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帝国電網省 ―――――――――― by 竹下義朗さん

この記事中の画像は全て「帝国電網省」の該当ページより転載しています。
☆ 束の間の独立国、幻の八重山共和国 ――――――― 2009/08/28
                        原著 2004/06/21

突然ですが、皆さんは「八重山共和国」をご存じでしょうか?

それって、よく自治体が「地域興し」の為に作る「国」の一つだろう? そう
思われた方もおありのことと思いますが、これは単なるパロディー等ではあり
ません。

戦後間もない昭和20(1945)年12月15日から12月23日までの、たった
8日間でしたが、八重山共和国=後にそう呼ばれることになった独立国が実在
しました。

この独立国に関わった人の多くが既に亡くなってしまっている以上、また、例
え存命であっても多くを語りたがらない以上、歴史の中に埋没してしまうのも
致し方ない事なのかもしれません。

しかし、例え八重山共和国(以下、単に共和国と略)が短命に終わったにしても
確かにその国は実在したのです。

そこで今回は、終戦直後の混乱期、日本の最西端で誕生し、そして夭逝した幻
の共和国に光を当ててみたいと思います。

「南西諸島地図(最西端に八重山諸島がある)」
http://chinachips.fc2web.com/tiny/090828.html

何故、日本の最西端・八重山に共和国が誕生する事となったのか? それには
先ず、誕生に至る経緯から触れなくてはなりません。

昭和20(1945)年8月15日、昭和天皇の終戦の詔勅=所謂、玉音放送によっ
て、日本は米国に敗北した訳ですが、日本で唯一、地上戦を体験した沖縄=琉
球列島は、本土がGHQ=連合国軍総司令部)の占領統治を受けたのとは異な
り、米軍の軍政下におかれました。

しかし沖縄本島から遠く離れた八重山では、米軍の進駐が若干遅れたのです。

終戦直後、島田叡県知事が死亡した沖縄県庁も、八重山を管轄する八重山支庁
も機能を停止し、いわば一種の無政府状態に陥った八重山は、他の島とも連絡
がとれない孤立無援の状況下で、

治安の悪化、軍の徴発による食糧不足=住民は、本来食用ではない蘇鉄をも食
した)住民の栄養失調によるマラリアの蔓延、さらには、終戦時約9千人居た
現満兵=現地満期兵)による婦女子への暴行・農作物泥棒などに悩まされたの
です。

こうした状況下で、混乱した秩序を回復するべく、地元青年団による自警団が
組織されたのです。昭和20年9月(あるいは10月ともいう)、八重山の青年
達の指導者的存在だった当時23歳の宮城光雄(登野城地区青年団長)と同輩の
豊川善亮(同地区青年副団長)の二人は、自警団を組織するに当たって一つの大
志を抱いていました。それは、

「八重山に独立国を創る」

というものだったのです。

宮城と豊川はその大志を胸に、大川地区青年団長の本盛茂[もともりしげる]、
石垣地区青年団長の内原英昇を誘って自警団を組織、この瞬間、共和国は胎動
を始めたのです。

とはいっても、彼らはまだ二十代前半の若者。社会的地位が高い訳でもなく、
住民を纏[まと]め上げるだけの組織力もなかったのです。そんな彼らの前に、
一人の曰く付きの人物が現れたのです。彼の名は宮良長義[みやらちょうぎ]。

昭和7(1932)年、日本教育史上最大の逮捕者を出した「八重山教員思想事件」
に連座して、特高=特別高等警察)に検挙、検束拘留され、想像を絶する拷問
の末、教員を免職。

その後、労働組合運動・農民運動を始めとする政治運動に参加し、更に思想転
向して教員に復職、皇民化教育を実践したという経歴を持つ人物です。

その彼=終戦時、黒島で学校長を勤めていた彼が、薬品を分けてもらおうと、
たまたま八重山に来た時、その政治力に目を付けた青年団が彼に接触、ともに
共和国実現に向けて奔走する事となったのです。

