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八路空軍従軍記 ―――――――― by 大澄国一さん

☆ 12月、三反五反運動始まる ―――――――――― 2007/06/01 飛行機材とは別に、機械廠では爆弾の改造が行われた。日本軍の不発弾を修理 改造したもので、これのテストが蘭崗飛行場裏の牡丹江で行われた。修復した 直協機にこの爆弾を積み、林さんが操縦し河に落とすという。 訓練後のことで、皆が見物に行った。水中で爆発すれば魚がたくさん捕れるだ ろうと、気の早い連中は裸になって待っていた。林さんは浅い急降下で一発落 とす。大きな水柱が立った。旋回してもう一発。ドーンと鈍い音がする……機 は引き返していった。 待ってましたとばかり、警備中隊の兵士達が河の中へ飛び込んでいった。深い ところへは流れが速くて行けない。岸辺近くで浮いた魚を捕っていた。大きな 魚は浮かなかった。聞けば大きな魚は深いところにいるので、死んでも下流の ほうでないと浮かび上がらないとの事。ーーーテストというより、レクリエー ションみたいな楽しいひと時であった。 その後、この改造爆弾がどう使われたのかは知らない。 この年の中頃から落下傘管理室が設けられた。前に書いたように、48年初期 までは落下傘を着けずに飛んでいた。全国解放後、アメリカ製の落下傘が集め られて、50年にはシート代わりに座席に敷いてはいたが、数が少ないし乗降 にも面倒であったから身体には着けなかった。 今年に入って大量の落下傘が入り、また使用機も増えたので、乗降に便利な縛 帯と傘を分離した日本式に改造することになり、今まで飛行隊を離れて別単位 にいた田畑さんが呼び戻されてこの仕事を担当した。 私も一度見に行ったが、清潔な室内で若い中国人と共に熱心に改造に取り組ん でおられ、この成功は我々の訓練に役立つので喜んだ。けれどこの成果は何の 評価も受けなかったが、私は特筆すべきだと思う。 10月には基本的な訓練を終わり、去年と同じく優秀学員を海浪に送り、AT −6に移行させる。残った学員は温春に集結し九九高練を続行する。私も温春 に転属し、黒田主任の飛行中隊に参加する。 ここで私は九九襲撃機・AT−6の未修飛行を行う。平信さんが担当し、私の 外、2〜3人いたようだ。私は、教官になってから初めて高練以外の機種に乗 れてチョッピリ嬉しかった。 この温春訓練中に、海浪のP−51が上空通過の際、機体より白煙を出してい るのを発見し、指揮所より無線で緊急通報したが応答なく、飛び過ぎて行く。 仕方なく見守るだけだった。 その直後、機体を反転して降下しだした。異常に気付いたのだろう。機は瞬く 間に高度を落とし山の向こうに姿を消した。不時着したのだろう……いい場所 があっただろうか?……気になった。ピストに居た者は総立ちでその行方を見 つめていたが、黒田主任が私を呼び、直ぐ偵察に行ってくれと指示した。 急いで駐機場に行き、機械員にAT−6を始動させた。エンヂンの調子をみる 間もなくそのまま滑走して離陸した。機首を捻って、降りたと思われる山の蔭 に向かった。尾根をすれすれに飛び越えた途端、目の前にP−51が見えた。 畑地の中に胴体着陸している。高度を50mまで下げて近付いた。操縦者は無 事か確認したかった。こちらの爆音に気付いたのか、機体の傍らから人影が走 り出て来て大きく手を振っている。飛び越えてから旋回し、もう一度低空で確 認認する……操縦者は周斉旁であった。 負傷は無いようである。機体も大きな損傷は認められない。プロペラだけが曲 がっている。上手く胴着したのだろう。翼を振って確認の合図をし、飛行場に 引き返す。情況を黒田主任に報告する。中隊長が海浪に救援連絡したそうだ。 来年度はより多くの機材を使い、多くの学生を訓練するので、飛行教員が不足 してきた。それを補うため、今まで他の部署で仕事をしていた日本人の元飛行 員を呼び戻し、九九高練の操縦教育を行う。西谷・佐藤・田畑・和田さんらが これに参加した。 彼らは、46年航校創立以来全く操縦をしていない。今度の教官転任はさぞ嬉 しかったと思う。技術の回復と共に、飛行に関する中国語も習得しなければな らないが、大いに張りきって励んでいた。九九高練が初めてという者もいるし 乗った事はあるが後席は初めてという者もいた。通訳であった趙・陸さんもこ れに加わった。 アメリカ機の中国教員は、単、双発合わせて7人。日本教官15人に、6人の 増加で30人近くなった。さらに第1期卒業生の姚思徳が教官として牡丹江に 帰って来た。ソ連式襲撃機の部隊から転属で、最年少の教員として着任、古参 教官に負けぬぐらいの意欲を出していた。彼はソ連式の訓練を受けているので 教育方法にはすんなりと溶け込めたようだ。 全ての飛行訓練を終了した12月から、全校挙げて、党中央の指示による政治 運動「三反五反」が始められた。三反とは、汚職・浪費・官僚主義に反対し、 その罪悪を徹底的に糾明し是正する事。五反とは、贈収賄・脱税・横領・仕事 の手抜き・国家情報の盗曵等で、主として商工業者に対する経済事犯を糾弾す るものであった。 これは本来中国人に向けた政治運動であったが、我々日本人にも同じように実 施された。当初はこれに準ずる学習程度の指示であったが、日工科の杉本科長 により、中国側と全く同じように進められ、個別の人にはかなりの打撃(投獄 等)を与える結果となった。……これが帰国後も深刻な影響を与え続け、拭い 難い過去として憎悪感情をひきずり、個人間の対立は今なお続いている…… 運動は、先ず文献学習から始まり、思想意識の検討が行われた。職場毎の討論 の後、先ず自己批判書を提出し、それに基く全体討議の中で批判を行う。思想 的な誤りについては批判だけで済んだが、仕事上での汚職・横領に繋がる事柄 に対しては徹底した追求が行われ、――――それらの人は「虎」と呼ばれ、人 民財産をクイモノにした極悪人として吊し上げられ、悪質者は、中国人と同じ ように監房に閉じ込められ、手足に鎖を填められる者まで出た。 これらの「虎」を退治する「打虎隊」と称する特別組織が作られた。この組織 は相当の権限を持ち、「虎」の調査のためには何処の部署にも入って行き捜査 する事ができた。 日本人に対しては民主連盟が指導し、その中堅幹部がこの「打虎隊」を組織し た。私は幸いにといおうか思想上の批判だけで終わり、打撃は受けなかった。 連盟内の若い者は先鋭に走り、果ては事実が無くても思想虎として吊し上げら れ、用便中にも扉を開けられて大勢に怒鳴られる事もあった。 中国側の事実求是のやり方に比べ、日本側は十把一絡げ的に疑い、有るものは 何でも採り上げて攻撃し本人を自白に追い込む、疑いを事実と決め込んだ追求 であった。ーーーそんな中で私は、非積極分子のレッテルを貼られたーーー。 運動は長期に渡り、訓練開始になっても「打虎隊」は追及の手を緩めなかった が、訓練が繁忙になってくると、形だけの総括をやり、何の決着・処理もない ままウヤムヤの中に終わった。(日本側のみ)……これは遂に帰国するまでハッ キリせずであった。 今思うに、「三反」は中国側には「益」となる必要な措置であったが、日本人 にとっては「怨念」を残しただけであった。この運動のため、恒例の演芸会は 取り止めとなった。                         = この稿つづく =
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