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八路空軍従軍記 ―――――――― by 大澄国一さん

☆ 1953年9月5日、帰国前夜まで ――――――― 2007/07/13 皆は、いよいよ帰れるか‥‥長いこと待たされたなぁ‥‥と口々に話しあい喜 んでいた。不思議な事に、林さんと気象の内田さんは除外されていた。他の組 にもこのような人がいたようだった。 私はこれまでに一日だけ沈陽に買い物に出かけただけだった。頭の中には、ど うせ帰っても、名古屋はメチャクチャにやられているから家がないかも知れな い、もしなければ単身身軽にとも考え、多くの物は持たずに、布団と着替えの 服とシャツを詰め込んだ大きな旅行袋一つにした。 大切に持っていた日記や写真は皆焼いて捨てた。私ら空軍にいた者は、上陸し た途端にアメリカ極東軍司令部に捕まるかも知れんという噂があったからだ。 帰国通知と同時に、西谷さんが第六次帰国団団長となり、私は新台子区の区隊 長になった。女子及び家族班の班長に「友」さんという女の人が指名された。 ハキハキした活発な女性であった。 ----彼女が後に私と結婚することになるとは夢にも思わなかった---- 数日後、帰国者全員大会を開いた。 とかく変な噂が飛び交い、皆の気持ちが不安定なため、意思統一をする目的で あった。私は区隊を代表して「それぞれいろんな考え方もあるけれど、兎に角 全員無事に帰国するという一点で団結しましょう!」と皆に訴えた。 今は、互いに過去の経歴を云々したり、他地域の日本人の事を気に掛けている 時ではないんだ。‥‥皆元気で仲良く日本に帰ろうではないか‥‥という気持 であった。 8月半ば、新台子を列車で出発、その日の午後錦州に到着した。ここにも日本 人帰国者が集まっていて、私達と一緒になり第6次帰国団が編成された。 私達より前にここに来ていた人達は、殆どが前線部隊の担架隊に属し、死線を 越えて戦ってきた人達だが、不運と心労の環境であったのか、或いは政治教育 を受けていなかったのか、相当な暴れん坊が多く、勝手気儘に振る舞い、特に 私達空軍工作者には面と向かって暴言を吐いた。 或る日の夜更け、「大角」と名乗る人から呼び出しを受け、庭の一隅で数人に 取り囲まれ、恨みつらみを捲し立て、襟首まで掴んで殴りかかろうとした。そ の凄みに私は恐怖を感じ、一瞬やられるかと思った。 幸い騒ぎを聞いて警備隊長が駆けつけてきたので事無きを得たが、度肝を抜か れた一夜だった。‥‥彼らの気持ちは判るけど‥‥ その後彼らは一度も私の前に現れることはなかったが、厄介な者が加わってい るものだと思った。一時の感情だから帰国が近付けば忘れるだろう……兎に角 何事もなく帰国船に乗るように留意しなければと思った。(その後、天津港に 行ったときも彼らの姿は見なかった) この錦州で療養組の中から結婚する者が現れた。大瀬さんと宮野(女)さんだ。 新台子区隊者の総意で、簡素な結婚式を行いお祝いした。私は区隊を代表して 祝辞を述べた。(後年、京都の引揚寮で、私と友さんの結婚に彼らが仲人して くれたのも奇縁である。そして現在も隣同士で住んで居る) 錦州に約2週間滞在し船の到着を待った。錦州は敗戦前私が部隊にいたところ だ。懐かしさもあって一度街へ出てみたが、様子が全く変わっていた。昔より 綺麗に明るくなっていた。飛行場の事は全然判らなかった。ここ錦州にも、か なりの日本人が居て帰国を待っている様子だった。 8月末、天津に移動する。 前の帰国者は、殆ど秦皇島から乗船したが、私らは天津港から、第6次帰国船 高砂丸に乗る事になった。天津では立派なホテルに泊まった。私は区代表とし て特別に個室が与えられた。 ここに来て俄然忙しくなった。毎日中国側との打ち合わせや連絡があり、西谷 さん、友さんと毎晩会合して話し合った。 1週間滞在したが、私はホテルから殆ど出なかった。他の人達は街へ買い物に 出たり、食べ歩いたり、帰国前の喜びを十分味わっていた。その時の私の頭の 中は、全員が無事に帰る事でいっぱいだったので、乗船前の準備とか、帰国後 の事とかは一つも思い浮かんでこなかった。 9月6日乗船と決まった。 その前々日、ホテルの支配人をはじめ従業員の皆さんに、お世話になった感謝 パーティーを開いて記念に錦旗を贈った。前日にはドルの交換(日本円で2万 円まで)荷物の発送手続きを終えて、もう明日を待つだけとなったが、団員の 一人国兼さんの病状が悪く、乗船は無理ということで残留する事になった。 私も団の仕事が終わりホーッとしたが、手元に残った人民券10万元余りはも うどうする事もできなくなり。ヤケクソ半分で、人のいる廊下で「欲しい者は 持って行け!」と札をバラまいた。「勿体ない」と傍らの人が言ったが、私に はもう金を使う暇はなかったのである。 翌日、高砂丸の引揚係官が来て、乗船する時と乗船後の船内手続き、注意事項 等について話があった。何年振りかに見る日本人が懐かしかった。 いよいよ明日は日本に帰れるという実感が湧いたのか、一部の人は子供のよう にはしゃいでいた。話は日本の事、帰ってからの事で賑わっていたが、今まで の中国の思い出は話に出ていなかった。                         = この稿つづく =
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┌―――――――――――――――――――――――――――――――――┘ └→ 感想や激励をよろしくお願いいたします。 ┏━┳━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┃┃ 記事に対するお便りなどあれこれ。 ┗━┛ ┌──────────「コーリャンさん」男性@七十代@無職@広島 大澄さん、いよいよ完結間近ですね。 随分楽しませてもらいました、有難う御座いました。 それにしても驚くほどよく記憶されていますね。私などかなりの部分の記憶が 飛んでいます。当時、現地に一緒に居た人にでも出会えれば消えた記憶など取 り戻す機会もあったでしょうが残念です。 9月の乗船ですね。私も鶏西〜牡丹江〜瀋陽と移動し、天津に集結し、8月に 興安丸に乗船しました。天津では、10日あまりホテルに宿泊、食事は毎食と も街の大飯店で豪華な食事の接待を受けましたが、帰国後の貧乏暮らしの落差 に落胆しました。しかし、無事帰国の喜びのほうが数倍強かったです。 特に、天津港で見た興安丸の日章旗、甲板に足をついた瞬間と、出航后しばら くしての船内放送で、「ただ今本船は公海上に出ました。これより一路日本に 向けて帰ります・・・」と、このような放送でしたーーー。 この瞬間、船内の歓声はあらゆる呪縛から解放された歓喜の声だったと、この 時の感動は今もって蘇み返ってきます、、、。 今後ともお体を大切にお過ごしください。             敬具 └────────── ┌──────────「大澄国一さんから」 コーリャンさん、お便り有り難うございます。 同じ天津からの帰国とか。懐かしいですね。私はその後の高砂丸です。日本海 に入って、山陰の海岸が見えたときは皆甲板に出て歓声を上げていました。そ のときの様子は今もまぶたに浮かびます。あれから53年経ちましたーーー。 長い間読んで頂きまして、有り難うございました。お元気でお過ごし下さい。 └──────────
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