┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃ ┃ ┃ |
![]()
八路空軍従軍記 ―――――――― by 大澄国一さん
![]()
| ☆ 帰国!および後日譚 ―――――――――――――― 2007/07/28
「上陸開始!」――――皆タラップを降り始めた。
私は甲板からそれを見ていた。桟橋の向こうのほうを見ると、いっぱいの人だ
かりで、日の丸の旗や幟が見える。出迎えの家族の人達だろう、大きな歓声が
聞こえる。
ほぼ全員が降りたのを見届けてタラップを下りた。桟橋に下り立って歩き始め
ると、大勢の声にビックリした。
人. 人. 人. 人. 声. 声. 声. 声.
一瞬立ち止まって見渡した。まるで凱旋のようだ。
前のほうで抱き合って泣いている人たちが見えた。
ゆっくり歩いて桟橋を渡りきったとき、今まで気が付かなかった大きな幟が目
に入った。
「大澄国一」と書かれてある?!
ハッと立ち止まって見詰めた。
幟を支えて立っている二人の兄の顔!!
「わぁぁぁ!兄さんッ!!!!」
「クニイチーーーーー!!!!」
‥‥‥後は何を言ったのか判らない‥‥‥。
・・・ただニコニコと兄の手を握っていた・・・・
1953年9月 名古屋駅 昔の同窓生に迎えられて
= 八路空軍従軍記おわり =
┌―――――――――――――――――――――――――――――――――┘
▽
―――【後日譚[ごじつたん]】
1986年、日中平和友好会=旧称:日本中国帰国者友好会)で活動していた
時、突然、中国空軍総司令官「王海」将軍より、老航校創立40周年記念行事
に、元日本人工作者を老朋友・老戦友として招待するという知らせがあった。
半年の準備期間を経て、全国に分散している仲間より50人が選ばれて「日本
老朋友友好訪中団」を結成し、林さんを団長とし、私が秘書長となり、大阪よ
り北京に向かった。
1986年1月
前列左から2人目が王海総司令、その右隣が林弥一郎さん、その右が伍修権さん
その右が私大澄国一で、右端が林虎副総司令
王海司令官は、嘗ての千振第4中隊の飛行学生であり、林虎副司令官は、乙班
(3中隊)出身であった。
空軍挙げての招待で、特別に空軍専用輸送機を飛ばし、昔仕事をしていた懐か
しい牡丹江・ハルビン・長春・沈陽を訪ねた。40年振りに訪ねた海浪飛行場
は、すっかり変わっていて当時の滑走路はなく、飛行隊の建物もなくなってい
た。
僅かに、訓練処と大講堂だけがそのまま名残を留めていた。しかし、飛行場周
辺の景色は変わらず、西の山はそのままの姿を見せていた。滑走路に立ちその
山を眺めて皆は感無量の思いであった。市内の、嘗ての宿舎もその形を保ち、
1946年、初めて牡丹江に来た時起居していた私の部屋もそのままあった。
第7航校は既に長春に移っていたが、私達の伝統は受け継がれて当時の模様を
残した写真・記録・教材等が陳列されて資料室となっており、私が昔、学生と
一緒に写した写真も飾られていて感動した。
青春時代を過ごした8年の歴史がそこに映し出されていて、中国は決して私達
を忘れておらず、功労者として留めていてくれた事に大きな喜びを感じた。
牡丹江を離れる日、不幸にして亡くなられた昔の仲間の墓に参り、花輪と供物
を供えて合掌した。
訪問した各地では、多くの老友が会いに来てくれ、感激感動の連続であった。
最後に北京司令部で、200名に上る老友との再会の宴が催された。お互いに
40年を経た老顔を綻ばせて話も尽きない時が過ぎた。
この招待訪問は、私の人生の中の最良の日であった。
……報われる喜びとはこういう事をいうのだろう……
私は日中友好の原点を築き、今尚その道を歩むことを生涯の誇りとしている。
= 完 =
┌―――――――――――――――――――――――――――――――――┘
└→ 感想や激励をよろしくお願いいたします。
┏━┳━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┃ ┃ 記事に対するお便りなど。
┗━┛
┌──────────「十八子松戸さん」
――「八路空軍従軍記」を最終回まで拝読して。
私と非常に親交している知人は、著者の大澄国一さんと同じぐらいの経歴、同
じく中国空軍総司令官「王海」将軍より、老航校創立40周年記念行事に元日
本人工作者を老朋友・老戦友として招待するという知らせを貰っていたそうで
す。
いつも自慢げにそのコピー件を見せてくれました。今も同じく「私は日中友好
の原点を築き、今尚その道を歩むことを生涯の誇りとしている」という口癖で
す。
ただ、もう一つ角度を見れば、このような共産国へ軍事的に協力して良いかと
私はずっと疑問をもっています。
このような「貢献」より、帰国のシーンには本当に感動しました。流石共産主
義のためにあちらに骨を埋めなかったな。良かった良かった。
└──────────
▼
┌──────────「大澄国一さんから」
「共産国へ軍事的協力云々」についてお答えします。
現在の状況、或いはもっと以前の冷戦時代ならばこういう問題も提起されたで
しょう。当時の日本人のおかれた境遇での考えは、普通の状態ではないです。
敗戦後の本国にいた日本人と、満州に取り残された日本人とは少し違います。
苦しい生活は同じでも、生命の危険が常に身に迫っていたということです。こ
れは即、如何に生き延びるか!?……そのためには恥も、常識も、倫理も捨て
て今日一日をどうして生きるか?にかかっています。
当時の部隊長は、部下をどうやって無事に祖国へ返すことが出来るか……で、
頭はいっぱい。また部下も、何とか無事に帰りたい……の一心。これらの考え
が帰結するところは、何でもいい、帰れる日がくるまで職があり、食べていけ
るのものなら何でもする、まして生命財産を保証してくれるのであれば、共産
党も国民党もない。
「衣食足りて礼節を知る」ご存じでしょう。中国四千年の歴史の中でも、民衆
は幾度となく戦火に喘いできました。その時の彼らも「何とか生き延びよう」
……ではなかったでしょうか。
「共産国に協力した」…は、私らが祖国に帰ってから身に降りかかった問題で
す。私たちは日本に帰ってから、職もなく、公安警察に尾行される苦労を味わ
いました。ーーー日中国交回復の日までこの苦しみは続きました。
難しい話になってごめんなさい。最後までお読み頂いて有り難うございます。
└──────────
▼
┌──────────「十八子松戸さん」
大澄国一さん、こんにちは。
まずお詫びしなければならないことが、私のこのような言い方が貴方の心を傷
つけたかものことです。私は正直に言って、友人と同じ経歴している方の文章
ですから、一字一字に読んでいました。ーーー感動しましたかというより悲し
く感じました。
当時おかれた険悪な環境は、やむえなく服従したことも当然分かっています。
実は、昨年か二年前、ロシアから何十年ぶり帰国した上野さんも多分そうでし
たと思います。
これは、決して元日本兵を非難することができません。寧ろ、国のために自分
の青春が無駄になってしまいました。もうすこしで命さえも落とされるところ
という悲壮感を共有しなければなりません。ただし、主観的に「共産国へ軍事
的協力」ではなくても、客観的にはこうなっていました。これは事実です。
ご文章の全体を読んで、私は思うには、私の友人と同じくあの時は優遇されて
生活も仕事も楽しくて楽しくてたまりません、という印象がありました。当時
若い年齢ですから、思想的に相当洗脳されたと思いましたが、
私の友人が、今でもその自治体の長を「反動分子」という共産党の専門用語を
よく使っています。何だな、凄いな、80才になっても20才の時に受けた教
育はまだ忘れていないな、また活用しているな、と不思議に思っています。
温故知新か?ーーーご文章も、まるで私の友人の日頃の会話のようでした。
しかし一点だけは言わせてください。私は友人を尊敬しています。人生の大先
輩で、人柄も非常に温厚、人情味も厚い方です。特に、我々のような留学生、
外国人に対して、至るところまで面倒みていただきました。
ご文章の文脈から見れば、大澄国一さんもきっと同じではありませんかと私は
断定できます。
本当に、今回貴重な人生経験を活字化して我々の後生に伝えて頂きましたこと
に感謝しています。
これから段々天気が暑くなってきますから、くれぐれとお体に気をつけてくだ
さい。
また、第二作を読みたいです。お待ちしております、よろしくお願いします。
└──────────
▼
┌──────────「大澄国一さんから」
ご丁寧な返信有り難うございました。 あなたの率直なご意見は承っておきま
す。
個人の生活を守るための個人の行動が「共産国への軍事協力」と 政治的に捉
えられたことに正直びっくりしました。その当時よく聞かされた「個人の行動
はすべて政治的、革命的に捉えなくてはならない……」という言葉が思い出さ
れました。
これはあくまで私個人の歴史であって、その行動をどう評価されるかは人の自
由で、私は意に介しておりません。気に掛けないで下さい。
しかし、久しぶりにつっこんだご意見、楽しかったです。 多謝!
