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帝国電網省 ―――――――――― by 竹下義朗さん

この記事中の画像は全て「帝国電網省」の該当ページより転載しています。
☆ 中華民国は統一国家という幻想 ――――――――― 2009/05/22
「中華民国は清朝の後継国家ではない」で中華民国について少し触れましたが
この中華民国という存在も、実のところ相当な曲者としかいいようがなく、

1912=明治45年の成立から、1949=昭和24年の台湾移転なで、日
本は良くも悪くもこの中華民国に振り回され続けたといえます。

では、何故、日本はそれ程までに振り回され続けたのか? 実は中華民国が、
厳密には到底「国家」とはいえない存在だったからなのです。

という訳で、今回は「国家」であって「国家」でなかった中華民国について書
いてみたいと思います。

国家であって国家でない? こう書くと皆さんは不思議に思われるかも知れま
せん。何故なら、皆さんは恐らく近現代の中国史についてこう教わったからで
す。すなわち、

清朝(清国)→中華民国→中華人民共和国と国家が変遷したと。

確かに、清朝は辛亥革命に伴って宣統帝・溥儀が退位するまで、皇帝を中心と
した統一政府(朝廷)によって統治されていましたし、現在の中華人民共和国も
共産党を中心とする一党独裁政府によって全土が統治されています。

では中華民国はどうであったのか? 問題の本質は正にここにあったのです。

中華民国成立の原動力となった辛亥革命でしたが、原動力になったと同時に、
この辛亥革命によって中華民国は苦しめられました。

一般に辛亥革命というと、1911=明治44年の武昌蜂起から、翌1912
年の清朝滅亡・中華民国成立を指して使われますが、実際には1913=大正
2年、江西・安徽・湖南・広東・福建・四川といった諸省が、袁世凱大総統に
反旗を翻して独立を宣言した第二革命、

1915=大正4年、唐継堯等の帝制反対派が、皇帝即位を画策した袁世凱に
対して雲南省独立・護国軍(討伐軍)を組織した第三革命、と三期に分けられ、

辛亥革命は、清朝打倒よりも中華民国成立後に費やした時間のほうが大きいの
です。それでも、その辛亥革命によって支那国内が安定し、統一国家として歩
めば何ら問題はありませんでした。

しかし、情勢は更に混乱していったのです。

1916=大正5年1月1日、大総統として権力の頂点にあった袁世凱は、内
外の反対を無視する形で強引に皇帝即位式を挙行、元号を洪憲と定め、中華民
国改め中華帝国の成立を宣言しました。

しかし、日本を含む列強諸国は、改めて袁「皇帝」に対して帝制延期=無期限
延期を勧告し、国内に於いても諸省が反袁独立を図った為、袁皇帝は、即位か
ら僅か22日にして帝制を断念し「退位」、同年6月6日、失意の内に病没し
たのです。

しかし、この袁世凱の死が中華民国の混乱に更なる拍車をかけたのです。

いろいろと悪評が高い袁世凱ですが、彼が清朝と孫文等の革命政府を仲介し、
曲がりなりにも中華民国を成立させたのは事実ですし、英国を始めとする当時
の列強諸国が彼の実力を評価し、支那の新しい指導者(大総統)として認め、

一刻も早く混乱の中にあった支那の政情が安定するように支援したのもまた、
事実です。----「中国革命の父」と称される孫文は、列強諸国から「孫大砲=
大ホラ吹き」と揶揄され、信用されていなかった。

惜しむらくは彼自身が権力に欲が眩[くら]んで、共和制を廃止し、内外の猛反
対を無視する形で自らを皇帝とする「帝制」復活を企てた事ぐらいでしょう。

しかし裏を返せば、袁世凱が自他共に認める実力者だったという事でもあり、
彼の死がもたらしたものは余りにも大き過ぎました。それは、中華民国という
巨大な樽を締めていた「たが=袁世凱」が外れた事を意味し、最早、巨大な樽
は二度と樽としての形を取り戻さなかったのです。

袁世凱の死後、中華民国は最早、誰にも収拾のつけられない乱世へと突入して
しまいました。元々、中華民国は、成立直後から各省・各有力者がてんでばら
ばらに行動する風潮が強く、

