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八路空軍従軍記 ―――――――― by 大澄国一さん
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| ☆ 寄せられた関心事について(2) ――――――――― 2009/05/20
――― 特攻隊について
教え子の特攻機が出てから暫くして、私たち助教官にも、部隊長から特攻隊の
志願者を募るという指令が出された。助教の中には、血書で「熱望」と書いて
志願する者が続出した。
私はうーんと考えた。そしたら、一番親しくしていた同僚の下士官二人が「大
澄…どうする?」と問いかけてきた。この三人は親密な仲で、日頃「日本は負
ける」と言い合っていた反軍的仲間であった。
三人は「まだ死にたくないな」と話し合い、志願書には何も書かず白紙で提出
した。ーーー勿論処罰は覚悟で。「刑務所に入れば、そのうち戦争は終わる」
と開き直ったような考えであった。
こんな軍人がいたとは、常識では考えられなかったかも……。
その後、特攻隊は中止となり、奉天の防空戦闘飛行隊に転属となった。ここで
隼戦闘機による対B−29の空戦技術を習う。ところが8月3日、ソ連侵攻前
に錦州の練習飛行隊に復帰した。運が良かった。
他の者は、対ソ作戦に出撃し戦死した者もいた。ーーーそして敗戦となる。
その前、奉天北陵の戦闘部隊にいる時、九七戦の特攻隊が補給の為この飛行場
に着陸した。訓練終了後なので見に行った。これはよくすることで、一機でも
他所から飛来すると、同期ではないか? 知った操縦者ではないか? と駆け
寄るのである。
そして彼から、戦況についての、或いは同期の情報を得るのである。これが他
の地上部隊と異なるところだった。この時もそんな気持ちで寄っていった。
ところが一人の特攻隊員が私を見るなり、「大澄班長殿!」と呼びながら走っ
てきた者がいた。よく見ると、嘗て宇都宮飛行学校で私が担任して教えた少年
飛行兵であった。名前は思い出せなかったが顔には覚えがあった。
これにはビックリした。
「よう!久しぶりだな!」
「班長殿もお元気のようで…特攻隊で補給に降りました。今から沖縄に向かい
ます」
気力のある活発な声で話しかけてきた。
見れば、日の丸の鉢巻きを締め、腰に日本刀を差していた。二言三言話したら
彼は隊長機のほうへ走って行った。私は一機一機補給するのを眺めていた。
暫くして彼が戻ってきて、不動の姿勢で挙手の礼をし、
「班長殿!今から出発します!見事にやっつけます!班長殿も後に続いて下さ
い!」
私もピシッと答礼したが、最後の言葉に一瞬戸惑った。なんと言えば……??
彼は元気よく特攻機に走っていった、私も彼に続いて走った。彼はエンジンの
かかった機体に飛び乗り、もう一度私のほうを見て大きく手を振った。
機はゆっくり滑走を始めた。私は思わず翼端を握り締めながら付いて走った。
エンジンは唸り、速度を速めた。必死に付いて走った。とうとう手が離れた。
「がんばれーッ!」
大きく叫んだ。機体は爆音高く離陸していった。私は只呆然と立っていた……
このことは60年以上経った今でも忘れずに鮮明に脳裏に残っている。
それから数日後、別の特攻隊が飛来した。例の如く駆け寄っていったが 飛行
兵の時とは全く別の印象を受けた。彼らは特別操縦見習士官だった。
----昭和18年頃採用された制度で 大学生を対象とした操縦学生で、入隊と
同時に見習士官となる----
私も嘗てこの見習士官の操縦生を担当したことがあるが 知った者はいなかっ
た。年齢が皆20歳を超え、飛行兵とは見識も違う。補給の合い間休んでいる
彼らを見ていたが、全然違う。話し声がない。元気がない。死を前にしてふさ
ぎ込んでいるかのように見える。哀れにさえ思えた。
まだある。出撃した特攻隊員の中には朝鮮族もいた。操縦者不足で、軍は朝鮮
人をも集めたのである。わたしも嘗て満州で朝鮮族の学生を教えた。
彼らかどうかは分からぬが、聞いた情報では、出撃後目的地の手前でエンジン
スイッチを切ったり入れたりして爆音の異常を起こし、編隊より離脱して降下
し、近くの島に不時着して島民に助けられ、二日後に敗戦となって死を免れた
という。ーーー公にできぬ裏話です。
(朝鮮族の特攻隊の話は、以前テレビのドキュメントドラマでありました)
これとは逆の話をもう一つ。
特攻隊は原則志願ですが、こんな例外もありました。
養成所の私の同期生で同室の者でしたが、輸送隊におりまして、ある時、特攻
隊の基地転進に従い予備機1機を操縦し、その特攻隊と一緒に基地まで送りま
した。
送り届けて帰ろうとしたら、その基地の指揮官が「お前いいところへ来た、特
攻隊員が不足している。今からこの特攻隊員に編入する。正式命令は後から出
しとく」ということで、彼は数日後の出撃で、フィリッピンレイテ湾の敵艦に
体当たりし、英雄となった。
彼の遺影は今も鹿児島県知覧の特攻記念館にある。彼の遺影に手を合わせ、言
葉も出ず涙ぐんだ――――。
= つづく =
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┃ ┃ 記事に対するお便りなど。
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┌──────────「尊野ジョーイさん」30代@男性@関東
┌--------
出撃したこの特攻隊は、全員特幹(特別幹部候補生)で、その中に私が担任した
朝鮮族の生徒が2人いました、全部で7、8人いました。この事はどう思われ
るでしょうか?ーーー知られない戦争秘話です。
└--------
ーーー涙が止まらないですね。
本当に立派な人間だったと思います。心から尊敬しますし、感謝します。
かつては、朝鮮人と日本人はともに白人支配に立ち向かった「戦友」でした。
「やっと飛べるだけで特攻していったというのには、本当に気の毒」というの
は、「かわいそう」と思ってはいけませんね。
敵艦に激突できなくて(‥おそらく)、さぞ悔しかっただろうと思います。
ーーー見事に敵艦に激突して玉砕してほしかったです。
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┌──────────「KAZ さん」
ーーー私の祖父は、海軍二等兵として沖縄戦に従軍していました。
30過ぎて徴兵された大工さんでした。
豊見城から生きて帰れた、といえば、知る人は「なんと運のいい人なのか!」
と言うでしょう。ーーー生存率1/50でした。
祖父は戦争体験を滅多に語りませんでしたが、一緒に風呂に入ったときなど、
「特攻機が攻撃するのを何度も見たが1機たりとも成功したのを見なかった。
あれだけの曳航弾が打ち上げられているのだから、その数倍の弾丸が飛んでい
るはずだ。それを避けて敵艦船に体当たりできるはずがない」
と言っていたことを思い出しました。
ーーーパイロットの若者の気持を考えると、胸が締めつけられます。
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┌──────────「大澄国一さんから」
ご感想を頂き有り難うございます。
「特攻機は1機も成功しなかった」ーーー当たり前です。
時速150kの練習機では、格好の標的になります。また、離着陸技術だけで
戦技=空戦技術)を習得していないので、体当たりは至難の業です。
ご祖父が仰られたように物量が違います。レーダー兵器に対して日本刀で立ち
向かうようなものです。ーーー「大和魂」だけでは戦えません。
多くの戦闘体験者は「負けた…」という負い目から戦争を語らない、とも思え
ます。
私のいた旧満州では、来襲したB−29に体当たりする特攻機もいましたが、
これは軍艦よりもさらに難しい戦法です。軍の焦りと、兵士やパイロットを消
耗品と考える発想だと思います。
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