└──────────
▼
┌──────────「十八子松戸さん」
大澄国一さん、こんにちは。早速のご返事、ありがとうございました。
┌--------
個人の生活を守るための個人の行動が「共産国への軍事協力」と 政治的に捉
えられたことに正直びっくりしました。その当時よく聞かされた「個人の行動
はすべて政治的、革命的に捉えなくてはならない……」という言葉が思い出さ
れました。
└--------
そうですね、しかし、これは決して大澄さんの個人人生への評価ではありませ
ん。私にはその考えは毛頭ありませんし、その権利、資格もありません。
ただし、全くおっしゃいましたように、私が生まれてから38年間受けた教育
は「政治掛帥」「階級闘争年々講、月月講、天天講」というような馬鹿な思想
でした。ですから、この中毒はもう骨まで浸透してなかなか抜けられません。
ーーーまして、もう60歳近くなってきました老人ですから。
ただ、偶然のことで友人の経歴と一致したもので、興味が生じただけです。
私が言いたい事は、共産党という団体がいつも表面には鉄原則論を唱えながら
も、一旦自分にメリットがあることがあれば何でもやるという二面性を持って
いるわけです。
日本兵は敵なのに利用できることは利用する、特に自分の軍事化にプラスでき
ることがあれば。ですから大澄さんのご文章は、一番立証できる教科書のよう
なものです。
この文章を読んでいた大部分の読者達は、多分共産党の残酷な支配を経験した
ことがない人々だ推測しています。ご文章を読むと、共産党は結構我々日本人
に友好的だなと考えてしまいます。しかし、あの「地道戦」「地雷戦」といっ
た、氾濫する程の日本兵を悪魔化する宣伝は何なんですか。
「日本鬼子」という呼び方は今でも死語になっていません。一昨年の反日運動
には結構活用されたようです。大澄さんの優遇とまるで別世界、雲泥の差では
ありませんか。
ですから、余りにも率直的に自分の考えを言ってしまいましたから、言い回し
の習慣がある日本人には、また私の真意をすぐ吟味できないかもしれません。
ですから、言い過ぎましたな、申し訳ありませんとお侘びしなければならない
と思いましたわけです。
┌--------
私は意に介しておりません。気に掛けないで下さい。
└--------
ありがとうございました、お許しいただきましたこと。
因みに、偶然にもあの友人から昨晩電話が来ました。最近また何か50周年か
60周年か知らないが、ということで招待されて行きました。あの「王海」元
空軍総司令官が今回も会ってくれましたと言いました。あの嬉しそうな声。
この敬愛なニッボンのおじいちゃまは何時までもこの単純さ。「まるで子供の
ように」ーーー私はつい「ロード」を歌いたくなりました。
それでは、またよろしくお願いします。
└──────────
▼
┌──────────「大澄国一さん」
ご友人からの電話の件、私のところにも誘いがありました。当初は参加すると
申し込みましたが、途中で取りやめて訪中しませんでした。今月初めにその訪
中団の写真集が送られてきました。
あなたの友人は、たぶん私の知っている人だと思います。嘗ては老航校の仲間
で作る航七会という中国でいう「聯誼会」のような全国組織がありましたが、
去年解散してなくなりました。
今回は中国の招待ではなく、日本側の有志が「訪中したいから接待してくれ」
と中国側に申し込んだものです。ーーーこれ以上のことは友人に悪いから言い
ません。有り難うございました。
└──────────
▼
┌──────────「十八子松戸さん」男性@五十代@自営業@千葉
感動しましたと言いたいのですが余りにも一般的な言い方のでやめましょう。
不幸な歴史によって生まれた物語、これは財産です。後世へ伝えなければなり
ません。歴史はいつも勝利者の言いなりのものです。特に共産党という集団は
自分の支配に遊離するものならば歴史を改竄するまで平気にやっています。
一方、日本側の戦争経験者達は沈黙のまま。しかし、一番お若い方さえも80
歳になった現在、重いお口を開けて頂くのはいまは日本にとっては切迫なこと
になってきました。NHKも、現在相当力を入れているようです。
当然のこと、前の戦争は、招待されずに土足で他国へ進出したのは100%日
本が悪かったです。負けたから悪いということではなく勝っても悪いのです。
あの日露、日独戦争も同じ。負けたロシア、ドイツ、勝った日本は同罪、他国
の領土で意のまま殺戮ということは。
ですから大義はもう明白なことですが、具体的な出来事は日本が全部悪かった
かということは私は思いません。しかし、何があったかを知りたいのです。
この意味で、大澄様は本当に我々のために日本国のために良いことをして頂き
ました。これは決して大げさな評価ではありません。本当に感謝します。また
失礼ですが多分80歳も超えたお方でしょうが、パソコンをこんなに不自由な
く使うのも一つ感心したことです。どうかこのペンより遥かに便利な記録道具
を生かして、沢山生の歴史をお書きになってください。
いつか東京でお目にかかればという願望を一つ夢としましょう。
本当に、大澄様が何時までもお元気でご活躍頂くよう心からお願いします。
└──────────
▼
┌──────────「十八子松戸さん」
残暑お見舞い申し上げます。お忙しい中、たびたびお邪魔しましてもうしわけ
ありません。本当に最後の一筆させて頂きます。
┌--------
「大澄国一」と書かれてある?!
ハッと立ち止まって見詰めた。
幟を支えて立っている二人の兄の顔!!