なにかというと、二言目には直ぐ独立を宣言するような状態だったので、強大
な権力者だった袁世凱をしても、纏[まと]め上げるのは非常に困難だったので
す。そこへもってきて袁世凱の死です。

こうなると、もう誰にも止められません。各省が次々と独立を宣言し、好き勝
手に「政府」を組織する始末。また中華民国には、中央政府の管理下におかれ
た統一軍などなく、各実力者が私兵を抱える、所謂「軍閥」なるものしかあり
ませんでした。

その軍閥が自分達の勢力を広げ、中華民国における主導権を握ろうとして「し
のぎ」を削り、安直戦争(安徽派・直隷派)・直奉戦争(直隷派・奉天派)といっ
た、軍閥による内戦状態へと突入していったのです。

その後、軍閥による内戦は、孫文の後継者を自認する蒋介石が、国民革命軍を
率いて、二度にわたる「北伐(1926〜1928)」を行い、1928=昭和3年6月
9日、北伐軍の北京入城を以て北伐は完了、蒋介石が支那の新たな指導者と認
知されるところとなったのです。

しかしその一方で、支那国内にも1921=大正10年、共産党が組織され、
1931=昭和6年には福建省瑞金に、毛沢東を指導者とする中華ソヴィエト
臨時政府=所謂「瑞金政府」が発足するなど、情勢は単なる軍閥内戦から、支
那の赤化=共産化という要素も加わり、益々複雑化していったのです。

1937=昭和12年、共産党によって画策された廬溝橋事件が発端で、日支
(国民党)両軍は戦闘状態に突入、所謂「支那事変=日華事変・日中戦争とも呼
ばれる)が勃発しました。

その後、両軍は停戦協定を締結し事態の沈静化が図られましたが、通州事件や
第二次上海事変などで対立は決定的となり、全面戦争へと突入してしまったの
です。

こうした情勢下、共産党と手を組んでまでして「抗日(対日全面対決)」に固執
する蒋介石に見切りをつけ、対日和平を一日も早く実現し、支那国内の秩序を
取り戻そうとしたのが、同じ国民党にありながら反蒋介石派の重鎮、汪兆銘で
あり、実際に彼が組織したのが、日本が「支那における正統政権」として承認
した南京国民政府だったのです。

話が長くなってしまいましたが、当時の中華民国とは、かつての五胡十六国時
代(316〜439)や、五代十国時代(907〜960)と同様の乱世であり、到底「統一国
家」として体をなしてはいなかった訳です。

また当時の列強も、米国が国民党の蒋介石を、英国が山西軍の馮玉祥を、ソ連
が共産党の毛沢東を、そして日本が汪兆銘をといった具合に、それぞれ異なっ
た勢力を支援していた訳で、列強諸国の思惑も複雑に加わり、正に「大国の代
理戦争」といった様相を呈していました。

さらにいえば中華民国は、内戦のアフガニスタン同様、各勢力の離合集散が繰
り返され、一体誰(どの勢力)が国家を代表する主権者=正統政府なのかも分か
らないといった状態で、

当時の日本が「支那における正統政権」として承認していた汪兆銘政権と締結
した様々な約束も、一歩、同政権の支配地域を出れば何らの効力も持たないと
いった有様だった訳です。

つまり、中華民国とは、全土に対する統一した統治権を持ち、責任をもって諸
外国と外交交渉をし、国家間で締結された各種条約を責任をもって遵守履行で
きるだけの実力を持った「統一政府」がなかった訳で、

より具体的にいえば、中華民国という鍋(国家)の蓋を開けてみたら、中はどの
食材(勢力)が主役なのかも分からないような「闇鍋」だったとでもいえば良い
でしょうか?

国家主権不在の乱世──中華民国を評する時、これが一番当を得ているように
思うのです。

そして、その国家主権不在の中華民国──当時の支那によって、いいように振
り回されたのが、支那事変の一方の当事者として泥沼に陥った、隣国日本だっ
たともいえるのです。

                        = この稿おわり =
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