宮良長義は、同年10月から11月にかけて、八重山の指導者層=浦崎県保・
潮平寛保・宮城信範・宮良永益・翁長信全・吉野高善)・住民の圧倒的な支持
を得ていた医師の宮良長詳・各地区代表者・婦人会・老人層・農村指導者等に
次々と接触し、

自治会構想=宮城・豊川とは異なり、宮良はあくまでも自治会=自治政府の組
織と考えていた)について説明し、充分な根回しの末、支持を取り付けていき
11月には「自治政府結成準備会」が発足。そしてこの時、施政方針について
も討議されたのです。

「八重山共和国の施政方針」

・食料の安定供給
・マラリア対策
・治安の回復
・財源確保の為の事業構想
・組織の構成
・人事

12月に入ると、遂に八重山共和国誕生に向けた陣痛が始まりました。

宮良長義等の積極的な情報宣伝と、組織化活動によって、住民の間に自治会樹
立構想が広く行き渡り、機運も昂揚、詰めを残すばかりとなったのです。

12月9日(あるいは10日ともいう)、宮城等の青年グループは独自に会合を
開き、自治会長に誰を据えるのかを討議。住民の圧倒的な支持を得ている宮良
長詳を自治会長に推挙する事に決し、その旨を宮城・宮良長義が宮良長詳に打
診、彼の就任受諾を引き出したのです。

その後、13日に自治副会長就任を受諾した吉野高善邸に於いて、最終準備会
を開き、人事の決定・郡民大会(記念式典)の進行及び、機構・規約・宣言決議
文等の重要案件についての最終確認を行い、昭和20年12月15日、共和国
の出産を迎えたのです。

昭和20年12月15日午後8時、場所は「八重山館=映画館、現在は万世館
)。住民が館外にまで溢れるほど参集する中、郡民大会は始まり、自治会長=
共和国大統領)に宮良長詳を選出、ここに、後に八重山共和国と呼ばれる事と
なった、八重山住民の八重山住民による八重山住民の為の自治会=自治政府が
樹立されたのです。