「わぁぁぁ!兄さんッ!!!!」
「クニイチーーーーー!!!!」
‥‥‥あとは何を言ったのか判らない‥‥‥。
・・・ただニコニコと兄の手を握っていた・・・・
└--------
このシーン、私も思わず涙が出てしまいましたーーー。
兄弟って、最高。死里逃生の再会はもう言葉がありません。
ーーーお兄さん、弟さんのお手手の暖かさはすべてです。
実は、我が家にもこのシーンがありました。
よつ偉大の死ぬ前の年、1975年に、何か人間の良識が一瞬回復したかのよ
うに、一定の地位以上の旧国民党政権官員を一律釈放するとのことで、長年共
産党の牢屋に閉じ込められていました父も、幸いにこの資格が得られました。
ーーーあの夜、、寒い冬の夜、、。
母が嬉しいか悲しいか知りませんが、ずっと家に篭って一所懸命に沢山料理を
作っています。我々兄弟4人を駅へ、父親を出迎えさせました。
何時間も遅延した火車=汽車)がやっと到着しました。
寒い、暗い、汚い上海駅で、待ちに待ちましたあの前髪禿げの大柄男がやって
きました。臨時支給された紺色の綿入れ防寒服、帽子が新しいですが、蒼白な
顔色を隠せませんでした。
お父さんだ!
----もうその時すでに30歳前後の私達4人兄弟はこのひと言だけでした。
----あとは無言のまま----
離婚しろとさんざん迫られた母親は、夫..子供の父親が必ず戻ってこられると
信じてきた信念が叶いました――――。やっとこの、長年の待つ甲斐があった
と一番嬉しかったでしょう。
ーーー人生はいろいろ。
寒い冬を経験した人間は春の暖かさが一番知っています。
今の幸せを大切にするわけです。
いろいろ苦労なさっていた大澄さん、今後もお身体を大切にしながら、幸せに
暮らしてください。ありがとうございました。
└──────────
┌─────────「bayikou(朴)さん」男性@二十代@会社員@神奈川
大澄様:突然のメールにて大変失礼致します。現在神奈川県在住の朴と申しま
す。宜しくお願い致します。私は、2001年に中国から日本に来て、3年間
の留学生活を経て現在は日本の会社で働いております。
私の故郷は、中国黒竜江省密山市=旧東安省)です。密山が中国空軍の発祥地
であることはよく知っております。現在は博物館も建てており、飛行機も何台
か展示されております。
話によれば、現中国空軍の副司令官が密山で訓練を受けた卒業生だそうです。
私は中国で歴史学部を卒業しており、歴史に非常に興味を持っておりますので
大澄様の記事を見て本当に感動しました。
密山の飛行学校は、旧日本軍の飛行機パーツを集め組立ててつくりあげたとい
う話と、日本人教官の指導があったことは聞いたことがありますが、ここまで
詳細には分かりませんでした。非常にいい史料を教えて頂いて有難う御座いま
す。
この記事は、みつけたばかりですのでまだ最後まで見れてませんが、じっくり
と読ませてください。
└──────────
▼
┌──────────「大澄国一さんから」
お便り有り難うございます。拙い文章を読んで頂き、有り難うこざいます。
密山とは懐かしいところですね、あれからもう60年経っています。今は随分
変わっているでしょうね。密山は空軍発祥の地ですが、同時に私の人生発祥の
地でもあります。
私の記録が貴方の学習に少しでも役立てば、大変嬉しく思います。
└──────────
▼
┌──────────「bayikou(朴)さん」
大澄様:早速のご返事有難う御座います。昨日からは大澄さんの記事にはまっ
て深夜まで読み、今日の出勤はきつかったです。(笑)
密山老航校の近況ですが、話題になったのは私が小学校の頃(80年代後半、
89年あたり)だと思います。当時の中国空軍副司令官から旧式飛行機一台贈
与され、現密山第4中学校の校内に展示され話題になりました。
第4中学校とは、密山飛行場の近くにあり、当時の宿舎か校舎だと思います。
その後、第4中学校も空軍直轄の学校となり、特別な扱いされています。
密山に航空博物館ができたのは2001年頃のことです。ちょうど私が日本に
来る前ですが、中までは入ってないですが、外からは飛行機何台か展示されて
るのを見ました。
次第に航空学校のことが大きく宣伝され、密山人として誇りに思うようになり
ました。では、また感想を書かせて頂きます。
└──────────
▼
┌──────────「大澄国一さんから」
密山には1946年10月から1947年4月まで居ました。老航校は通化で
創立されましたが、大体の形と主な組織名だけで、機材とか教官・学生も配置
されておらず、実際にすべての組織が完成したのはこの密山にいるときです。
実質的な老航校の始まりはここ密山です。
この時期、密山の中学から航校に参加してきた人もおります。因みに、私の妻
も当時ここの民主聯軍第9後方病院で看護婦の仕事をしていました。お互い全
く知らなかったのですが……
私もまだ一度もこの博物館に入ったことはありません。頭の中の想像に残して
おきたいと思います。暑さもあと少しです、頑張って下さい。
└──────────
┌──────────「十八子松戸さん」
こんにちは、十八子松戸です。横レス、もうしわけありません。
この往復コメントを読んで、何か中国共産党の教育成果の匂いが嗅いでいます
ね。80代日本人、20代中国人、どんな角度から見ても接点が少ないお二人
ですが、共通点といえば中国共産党の教育児だということは窺えます。
しかし「密山は空軍発祥の地ですが、同時に私の人生発祥の地でもあります」
とのことにまた聞きたくなりました。
人生とはどういう概念ですか?
私の理解では、厳密にいえば生まれてから、一説では乳離れから既に始まるも
のです。ですから、大澄様の人生発祥地が日本という島国になるはずと私は思
います。中国の、秘密ともいえる山はどういう人生を発祥していたでしょう。
思想面の人生というものですか?でも、思想というものは中国に行く前に成人
になった前後ですから既に日本で形成していたではありませんか?そうすると
この人生というものは共産党に改造された思想を指しているでしょうか?
例の友人には月末に会うことになりました。今回もこれと似ている中国共産党
への感激、感謝のお言葉を聴きます。毎回恒例な行事です。私も段々このよう
な間接教育によって中国共産党を愛するようになってくるかもしれません・・
いつか、いずれ・・・間違いありません。
中国共産党へ入党申請するか?日本で党支部をつくりましょうか?3人いれば
最末端組織が作れるそうですから――――。
└──────────
▼
┌──────────「大澄国一さんから」
お便り有り難うございます。 またまた問題を頂きまして……恐縮です。
密山で人生発祥という意味についてお答えします。
人生の定義についてはお説の通りです。私は21歳で敗戦になるまで大日本帝
国の人間でした、優越した大和民族の一成員でした。日本人以外は知りません
でした、人間とは日本人そのものと思っていました。
敗戦になって、他民族…中国人を知りました。初めて考えの違う人間に接しま
した。大和魂と中華思想、そして共産主義、私の頭の中に渦巻きが発生しまし
た。
私は生まれつき「珍し食い」です。----意味分かりますか?
