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歴史再考 ――――――――――― by 竹下義朗さん
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この記事中の画像は全て「帝国電網省」の該当ページより転載しています。
☆ 大化改新秘史(1)〜蘇我入鹿は何者か? ――――― 2008/03/21
大化改新―――645年、宮中太極殿で中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌子
(後の藤原鎌足)や蘇我倉山田石川麻呂(蘇我氏の傍流)らによって、権勢著しい
蘇我入鹿が暗殺された政変。
日本史では必ず教えられる事件ですが、実行犯については比較的詳しく教えら
れるのに対し、暗殺された蘇我入鹿については単に「暗殺された」といった程
度ではなかったでしょうか。
この政変は、権勢著しい「蘇我氏」によって「天皇家」が滅ぼされる・・・蘇
我氏の血を引かない中大兄皇子自身が殺されるという危機意識によって引き起
こされたとされています。
「天皇家を守る」という大義の下に「蘇我氏を滅ぼした」という論法ですが、
もし、蘇我入鹿が「天皇」だったとしたらどうでしょうか?ーーー「もし」と
書きましたが、蘇我入鹿は本当に「天皇」だったのです。
現在の『皇統譜=天皇家の系図』にも、様々な辞典にも載っていない「蘇我入
鹿天皇」について実証していきましょう。
それによって大化改新の「真の原因」も明らかになる筈です。
宮中太極殿に於いて暗殺される蘇我入鹿(奥の女性は皇極天皇)
蘇我入鹿。―――又の名を林太郎・鞍作[くらつくり]。
父は大臣[おおおみ]蘇我蝦夷[えみし]。祖父は大臣蘇我馬子。蘇我氏は馬子の
父、稲目[いなめ]より代々大臣として天皇家の臣下としては大連[おおむらじ]
の物部氏と共に最高位を世襲してきた一族。そして入鹿は、その名門・蘇我氏
の当主。
物部氏が、聖徳太子・蘇我馬子らの崇仏派によって滅亡した後は、「天皇家に
次ぐ権力者」として国政を左右したといわれています。ーーーしかしその実は
といえば、私たちが考える以上に蘇我氏の実力は強大でした。
明治維新後の、絶対天皇制に象徴された「天皇家」のイメージで当時の天皇家
をみると大きな間違いを犯す事になります。当時の天皇家は、有力諸豪族によ
る「連合政権」の「盟主」的な存在で、その地位は諸豪族のパワーバランスの
微妙な天秤という「薄氷」に載る存在でしかありませんでした。
ですから豪族間のパワーバランスの拮抗が崩れると、天皇家にも大きな影響を
及ぼしました。そしてそのパワーバランスを崩したのが物部氏の滅亡でした。
蘇我氏と共にパワーバランスの双璧を為していた物部氏の滅亡(587年)が意
味するもの、それは蘇我氏による幕府体制の成立でした。真の主君である筈の
「天皇家」ではなく、「天皇の臣下」ではあるが天皇家以上の権勢を誇る蘇我
氏による政治。これは、まぎれもなくプレ「幕府」体制といえるものでした。
そして蘇我氏の権力が確立した後は、天皇家といえども蘇我氏に逆らう事はで
きなくなっていたのです。それを物語るのが崇峻天皇の暗殺=『日本書紀』に
592年とされている)歴代天皇后妃に蘇我氏の女性がなったことなのです。
こういった事が何年も何十年も続くと、蘇我氏自身にある野望が芽生えたのも
当然でしょう。すなわち「蘇我氏自身が天皇家」になる!
「蘇我氏自身が天皇家になる」いや、「なった」というほうが正確でしょう。
その証拠に、例えば、
1.蘇我蝦夷の邸宅を「上の宮門[かみのみかど]」子の入鹿の邸宅を「谷の宮
門[はざまのみかど]」と呼んだ。
2.蘇我入鹿の子らが親王に準じた扱いを受けた。
3.聖徳太子・蘇我馬子らによって編纂された『国記[くにつふみ]』・『天皇
記[すめらみことのふみ]』といった史書が蘇我氏の邸宅に保管されていた。
などが挙げられます。
まず「1」ですが、「宮門」という語。これは「御門」「帝」とも書かれます
が、意味するところは「天皇の住む処」すなわち「御所」です。
そして「2」ですが、これは言わずもがなでしょう。
最後の「3」ですが、国の歴史を記す官撰史書を保管していた事実。一豪族が
保管を許されるようなシロモノではないのです。これらの事実が指し示すもの
は一つ、当時、蘇我氏が「天皇」または「天皇に準ずる扱い」を受けていたと
いう事なのです。
ここまで書いても「いやいや、そんなバカな事がある筈がない」と思われる方
もいるでしょう。そんな方は、下の文章の「□」を文字で埋めてみて下さい。
┌--------
□□□天皇御世乙巳年六月十一日、近江天皇=中大兄皇子、後の天智天皇)林
太郎□□を殺し、明日を以て其の父豊浦大臣[とゆらのおとど=蘇我蝦夷の事]
子孫等皆之を滅ぼす
└--------
これは『上宮聖徳法王帝説』と呼ばれる史書の中の一文で、大化改新の記事で
すが、「□」を埋められたでしょうか? まず最初の「□□□」ですが、ここ
に蘇我入鹿の別名「林太郎」を、次に「□□」に「天皇」を入れてみると・・
どうでしょう?前述の「宮門」などと合わせても、辻褄が合う事にお気づきで
しょう。「これでも信じられない」という方、考えてみて下さい。なぜ「□」
の部分だけが欠損していたのかを。
これが自然の「虫食い」だとするなら、あまりにも偶然すぎるとは思えないで
しょうか? もし、故意に欠損させたならば、なぜ「天皇」の名を欠損させた
のか?「林太郎大臣」と書かれていたのならば何故わざわざ「大臣」の部分を
欠損させたのか?理由に苦しみます。
しかし、これが「林太郎天皇」と記されていたとするなら、すべての謎は解け
るのです。
最後に一つ、蘇我入鹿が「天皇」または「天皇に準ずる扱い」を得ることがで
きた最大の理由について。
それは蘇我入鹿が当時の「天皇」皇極女帝の愛人であり、最大のパトロンだっ
たことです。
そして、中大兄皇子ら一派が最も恐れたこと、言うなれば大化改新の「真の原
因」は、すなわち「林太郎天皇」蘇我入鹿と皇極女帝との間に「皇子」が誕生
し、その「皇子」が、中大兄皇子ら「天皇家の正統なプリンス」を差し置いて
後継天皇になるという「悪夢」だったのではないでしょうか。
= この稿おわり =
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