まないはずがありません。
さらに、軽皇子が首謀者ではなかったかという理由の一つに「遷都」が挙げら
れます。軽皇子が即位し、孝徳天皇となった際、飛鳥の都(奈良県)をあっさり
と棄て、難波長柄豊碕宮(大阪府)に遷都した事実です。
なぜ、遷都しなければならなかったのか?
先ず考えられるのは、大化改新を完全なものとするために、新都で政権を刷新
した。
次に考えられるのは、飛鳥の都では最早、首都として機能させるには不具合で
あったから。
この両者共に、インパクトに欠けます。
前者は現在の「首都機能移転問題」でもそうですが、莫大な財政支出を要しま
す。いくら政権を刷新するからといってもあまりにも負担がかかり過ぎます。
後者は、孝徳天皇の死後、都が再び飛鳥の地に戻されたことから説得力に欠け
ます。
そこで、第三の理由が浮かんできます。
その理由とは、政権の刷新でもなければ、首都機能問題でもありません。
大化改新と孝徳天皇自体にあったのです。――――もし、孝徳天皇が大化改新
の「真の首謀者」であったとしたら、自らが滅ぼした「蘇我氏の都」に居続け
るでしょうか?
確かに、蘇我氏の本家は滅亡しました。しかし、倉山田石川麻呂に代表される
蘇我氏の傍流(分家)は今だ健在なのです。この傍流蘇我氏がいつ勢力を蓄え、
第二・第三の入鹿を輩出するか分かりません。
また、蘇我氏本家が滅亡した際に「失業」した家臣団が、いつ、自分の寝首を
かきにくるとも知れません。そんな不安だらけの「呪われた都」に居続けるで
しょうか?
そう考えてこそ「難波遷都」の理由がつくのです。
そしてそれこそ、孝徳天皇が「大化改新の真の首謀者は私だ」といっているよ
うなものなのです。
= この稿おわり =
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┃ ┃ お寄せいただきましたご意見や感想。
┗━┛ ┌──────────「たどさん」40代@男性@会社役員@近畿
面白く拝見しました。
大化の改新の真相については、それもありえるかもという印象を持ちましたが
軽皇子=孝徳天皇)が真の首謀者との意見には大いに疑問を感じます。
645年に孝徳帝は難波宮に遷都し、652年に宮殿を完成させるも、わずか
3年後の655年には奈良に遷都され、難波宮は廃されます。ただ、奈良=後
飛鳥岡本宮)への遷都は、事実上中大兄皇子により行われ、孝徳帝は、臣下は
おろか、皇妃であった間人女皇子=中大兄皇子の妹)にも見捨てられ、
ーーーただ1人難波に置き去りにされたのです。
たった一人難波に置き去りにされた孝徳帝は、まもなく悲憤のあまり死んでし
まいます。皇位は、中大兄皇子の事実上の傀儡で、中大兄の実の母である皇極
女帝が重租しました。
軽皇子=孝徳天皇)が大化の改新の真の首謀者になるような強いリーダーシッ
プを持った人物ならば、ここまで中大兄皇子に馬鹿にされた惨めな最期は遂げ
るでしょうか。
また、孝徳天皇の死後、皇極女帝が重租し斉明帝になったことからも、中大兄
皇子は、大化の改新の実行犯としてまだ表に立ちたくないという意図が感じら
れます。
ちなみに孝徳帝の皇妃=間人女皇子)は、中大兄皇子と実の兄妹でありながら
愛人関係にあったようです。つまり、軽皇子=孝徳天皇)は、情けないことに
妻さえも中大兄皇子に寝取られていたのです。
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┌──────────「竹下義朗さんから」
たどさん、ご意見拝見しました。
確かに、中大兄皇子=後の天智天皇が首謀者だったという見方もできます。
ただ、この場合、合点がいかない点が幾つかあります。
第一に、中大兄皇子が首謀者だったとすれば、入鹿暗殺後、政変の余勢を駆っ
て自ら新政権を樹立する事も可能だった筈ですが、実際に即位したのは軽皇子
=孝徳天皇)。
第二に、孝徳天皇の下で立太子したにも関わらず、帝の死後、自らは即位せず
母親=皇極天皇)が再び即位し=斉明天皇)、皇太子の座に甘んじた事。
そして第三は、斉明天皇の死後、皇太子であった中大兄皇子は「称制」の座に
甘んじ、即位するまでに8年もの歳月を要している事。もし、彼が真の首謀者
であったとしたら、政変に際し最も皇位に近かった筈ですが、
孝徳・斉明二帝の下では皇太子、その後、8年の称制を経てようやく即位でき
た訳で=実に政変の23年後に即位)このような経緯を見ると彼が真の実力者
であり、政変の真の首謀者であったとはどうしても思えない訳です。
ただ、軽皇子が権勢を振るえる程の大人物であったかについては、私も懐疑的
でして、政変を画策成功させたまでは良かったものの、いざ即位してみたら指
導力が伴わず、結果的に周囲から見限られたのではないか・・・と。
ーーーまるで今の福田総理のようですね。
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┌──────────「ビワさん」40代@男性@フリーランス@海外
興味深く拝読しました。大化の改新、その真の首謀者としての軽皇子(←パソ
コンでは一発変換できませんね)のお話、説得力を感じながら読めました。
それにつられて、冒頭で紹介されていたバックナンバー記事も読みました。
蘇我入鹿(←一発で変換されました)が「天皇に準じる者」であったればこその
暗殺であったという主旨は、至極頷けます。ですが、蘇我入鹿が皇極天皇の愛
人でありパトロンであったというのが、定説なのか、何かの資料に基づく新説
なのかが分かりません。(無知で済みません)
この回で唯一明記されていた「上宮聖徳法王帝説」からなのでしょうか。
また、この「上宮聖徳法王帝説」の資料価値が分かりません。ウィキペディア
を見てみれば「信用度の高い」という評価があるようですが、一級史料として
扱える文献なのでしょうか。
ともあれ、限られた史料などから過去の事実を探ろうとする歴史への試みは、
とても楽しいですね。今後も期待しています。
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┌──────────「竹下義朗さんから」
ビワさん、ご意見拝見しました。
我々は蘇我入鹿[いるか]とか蘇我蝦夷[えみし]、蘇我馬子[うまこ]と呼んでい
ますが、これらが彼らの実名だったかのどうかは甚だ疑問です。なにしろ、
乙巳の政変で入鹿は暗殺され、父親蝦夷も息子が殺され自らの邸宅にも軍兵が
差し向けられた事で、もはやこれまでと自害している訳で、蘇我本宗家の滅亡
後に編纂された古事記や日本書紀に、彼らの実名が記されたという証拠は何処
にもない訳です。
実際、奈良時代の政治家、和気清麻呂[わけのきよまろ]が、宇佐八幡宮神託事
件に際して、称徳女帝の逆鱗に触れ、別部穢麻呂[わけべのけがれまろ]と改名
させられた例もありますし、蘇我本宗家一門の人間の名前が、史書編纂の際に
卑字を用いたものに改められた可能性もあります。
現在の裁判所の審理でも難渋する事を考えれば、千数百年も前の事を明らかに
するのは並大抵の事ではありません。まあ、逆にいえば、そこが歴史探究の面
白さでもある訳ですが・・・
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└→ 感想や激励をよろしくお願いいたします。
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