参軍して1年の間に見た、中国人というより八路軍の人間は、私の脳裏で日本
人を否定するかのように変わり始め、同僚から異端者と呼ばれました。そして
日本人より中国人と多く接するようになりました。
以上が私の人生観の発祥です。当時の八路軍幹部は、本当に人間味のある人達
で私は尊敬していました。日本人の誰よりも・・・しかし、現在の中国には当
時のような幹部が見当たらず、がっかりしています。
└──────────
十八子松戸さんへ大澄国一さんから残暑見舞いです
┌──────────「十八子松戸さん」
大澄国一様、こんにちは。
驚きました。しかし嬉しいのです。ありがとうございました、本当に。
私のメ−ル発言に怒ったかなといつもドキドキしていました。しかし、再三申
し上げたいことは、これらの発言は決して大澄国一様に対することではなく、
中国共産党への憎悪の気持ちが自然に現れたものです。けれど、客観的には大
澄様を傷つけたことは本当に申し訳ありません。
私の父は1914年生まれ、国民党空軍の一期生になるはずでしたが、成績も
優秀し、身体も185という大柄、結局血圧が200ということで審査によっ
て淘汰されました。
当時、試験官が父の肩を叩いて、惜しいな、逸材だと褒めてくれたそうです。
しかし、これらの国民党空軍は創立まもなく、碌な訓練も受けていなかったま
ま慌てて飛び出して、結局、武漢上空で日本空軍に全滅させられたそうです。
その時父はもう陸軍に入っていましたので、難を逃れられたと言っていいのか
どうかは分かりません。が、とにかく、あの戦争は悪いのです。
中国人民、日本国民とも被害者でした。この点は間違いありません。ですから
大澄様の文を読んで本当に心を打たれました。本当に大変苦労なさいました。
中国にいたときは、日本軍兵士としても命がいつか落とされるかもわからない
毎日。八路軍に入っても決して楽しいわけではありません。
特に、中国共産党が政権をとってから本性が暴露され、残忍な政治運動が次か
ら次へやってくるのも、日本人としては精神的には決して楽にはならないと私
は推測しています。ただ、人間というものは情があるから、長い間一緒にいる
とやっばりついに賛美歌を歌い出しました。
ただ、このような言い方は、中国共産党に支配されたことがない日本人若者達
が誤解するかな、と私は心配してならなくていろいろ発言してしまいました。
本当に之だけです。
今日大澄様のお写真を拝見させて頂きまして、本当に私の心に描いている優し
い印象とピッタリでした。自分の父親のような感じ、しかし、父親が長年牢屋
生活によって身体を壊しまして、出獄してただ5年あまり、倒れまして3年半
寝たきりの末に70歳未満という若さで他界してしまいました。
父と大澄国一様とは
国民軍⇔日本軍
国民軍⇔八路軍
という、いつも対立する立場でしたが、共に時代に翻弄されました被害者でも
あります。父は当時、表面上は自由の身になったと見えますが、実際死ぬまで
まだ暗に監視されました。
政治的にはいろいろな会議を参加させられましたが、これはあくまでも利用さ
れていました。本音を言う権利は与えられません。ですから、依然戦々恐々と
して毎日を送っていました。ですから、歴史の真相を語る勇気もありませんで
した。ですから、大澄様はこんなに執筆して頂きましたことに本当に後生の私
達にとっては感謝、感謝という以外の言葉はありません。
大澄様がいつまでもこのようにお元気でと、心から祝福、祈念しています。
└──────────
▼
┌──────────「大澄国一さんから」
お便り、有り難うございます。また、お写真拝見しました。
文面では、私に対して可成り気にしておられるようですが、私は全く意に介し
ておりませんのでご安心を。どちらかといえば違った意見や見方は参考になる
ものです。世の中、みんなが全く同じ考え、同じ趣味思考であったらつまらな
い、進歩のない社会になってしまいます。自分もつまらない人間になると思い
ます。これも八路軍で身につけたものです。
共産党を好きな人もいれば、嫌いな人もいます。その根拠もいろいろあるよう
です。およそ権力を持った者は、必死でその権力を守ろうとします。相手や身
内を殺してでも……日本の歴史でも、中国の歴史にもあります。
自分の周り、置かれた環境、条件の中でどう生きていくのか、自分の人生をど
う守るのか……自分に有利なものは利用し、害になるものには近づかない。こ
れが私の人生観です。当たり前のようですがなかなかうまくいきません。
偉そうなことを言ってごめんなさい。「水の流れのように」‥‥大好きです、
カラオケで歌います。――――チャンスがあれば会いましょう!
└──────────
▼
┌──────────「bayikou(朴)さん」男性@二十代@会社員@神奈川
十八子松戸様:はじめまして宜しくお願い致します。ご感想拝見致しました。
私と大澄さんの接点については、中国共産党の宣伝効果と決め付けております
が、事実はそうではないと思います。ひと言で言えば、
「本当の歴史を知りたい、そしていつ中国に帰るか知りませんが、その歴史を
伝えたい若者と、本当の歴史を語りたい経験者、との接点、ではないでしょう
か?」
60年代の中国=文化大革命の時代でしたらまた「宣伝効果」についてある程
度理解できますが、今はその時代ではないと思います。現在の社会は「思想・
教育」が個人の行動を支配するのではなく個人個人の判断になると思います。
当時の共産党(八路軍)について、大澄さんは高く評価しておりますが、その時
代の共産党=八路軍は、確かに国の為に国民の為に血を流し汗を流した人ばか
りだったと思います。大澄さんが八路軍を評価しているのは、個人個人の人間
性を評価していると思います。
当然ながら、共産党の中にもいろんな人がいるわけですから、いい悪いは言い
切れないと思います。
私がここに来ているのは、大澄さんの生々しい歴史に興味を持ったからです。
中国では、師範大学の歴史学部で、それこそ「思想教育・政治色の歴史」を一
杯勉強しましたが、やはり歴史というのは真実が何よりも重要だと思います。
では、またお邪魔しますので宜しくお願い致します。
└──────────
▼
┌──────────「大澄国一さん」
ーーー李黄、朴お二方へ。
3人向かい合ってお話が出来るようになりましたね、大変嬉しいです。しかも
見解の違う二人の中国人を相手に……人生を語る。素晴らしいと思います。
私は生まれつき無口なタイプで、友達といえるほどの人はおりません。だから
退屈な毎日から解放された感じです。これで老人ボケが防止できます。又お二
人の日本語も素晴らしい。
今後ともよろしく。辛口、毒舌、おべんちゃら、鬱憤 何でも聞きます。話し
合いが大好きです。再見!再講!