「八重山共和国(自治会)の機構・閣僚」
                     ┌総務部長 宮良長義                      │ 会長 宮良長詳─┬─副会長 吉野高善─┐ ├文化部長 大浜用立    (大統領) │          │ │         └─副会長 宮城信範─┴─┼衛生部長 喜友名英文              (副大統領)  │                      └治安部長 与那原孫佑
その後、自治会の当面目標=施政方針)として、人心安定・治安確保・引揚者 の帰還促進・マラリア患者対策・闇物資対策等が打ち出され、午後11時、大 会は終了したのです。 このように住民主体で樹立された共和国でしたが、その生命は、あまりにもは かないものでした。何故なら、誕生から8日で夭逝してしまったのですから。 昭和20年11月初旬、「米国海軍軍政府の統治権が宮古・八重山諸島にも及 ぶ」という確約を得た南部琉球軍政長官ジョン・デイル・プライス海軍少将が チェイス海軍少佐を八重山に派遣。 12月23日午前9時、「米国海軍軍政府布告第1号−A」が発令されると共 に、八重山支庁舎に於いて、宮良長詳自治会長・翁長良整[おながりょうせい] 支庁長代理等と会見したチェイス少佐は、米国海軍軍政府の樹立施行を宣言、 ここに共和国は、樹立後8日にして消滅したのです。しかし、共和国はその後 も形を変えて暫時命脈を保ちました。 共和国消滅から5日後の12月28日、米国海軍軍政府は、自治会長だった宮 良長詳を支庁長に、仮自治政府としての新生八重山支庁(以下、単に支庁と略) を発足させました。 「米国海軍軍政府下、八重山支庁(仮自治政府)の機構・人事)
支庁長 宮良長詳─┬─総務部長 宮良長義─┬─庶務課員 豊川善亮          │           │          ├─経済部長 幾 万伸 └─庶務課員 本 盛茂          │          ├─事業部長 崎山英保───商工課員 宮城光雄          │          ├─衛生部長 吉野高善          │          ├─文化部長 安里栄繁          │          ├─警務部長 平良専記          │          ├─逓信部長 奥平朝親          │          ├─八重山銀行総裁 真栄田正雄          │          └─八重山気象台長 瀬名波長宣
たしかに共和国自体は消滅してしまいました。しかし支庁に、共和国に関わっ た人達が数多く参加した事も確かで、共和国は形を変えて支庁に継承されたと もいえます。そしてそれを象徴するかのように、昭和21(1946)年1月24日 宮良支庁長は、支庁会議室に於いて共和国の解散を宣言しました。 その後、宮良支庁長は、共和国を体した施策を推進しましたが、反対派である 共和会と、それを支援する軍政府の圧力により、昭和21年10月20日、支 庁長職を辞任、支庁長と共に歩んできた支庁職員も30数名が辞職、 後任の吉野高善・新支庁長を中心とした反対勢力、共和会による新体制が発足 し、ここに共和国の命脈は完全に終止符を打たれたのです。 その後、沖縄は、昭和27(1952)年の琉球列島アメリカ民政府成立、昭和32 (1957)年の高等弁務官制=沖縄の帝王として君臨した米軍高等弁務官による独 裁制)、昭和43(1968)年の琉球政府主席公選を経て、昭和47(1972)年、念 願の本土復帰=日本復帰を果たしました。 しかしそれは、昭和26(1951)年、日本本土がサンフランシスコ平和条約に調 印、GHQによる占領統治を脱し国際社会への復帰を果たした、実に21年後 の事だったのです。 こうした沖縄にとっての激動の時代の中で、共和国はいつしか忘れ去られ、歴 史の中に埋没していきました。しかし、戦後間もない時期、たった8日間とは いえ、日本の最西端・八重山に住民発議の共和国が存在した事は、紛れもない 事実なのです。 そして、その事は、私のような「ヤマトンチュ=大和=日本本土の人」よりも むしろ「ウチナンチュ=沖縄人」にこそ記憶に留めておいて頂きたいのです。 参考文献: 八重山共和国─八日間の夢─ 桝田武宗 筑摩書房 1990 沖縄が独立する日(ウチナーがドゥータチする日)なんくる組 夏目書房 1996                         = この稿おわり =
┏━┳━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┃┃ 読後アンケートの結果。 ┗━┛
◇ 知らなかった..初めて知った -------------------------- 67人 (97%) ◇ 前から知ってたよ〜〜〜ん♪ -------------------------- 2人 ( 3%)
┏━┳━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┃┃ お寄せいただきましたご意見や感想。 ┗━┛
┌──────────「ちんせいこうさん」 「沖縄返還」直前に、台湾の蒋介石・国民党による武装蜂起計画があったと聞 いております。これから中共が凶暴化することもあります。 心あるみなさんに情報交換を呼びかけてください。とくに敗戦後、台湾で蒋介 石国民党軍が設置した「琉球軍官」訓練所に入れられた琉球出身日本軍兵士の 方にお願いしたい。 └────────── ┌──────────「防人さん」 独立してたら今頃、支那の八重山自治区になってたかも。 └────────── ┌──────────「おしょうさん」 奥田さんのサウスバウンドを想い出しました。知らなかったコトでしたが、 知ってれば、また読む目線も変わったかも知れません。 └──────────
本当にそうだこのとおり!‥‥と思われた方!「誰でもできる!1人1日1回の愛国活 動」は、ここをクリックして頂くことからはじまります!ーーークリックして頂くと票数がアップして、この問題を多くの 人々に知らせる事ができます!
    
┌―――――――――――――――――――――――――――――――――┘ └→ 感想や激励をよろしくお願いいたします。
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