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八路空軍従軍記 ―――――――― by 大澄国一さん
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| ☆ 1952年、任務終了・離軍 ―――――――――― 2007/06/22
10月、訓練終了と同時に各部署の日本人工作者は職場を離れ、牡丹江に集結
した。この日を以て、第7航校の全ての工作は中国側に移り、我々日本人の参
軍以来の任務は終了したことになる。この間に牡丹江を離れ、他の地区に転属
していった者も少なくない。
この退職の時にあたり、私達は上部
にお願いして、牡丹江市の北山にあ
る元日本軍忠霊塔の場所に、私達日
本人工作者の物故者のために国際友
人記念塔を建ててもらうことにした。
集まった日本人は、集訓隊と名付けられ、元の校部の近くの建物に入った。
私と宮田さんと黒田主任は温春に残り、引き続き訓練を担当した。1ヶ月程学
員の補習教育を行い、11月中旬集訓隊に帰った。
飛行中隊を離れる最後の日、隊長は、警備隊兵士をも含めて全員を集め、送別
会を催してくれた。その会の席上、私は日本人工作者を代表して、中国語で別
れの挨拶をした。「光陰如箭、像流水様的過去了八年的日子………」と話し始
めて、感無量の心境であった。
会食の時、中隊長・指導員・教員・学員・機械員など多くの中国の人々が杯を
持ってきて労を労[ねぎら]ってくれた。その場は楽しく談笑していたが部屋に
帰ってベットに入ったら、今日までの8年間が思い出されてきた。
長くもあり短くでもあった8年だった。一遍にはとても思い出せない。時折書
いてきた日記帳を出して、もう一度読み直した。これは私の人生の大事な記録
で、これが最後になると思いながら今日の気持を書いた。
集訓隊に来たら、皆は軍服から紺色の工人服に着替えていた。
毎日する事もなく、ブラブラの毎日だった。……聞けば、私達日本人は軍を退
いて民間に移籍されるとか。教員は取り敢えず発足したばかりの中国民航に行
くとの噂であった。
それから暫くして、北京民航局より係員が来て私達の飛行経歴を一人一人に就
いて調べて帰った。いよいよ民航に移れるかと期待したが、それだけで後は何
の音沙汰もなかった。
私が集訓隊に来たとき、皆は中国語の勉強をしていた。次の仕事に備えて語学
をしっかりやろうとの皆の総意で学習班が作られたそうだ。2班に分かれ、初
級班は基本の発音練習で、話す事が主眼であった。
もう一つの班は中級班で、読む・書くが主眼となっていた。私は基本を習った
事がないので、正確な発音を覚えようと初級に参加した。昔学校で学んだとい
う塚本さんが講師になって指導していた。
私が入ったら彼は「あなたは上手だから中級に行ったほうがいい」と敬遠され
たが、「私のは我流だから正確なものを勉強したい」と、強引に入り込んだ。
プォ・ポ・モ・フォと発声練習をやっていたら、1週間目に林さんから中級班
の講師に来てくれと頼まれた。生徒から一変、講師とは妙な変わり方である。
ところが、私は文法というものを学んだ事がないので説明するのに困った。…
…経験上こう書くのではないかと思う……というような曖昧なものであったが
具体例の引用で講義をしたのが比較的好評を得た。
こうした生活の中で、元飛行員に対して北京遊覧旅行が催される事になった。
同時に、慢性病のある者は空軍病院での療養も行われることになった。私は、
皮膚の病気を治すため療養のほうに参加し、開設されたばかりの長春空軍病院
に2週間入院した。ここで教員の「刑国澄」と同室になった。
多くの患者が居たが、他航校から来た若い学生ばかりであった。彼らは、毎日
規則を犯して患者用のガウンのまま外出していた。随分贅沢というか我が儘に
なったと思った。この病院で身体各部を検査して貰い、よくない入れ歯も入れ
直してくれたが、皮膚のほうは治療法がないという事で、諦めざるを得なかっ
た。
2週間後、牡丹江集訓隊に帰って間もなく、杉本政治委員が来て、民主連盟員
を全員集め、この時点で連盟は解散すると宣言した。そしてこの宣言を待って
いたかのように、幾日もせずして私達300人の日本人に転出命令が出て次々
と集団で各地に分散して行った。ーーー誰が何処に行ったかは全然解らない。
出発前に、各人に退職金が支給された、私は40万元程だった。物価が高かっ
たとはいえ大金であった。しかし、我々チョンガーには使い道がなかった。
私は、林・黒田・長谷川・鮑・林飛・井田・石森・西谷・平信・和田・田畑・
内田元伍・内田英俊さんらの家族と共に、15人が北京に派遣された。(他に
機械員も何人かいた)牡丹江から特別仕立ての寝台車に乗り、永かった牡丹江
の生活に別れを告げた。
途中で平信さんが発熱して苦しそうだったが、夜中に少し下がり落ち着きを取
り戻した。車中で私達は、これからの仕事に就いていろいろ憶測して話し合っ
た。皆は民航に就職と考えており、新しい部門の未知の環境に意欲を燃やして
いた。
けれど、長谷川さん以外は双発の経験がないので、一抹の不安もあった、また
他の教員は、民航ではなく何処へ行ったのだろうという疑問もあったーーー。
= この稿つづく =
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└→ 感想や激励をよろしくお願いいたします。
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┃ ┃ 感想をいただきました。
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┌──────────「かみかわさん」
八路空軍従軍記は、いろいろ中国のことや日本人としての立場などを考えなが
ら楽しく読ませていただいています。が、そろそろお終いとのことですが残念
ですね。
なかなか当時のことが分かる人が少なくなっていますし、いやな思い出として
話したくない人たちもたくさんいらっしゃると思います。時々でも思い出した
ことや、なにか話題がでてきたらどしどし追加でお願いいたします。
ご苦労様です、またお願いします。いつまでもお元気で!!
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┌──────────「東安原人さん」男性@七十代@自営業@愛知
東安(現密山市)が中国空軍発祥の地という事実を、中国の現地の人でさえも知
らない時代となりつつありますが、ここにこのように、その時代に生きた人の
証言を読む事が出来ました。長生きはするものだ。
1945年8月9日開戦の当日、飛行場はソ連機の爆撃を受けていました。戦
後に見られた方の印象は、滑走路がボコボコで使いものにならないということ
を聞きました。現在は周り一面畑ですが、一ヶ所空地があり、そこは厚いコン
クリートの滑走路跡で、畑にするのが不可能でそのままにしてありました。
飛行場周辺には、避難壕の跡らしいコンクリートの壕が二、三ヶ所現在でも残
り、夏草や兵[つわもの]どもの夢の跡・・として現在も留めています。この東
安の隣町の鶏西市に、近い将来民間飛行場が着工されるそうです。
興味をもって読み終えました。謝々
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┌──────────「大澄国一さんから」
お便り有り難うございます。
東安に居られたのでしょうか?航校発祥の地としての記念館ができたと伝え聞
いたのですが、確認はしていません。 去年、第7航校は長春近郊に空軍航空
大学として開設されました。見学の誘いがありましたが、足が悪く行けません
でした。
中国でも日本でも、この事蹟の体験者は少なくなり 風化していくのでしょう
か。死しても、中国に名を残したことだけが私の慰めです。
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