└──────────
┌──────────「大澄国一さん」
八月二十五日のお便りについて、、当時私が直面していた時代背景、状況と、
その時の日本人の意識は当事者でないと分かりにくいと思います。まして恨み
辛みのある相手の八路にいた者との話は一致するとことはないと思いますが、
只こういう変わった私の記録、乃至は人生について、それぞれの見方を話し合
うことは出来ます。
私も、嘗ては国民党空軍から起義したり、投降して、その後に私たちの航校に
きた者と一起工作をしていました。お互い仲良く熱心にやっていました。彼ら
も私と同じように軍人であり、生きるか死ぬかの戦闘から、生きるほうを選ん
だのでしょう。
共産軍に軍事協力したという見方からすれば、私も彼らも同罪です。一体、ど
この誰がそういうことを言うのか?冷戦時代ならともかくも・・・・
貴重な意見を聞かして下さい。京都の老ジャホの戯言かも知れませんが、聞い
て下さい。
└──────────
┌──────────「十八子松戸さん」
こんにちは、十八子松戸です。回答いたします。
1.大澄国一さんへ。
ご説明、ありがとうございました。私の理解では、人生の発祥地ではなく人生
観の発祥地ですね。つまり、共産党による思想改造後の人生観というものです
ね。ただし、幸いに早い時期にご帰国なさいました。
見たのは、政権をとろうとする、政権を取ったばかりの共産党の言動だけでし
たね。それでも、所謂「三反五反」の政治運動中、どのぐらいの数の人間が殺
されたか、前政権関係者だけではなく、身内のも。これはただ共産党の本性暴
露の序の口に過ぎません。
その時でも大澄国一さんは共産党を擁護していたでしょうか?幸いにご自身は
その対象になっていなかったでしょうか?ご帰国後、隣国での反右派運動、大
躍進、四清運動、、階級闘争論、文化大革命などなどは、共産党というものが
赤裸々に現れたわけですが、もしこれらの体験をなさいましたら多分ご文章の
内容も少し違うかもしれません。
ただし、戦前日本で形成した人生観、20年ほど、戦中・後共産党に洗脳され
た人生観、数年のみ。また、帰国後復興、高度成長、バブル崩壊、景気回復と
いった50年もの激動時代に、新しい人生観は生まれていなかったですか?
大変申し訳ありませんが、このような質問の目的は大澄国一さんを押し詰める
ではなく、歴史真実を知りたい中国人の若い方がいるから。
2.bayikou(朴)さん」へ。
┌--------
私と大澄さんの接点については、中国共産党の宣伝効果と決め付けております
が、事実はそうではないと思います。
└--------
bayikou(朴)さんも大澄さんも十八子松戸も、皆中国共産党の教育を受けてい
ました。これは事実です。否定しないでください。
┌--------
「本当の歴史を知りたい、そしていつ中国に帰るか知りませんが、その歴史を
伝えたい若者と、本当の歴史を語りたい経験者、との接点、ではないでしょう
か?」
└--------
貴方は中国で本当の歴史を教えてもらわなかったですか。大澄国一さんの文章
は、貴方が中国で受けた教育とは違うところがありましたか?
┌--------
60年代の中国=文化大革命の時代でしたらまた「宣伝効果」についてある程
度理解できますが、今はその時代ではないと思います。現在の社会は「思想・
教育」が個人の行動を支配するのではなく個人個人の判断になると思います。
└--------
これは、貴方がまだ60年代の中国=文化大革命の時代を経験したことがない
から、現在のと比較するようがありません。20世紀60年代も21世紀の現
在も、同じの共産党の政策から離れて個人個人の判断できるのですか。
20年も中国不在でしたから、こんなに根本的な変化もしたのが知りませんで
した。「没有共産党就没有新中国」共産党領導一切ではなくなりましたか?
共産党が「これ」といったら bayikou(朴)さんさんは「あれ」という勇気があ
りますか?
私は「心有余悸」です。個人主義はしません。とてもとてもすべて共産党に捧
げます。「共産党指向那里、我就奔向那里」
┌--------
当時の共産党(八路軍)について、大澄さんは高く評価しておりますが、その時
代の共産党=八路軍は、確かに国の為に国民の為に血を流し汗を流した人ばか
りだったと思います。大澄さんが八路軍を評価しているのは、個人個人の人間
性を評価していると思います。
└--------
これは勝利者の八路軍・共産党及び追随者が言っていることでしょう。
所謂評価というものが、
┌--------
当然ながら、共産党の中にもいろんな人がいるわけですから、いい悪いは言い
切れないと思います。
└--------
このような道理は小学生二年生の、家の孫も知っています。
┌--------
私がここに来ているのは、大澄さんの生々しい歴史に興味を持ったからです。
中国では、師範大学の歴史学部で、それこそ「思想教育・政治色の歴史」を一
杯勉強しましたが、やはり歴史というのは真実が何よりも重要だと思います。
└--------
なぁに?中国の大学では「思想教育・政治色の歴史」ばかり、歴史真実は教え
ないでしたか?また、「思想教育・政治色の歴史」とは「中国共産党領導下的
中国抗日戦争取得偉大的勝利」というやつでしたか?
これはこれは、中国のことを知らない方々、驚かないでね。これは世の中には
存在している現実です。これは中国の二十代大学生が経験したことです。間違
いありません。
└──────────
┌──────────「十八子松戸さん」
大澄国一さん、こんにちは。
決してしつこく追及する意味ではありません、ただあなたとの交流は楽しいで
す。父親と同じ年代のお方ですから。しかし、私はあういう恐怖な年代には、
父親との会話が少なかったです。
父親は、心の中にいっぱい話したいことがあったはずですが、言いたくて言い
たくて言えません。まだ若い我々の兄弟に、当時の時代とマイナス思想を与え
るのは恐れていたようです。真実を言わないままこの世を去りました。
しかし、
┌--------
八月二十五日のお便りについて、、当時私が直面していた時代背景、状況と、
その時の日本人の意識は当事者でないと分かりにくいと思います。
└--------
は、私も全部わかるはずがありませんが、父親のことと対照して少し理解はで
きています。
┌--------
まして、恨み辛みのある相手の八路にいた者との話は、一致するとことはない
と思いますが、只こういう変わった私の記録、乃至は人生についてそれぞれの
見方を話し合うことは出来ます。
└--------
いいえ、共産党に対しては確かに恨み辛みがあるが、かつて八路軍にいた普通
の兵士に対してはそういう恨みところか反感もありません、――――全くおっ
しゃいました特殊な環境におかれましたから、前にも言いました私の友人、
先日に会ったときに、勝手ながら今は大澄さんと文通していますと言いました
ら、大澄さんが知っていますと言いました。この友人も八路軍に入りました。
今回、中国王海総司令官に会いに行った時の日本人代表団総顧問も担当したそ
うです。もうお分かりになったでしょう。私はこの友人を非常に尊敬していま
す。
日中友好協会ある支部で、友人と同じく理事が私もやりました。当時の支部長
は、国民党軍に入りました末に、戦犯になった方でした。可笑しいでしょう、
八路軍だった日本人、国民党軍だった日本人、国民党軍だった中国人の息子、
と皆仲良く日中友好活動をやりました。
ーーーしかし、これらの元日本兵の皆さんは、非常に単純な方々ばかりだとい
うのが正直な感触です。
┌--------
私も、嘗ては国民党空軍から起義したり、投降して、その後に私たちの航校に
きた者と一起工作をしていました。お互い仲良く熱心にやっていました。彼ら
も私と同じように軍人であり、生きるか死ぬかの戦闘から、生きるほうを選ん
だのでしょう。
└--------
全くその通りです。歴史の悲劇とも言えます。
┌--------
共産軍に軍事協力したという見方からすれば、私も彼らも同罪です。一体、
どこの誰がそういうことを言うのか?冷戦時代ならともかくも・・・・
└--------
大澄さんも、ご同僚の皆さんも罪がありません。ただ、私が言ったのは客観的
にはこうなってしまった事実だけです。
┌--------
貴重な意見を聞かして下さい。京都の老ジャホの戯言かも知れませんが、聞い
て下さい。
└--------
本当に貴重なご意見、私も当然理解しました。このような討論によって「思想
教育・政治色の歴史」ばかりの教育を受け、歴史真実を知りたい中国人の若い
方に取っては、少し新鮮感をしたでしょう。
ありがとうございました。
└──────────
▼
┌──────────「kz−87さん」
十八子松戸様は、中国共産党に対して非常に良くない印象を持っていらっしゃ
るようですね?
大澄さんは、中共の「三反五反」が日本人にも実施されて、そのことが「帰国
後も深刻な影響を与え続け、拭い難い過去として憎悪感情を引きずり、個人間
の対立は今なお続いている」と書いておられるんですよ。 ??
大澄さんに対しての思いとか、bayikou (朴)さんに対しての思いはちょっとお
いとかれて、十八子松戸様の中共に対する思いを言っちゃって下さい。十八子
松戸様もひどい事をされたことがおありのような…
構わないですよ、言っちゃって下さい、よろしければ。私は聞きたいな…
└──────────
┌──────────「kz−87さん」
大澄国一様、「八路空軍従軍記」を全部読ませていただきました。
体験談を書いてくださって、ありがとうございました。読み応えありました!
最後の、舞鶴港へ着かれたときは英雄になられましたね。ご苦労様でした!
でも、それ以後は日本で英雄どころか「警察に尾行された」のですか?すごく
肩身の狭い思いじゃないですか。中国でも「三反五反」をされたとか。リアル
に書かれてありましたね。
思い出したくないことでしょうけれど、日本へ帰られてからの事を、またしば
らく経ってからでも書いていただければと希望します。ご無理だったら結構で
すよ。無理強いはしたくないので。
ともかく、ありがとうございました!
└──────────
▼
┌──────────「大澄国一さん」
kz−87さん、お便り有り難うございます。少なくない人が私の記録を読ん
で頂いていることを実感して嬉しく思います。ご提案の、帰国後のことは書く
程のことはありません。生活するために頭がいっぱいでした。
私だけではありません。私と一緒に飛行教官をしていた某は、私より3年も遅
れて帰国してきましたが、故郷の我が家に着くやいなや、家族、親戚から「中
国の中の字も言うではない。捕虜になっていたと言え」と厳しく言われ、
何十年の間、身分を隠し、故郷を捨て他の土地に移り、目立たない小さな商店
に職を求め密かに暮らしていました。一昨年、55年ぶりに彼を捜し出し再会
したときは、半身不随の車イス生活でありました。仲間の中でまともな生活が
出来た者はほんの一部の、家庭環境がよいか親族にいいコネがあった人です。
私たち中国帰国者は、すべてが中国愛好者ではありません。戦後中国に取り残
された日本人は、生きていくためには、軍であろうが企業であろうが、はたま
た個人であろうが、飯が食えればどこへでも行ったのです。
切迫した状況では、中国人の妻となったり、自分の子を中国人に委ねなければ
なならない人も出てきました。ご存じの残留孤児とか残留婦人とかいう人達で
す。
働いた人達は、ただ、待遇が良かったか、悪かったかで中国に対する見方は変
わってきます。私の隣人も同じ中国帰国者ですが、中国のことは一言も話した
ことはないです。
当時の日本人が帰国してから思い返すのは、共産党が良かったとか好きだとか
ではなく、自分に接してくれた中国人に対する評価ではないかと思います。
bayikou 朴さんが言うように、共産党員も色々……真っ赤も居れば黒みがかっ
た者、或いはピンク色した者等まちまちです。人は自分にあった色を好むので
はないでしょうか?
長ったらしい愚言を述べすみません。よろしく。
└──────────
▼
┌──────────「kz−87さん」
ご丁寧なお返事、ありがとうございました。
大澄さんの戦友の方が「中国の中の字も言うではない。捕虜になっていたと言
え」と言われたとは、お気の毒というか、冷たくされたものですねーーー。
こういうことは「書くほどのことはありません」ということはありませんで、
社会的なことがあったにせよ、お国の為に戦われた方がその後冷たくされると
いうのは、
本当は日本は、そういうことにも目を向けなければならないのだと思います。
「自己否定され続ける」と書いたのですが、私は、被虐待児を想像しました。
生まれた時から「この子を生まなきゃ良かった」のようにいわれる人も居ると
思います。----私はよく分かりませんが。そういう立場に生まれた人と、大澄
さんが戦後日本で体験なさったこと=お感じになったこと)は、似ているので
はないかと思いました。
なので私としては、一番聞かせていただきたいのは、大澄さんについては、戦
後のことですね。ーーーでもまあ、そう堅いことは言わないで、大澄さんもこ
れからもいろいろチョッカイを出してください。一緒に話しをしましょう。
ウォッホン、ゴホゴホ、
私は淑女でございますので、話が、ちょっと、その、あれかも知れませんけれ
ど、いろいろな方がいらっしゃいますので、気に入った方(発言)を見つけて話
をなさったらよろしいじゃあございませんか、ーーーと思います。
これからもよろしくお願いいたします。
└──────────
▼
┌──────────「大澄国一さん」
「帰国してからのことや思いを聞かせてほしい」 とのことですが、私個人と
しては書くことがないと申しましたが、他の帰国者のことについてでも良けれ
ば書いてみることにします。ただし、これは他の人から聞いた事ですので、部
分的な不正確さは否めませんことを了承して下さい。
その一:
八路軍にいるとき、職場は違ったけれど同じ地所に居て時々顔を合わす男女が
結婚し、皆から祝福され、子供までもうけた二人が帰国して夫の実家に帰った
ら、家族から「既に婚約者を決めてあるからこの女の人とは別れなさい」と言
われ、
承知できないと何回も親や親族に抗議したが叶わず、ついには二人は離婚する
羽目になった。(子供はどうなったかは分からない) 女性のほうははその後十
何年してから他界した。
その二:
敗戦前まで、妻と二児の家族持ちであったが、敗戦直前に家族を日本に帰し、
戦後八路軍に入って病気し、その時看護してくれた女性と結婚、二児をもうけ
て十三年後に帰国、夫の親族と妻の親族が紛糾して、その間に挟まれた夫は生
活よりそのことに四苦八苦させられ身も心も休まらなかったとか。――――結
局は八路軍で結婚した今の奥さんと暮らす事になった。
その三:
同じように、八路軍の中で結婚した夫婦が帰国して夫の実家に帰ったら、自分
は長男で家業を継ぐ立場であったが、長く消息不明のため、両親は妹の長女に
婿養子を迎え家業を継がせていた。やむなく自分は姓を変え妻の婿養子となっ
て妻の実家に移った。
その四:
敗戦前夫婦であった女性が、戦中に夫が招集され、行方不明のまま敗戦となり
八路軍に入った。その後、知人友人から再婚を勧められたが応じず、八年経っ
て帰国したら夫が先に帰って自分を待っていてくれたという事。
その五:
男性で、婚約者があったが結婚前に軍に招集され、敗戦後八路軍に入った。そ
して八年間、結婚話もたびたびあったが婚約者の事を想い独身を通し、四十代
前に帰国したら、婚約者の彼女が出迎えてくれて涙に暮れたとか。
以上は、戦争による人生の悲喜こもごもですが、こんな事例は他にいくつもあ
ると聞いています。最近では、残留孤児とか残留婦人とかが身内捜しに帰国し
ても、その身内の人は名乗りにも出ないと聞きました。――――日本人の家族
愛とか絆はどうなってしまったのでしよう。
違った社会制度を渡ってきた私は50年経った今でも頭が混沌としています。
└──────────
▼
┌──────────「kz87さん」
大澄国一様、日本へ帰国されてからのことを書いてくださり、ありがとうござ
いました。私は皆様の考えておられることがなかなか分からなくて。すいませ
んいつまでも「子供」で。
戦争体験者の方々は、大変なご苦労をなさったと思うのです。それはその通り
で、私なんかがどーのこーのと口出しできることではありません。だけど戦争
体験者の次の世代の人たちもそれなりに大変で、私が言いたいのは、というか
願いは「若者が元気な日本」になったらいいな、と思っているのです。
体験者の方々が、体験談を書いてくださって本当に感謝です。
戦争に関して、誰からも語られることがなくて「シーン」であるのと、いろい
ろに語られる、自分もその中に居られる、というのは全然違います。(!)
ーーー息ができる、できない、ぐらい違うと思います。
私の父も母も体験者ですけど、父は全く言いません。母は、「バケツリレー」
のことと、「竹槍で「鬼畜米英、ヤーッ!」とルーズベルト人形を突き刺した
こと」、それだけしか言いません。
何というのかな、心の傷をそのままにしておいたら、… 例えば… すぐ前を
歩いたり、すぐ後ろを歩いたり、それで自分の言い分を分かってよみたいな、
そんな行動パターンなるでしょう?(分かりますか?)
言葉で表現できない分、=吐き出せないでいる分、「人間関係」が歪んじゃう
というか…。「戦争中は、それに耐えてきたのだ」と言われるかもしれません
けど。(今は平和なんだから、言われたらいいじゃないの)と私は思うのです。
「無理に言わせるなよ」と言われるかも分かりませんけど、無理にでも仰って
くださらなければ…若者が苦しいのです(苦しいのだと思います)。
戦争中の事を押し殺しておられる方に対しては、(もう戦争中の事を言われて
も良いのですよ)という事をどのようにして伝えたらよいかな〜 〜 ?)と
私は引きこもってそういうことばかり考えてきました。
「生き辛さ」のようなものを感じて、私は、働きもせず、引きこもって自分を
守ったのです。
ですけど本当は(本当に休まれるべきは)、大変な中で生きてこられた人、傷つ
けられている人、その御本人が休まれるべきだと思うんですよ。心に傷がある
なら−−自己表現することによって、その傷は癒されると思うから−−少しず
つでも自分の思いを外に出していかれたら良いと思います。(大変な作業だと
は思いますけど)
年長者が癒されなければ若者は元気になれない、と思うんですよ。
でも、戦争中のことってすご過ぎます。理屈は私のが合っているかもしれない
けど、絶対に無理強いはしてはいけない、これが大原則の筈。私の自戒です、
ハイ。
私から見て、年長者はもう少し、若者の気持ちを分かってあげたら良いのに、
と思うんです。「今時の若者は…」という言葉が聞こえてきそうですが、やっ
ぱり「断絶」、ダンゼツってありますよね?
└──────────
▼
┌──────────「大澄国一さんから」
kz87さん、お便り有り難うございます。
戦争体験者といわれますけど、戦場での戦闘と限らず広い意味での戦争体験な
らば、今70歳以上の人は全てが戦争体験者です。只、居た場所によってそれ
ぞれの体験が違うと思います。例えば山村と大都会、日本本土と外地、軍隊で
も最前線と後方基地等。
私は軍人でしたが、地上戦闘はやった事がないです。私が話した事は全て戦争
が終わった後の日本人の事です。なんとか生き延びて故郷に帰ったら何が待っ
ていたか?ーーーまたまた生きる事の難関を越えなければならなかった。
今は平和で、人間の愛とか尊厳とか美辞麗句が飛び交っていますが、一旦生死
の境を彷徨う境遇になったら、こんな美辞麗句は紙クズのように吹っ飛んでし
まう事を私は経験しました――――。
ーーー戦争を語らない人も居ます。戦時中は、戦争の話ができる人は英雄乃至
は功労者でした。軍隊の中でも、実戦経験者は、階級を問わず、戦功を問わず
英雄視されました。それが戦後になると「黙して語らず」になったのです。
なぜ……実戦の戦闘は美談ではないのです――――。私が軍隊にいるとき、周
りの操縦者は地上部隊から航空部隊に転科してきた者が多く、彼らは、その前
は地上戦の体験者です。彼らから戦闘の裏話を色々聞きましたので、私自身は
地上戦の実戦経験はないですが、戦闘というものは理解しているつもりです。
戦争を語らない人は、それなりの理由があるものです。誰でも、良かったとか
楽しかった話は聞かれなくても話しますが、そうでない事は話したくないもの
でしょう。ーーーまた、聞く者と話す者の気持や常識が合っていなければ、本
当の意味は伝わり難いものです。
敗戦時、私は21歳でしたが、普通の21歳では味わえないものを多く味わい
ました……と、今思っています。
最後に「今時の若者は…」について、全く同感です。この裏には「昔は良かっ
た」という年寄りの愚痴が聞こえます。社会の変化に調和できぬものは淘汰さ
れます。私は今も老人会の誘いを拒み続けています。若者のエネルギーを吸収
して長生きしようと企んでいます。
断絶はあるかも知れないけれど、年寄りの根気で繕っていかねば……私の年金
は若者のお陰です。
└──────────
┌──────────「hideおじさん」
大澄様、横レスお許し下さい。
いろいろ口に出せないようなご苦労はあったと思いますが、でも、本当に良く
戦って、生きて帰って来てくれて「ありがとうございます」といいたいと思い
ます。
残念ながら私の叔父は、昭和20年5月11日の神雷部隊桜花隊の特攻で亡く
なり、また父方の祖父は、最近分ったことですが海軍軍属であったために戦後
も台湾に残され、国民党軍を台湾に運ぶ仕事を余儀なくされていたそうです。
そして2−28事件以降ぷっつり音信が途絶え、行方不明のまま30年後戸籍
を抹消しました。
戦前であろうがなかろうが、生きて帰ってくることが最大の「戦果」を挙げた
といえるのではないでしょうか。もちろん不幸にして亡くなられた方々には心
より弔意を表しますが、どんな形であれ生きて帰ってくることが戦後の日本に
は必要だったと思います。
私も大澄様と同じような立場に立たされたら、日々どのように生きていくかを
考えたでしょう。共産党であろうが国民党であろうが、関係なく自分が生きて
いくためにあらゆることをしたと思います。
中には、八路軍に協力しないとして拷問を受け、死刑にされた日本人も数多く
おります。(昭和30年代、国会で問題とされました)しかし、八路軍に協力
して、結果的に人民解放軍の基礎を作ったとしても、生きたことは誉められこ
そすれ責められるものではないと思います。
あの内戦状態で、さらに国としての形さえも失いかけていた中国を、結果的に
中華人民共和国としてまとまったその一助として戦った日本人は、本当の意味
で戦前の日本が考えていた「中国の安定」をもらたらしたものといえるかもし
れません。ですから、大澄様は「よくぞ戦えり」と尊敬いたします。
残念ながら戦後の日本は、GHQの政策により、戦前の否定、レッドパージか
らか、軍人・兵隊を含め中国・ソ連からの帰還者にたいして非常に冷たい視線
を送ったのは確かかもしれません。それで口を閉ざしてしまった方もおるかも
しれません。
しかし、今は少しずつですが大澄様のような体験をちゃんと伺おうとする人た
ちも増えてきているのは確かです。「黙して語らず」の方も多いですが、戦争
を知らない私たちに、今後ともいろいろなお話を聞かせて頂ければ幸いです。
└──────────
▼
┌──────────「大澄国一さんから」
メール有り難うございます。メールを頂いた方の中で 家族、親族が戦争で亡
くなった人が多く居られるのを知り、私の家族は幸せだと思いました。私は、
男兄弟が4人、女が2人の家族の中で、男は全部兵隊で外地へ、一人は国策で
満州へ出て行きましたが、敗戦後、男全員無事帰ってきました。
近所でも例がないと周囲から言われていました。
中国に残ったといっても、それは主に八路軍側の地区に居た人達です。内戦勃
発で帰れなくなったのです。八路軍に入った人、病院に、鉄路に、軍工場に、
色々ですが、殆ど技術者です。他は、難民として中国人の企業に働く人です。
ここで言っておきたいのは、軍およびその関係機関に入って、内戦という戦闘
に参加させられた人々のこと。如何に生きるためとはいえ、命の危険を冒して
まで行く…?断るか、逃げるかが出来なかったのか?その心境を未だ聞いたこ
とはない。
因みに私の妻は、八路軍衛生隊の看護婦として、東北解放戦争の最前線で弾丸
の飛び交う中で、負傷兵の救護に当たりました。その中で本当にもうダメだと
思ったときは、穴の中に身を隠し「お母ぁちゃん!」と叫んだそうです。
又、ある友人は、軍に従い黒竜江省から海南島まで戦闘を続けていったそうで
す。何故逃げなかったか?と妻に聞いたら「女一人、どこで生きられるの…」
という返事だった。
またこんな事例もあります。
私たちと八路に入った仲間で、航空機材の収集に従事していた者が、収集を終
わり牡丹江に向けて運搬しているとき、内戦が激化して予定の鉄道が使えず、
北朝鮮領内に入って待機中に、帰国列車に乗った日本人と会いました。
「あなた達も私らの中に紛れたら日本に帰れますよ」と誘われたが、そちらに
は行かず、八路軍兵士と共に無事機材を牡丹江に届けたという事実を聞きまし
た。これも何故逃げなかったか?という疑問が残ります。
苦難の中で活路をみいだすのは簡単ではなく、本人も分からぬまま行動するの
かも……皆さんの想像にお任せします。返事になっているかどうか恐縮です。
└──────────
┌─────────「村井さん」30代@男性@自営業@東北 2009/02/18
私は政治思想は右でも左でも極端な思想は一括りに危険視しているので、日本
政府にも中国政府にも極端に走らないことだけを希望しています。
もちろん両国それぞれ、党内派閥や個人の情実の弊害などはあるでしょうが、
それは必ずしも政治思想の影響によるものではないと理解しています。
それはそうと、大澄さんの手記は極東の航空史の一挿話としても大変興味深く
貴重な価値があると思います。ソ連・中国式の落下傘降下教育を受けた日本人
の方も僅少だと思います。
何れどこかの出版社からか出版される機会などありましたら、是非購入したい
と思います。
└──────────
▼
┌──────────「大澄国一さんから」
東北の「村井さん」へ:拙文をお読みいただきありがとうございます。
病気療養のため お便りを見るのが遅れ、返事も遅れすみませんでした。
今後ともよろしくお願いします。
└──────────
┌────「ルファンタスクさん」30代@男性@会社員@関東 2009/03/13
大日本帝国が崩壊し、今までの秩序が瓦解し、突如として遠い異国に取り残さ
れた中で、知恵と情熱で見事な成果を成し遂げてまた日本に帰ることができた
日本人がいたということに、感動と、知的な驚きを覚えました。
オデュッセイアやアナバシスを思わせるような、冒険と危険に満ちた旅であっ
たかと思います。----アナバシスも、遠くペルシアで戦に破れ、ギリシアへ向
けて必死に旅を続ける物語です。
また、ないない尽くしの中で機体を集め、整備し、繋ぎ合わせて飛行機を飛ば
し続けた情熱や、中国人青年の、空を飛びたいという情熱(初の単独飛行を見
守る教員と学生の気持を想像して胸が熱くなるのを覚えました)も、本当に素
晴らしいものであったと思います。
日本だとか中国だとか共産主義とか、イデオロギーの違いはどうあれ、個人と
個人の信頼と目標への努力という観点からは、この体験は是非これからも残し
続けて欲しい貴重な歴史だと考えます。
どうかこれからも、お体を御自愛なさって、我々の知らなかった歴史、大いな
る帰還の体験をお聞かせ続け下さい。新しい驚きに再び出会えるときを楽しみ
にしております。
└──────────
▼
┌──────────「大澄国一さんから」
ルファンタスクさんへ:お便りありがとうございました。
私、病気療養のためしばらくパソコンから離れていましたので、返事か遅れ申
し訳ありませんでした。
私のような経験が、あなたの心に留まったことはうれしい限りです。今後とも
よろしくお願いします。
└──────────
┌──────────「大澄国一さんから」
大変長らくご無沙汰していました。私、今年2月初めに脳血栓で倒れまして、
視神経に障害が起きて、物が二重に見えだして病院に通い、医師から絶対安静
と言われ療養していました。
この間、外出は勿論、パソコンも触れなくなってしまいました。4月10日に
ようやく恢復しまして、今日久しぶりにメルマガを開いたら、お便り頂いてい
るのが分かりましたので、早速お返事している次第です。
ご心配を頂き済みませんでした。
今は、少し後遺症がありますが、日常には支障はなく生活しています。6月で
85歳です。医師は、年齢的に完全治癒は難しいとのことですので、このまま
頑張ります。
昨年9月に、中国人民解放軍空軍司令官が来日の折、私たちに会いたいという
連絡が東京の中国大使館からあり、会いに行って歓談した後、空軍パイロット
専用の腕時計を頂きました。ーーー私たちのことを、後継の司令官が覚えてお
られた事に感激しました。
今年の夏に神戸の民間団体から「八路空軍従軍記」の講演を依頼されました。
10月の中国国慶節に合わせて中国空軍から招待がくると連絡がありました。
北京より「中国空軍を創った日本人戦友」誌の編纂の協力依頼がきました。
以上近況をお知らせします。
└──────────
▼
┌──────────「(^^) OJIN です(^^)」
やっぱり心配していたとおりご病気だったんですね〜。
でも、ご快復なされましたようで、恭悦至極に存じます。よかったですね〜♪
「10月の中国国慶節に合わせて中国空軍から招待」でいらっしゃるんでした
ら、行き先は北京でしょうから、その足で江蘇省南通市まで足を伸ばされませ
んか?
北京―南通間は、毎日1便、便があるんでございますよ〜〜〜♪
└──────────
|