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八路空軍従軍記 ―――――――― by 大澄国一さん
| ☆ 1950年6月朝鮮戦争勃発 ―――――――――― 2007/05/18
1950年6月、朝鮮戦争勃発――――38度線で対峙していた南北朝鮮軍が
衝突し、忽ち朝鮮半島全土に戦闘が広がり、新たな戦争の危機に陥る。解放軍
の中の朝鮮人部隊は急遽祖国に帰り戦列に加わる措置が執られ、航校の中の朝
鮮人学員も訓練中途で帰国していった。
破竹の勢いで南下していった北鮮軍は、10月初め、南鮮軍へのアメリカの参
加によりズルズルと後退し、ついには中国国境が侵犯されそうになり、やむな
く中国も人民志願軍を編成し、祖国防衛のために抗美援朝[カンメイエンツォ]
=アメリカに抗し朝鮮を助ける)の一大支援行動を開始するにいたる。
中国全土で支援決起大会が開かれ、軍民一致の挙国体制を敷く。「不能処置不
理[ブノンツゥズブリィ]=放っては置けない」という言葉がよく使われた。
航校内でも決起集会が開かれ、政治委員からの呼びかけに応えて、各科学員達
は交互に立ち上がって支援の決意を発表し合った。私達日本人工作者も林さん
が代表して決意を述べた。
嘗ての甲班・乙班の学生が、ソ連のジェット機を操縦してアメリカ空軍と空中
戦を戦ったニュースが入ってきた。――――私達の教え子「張積慧」が空軍英
雄第1号となり新聞に報道された。
中国人民志願空軍
私は「ホ〜、あの張積慧がアメリカ軍機を撃墜したのか」と秘かに感心した。
と同時に、オンボロ飛行機で教えた彼が、アメリカ軍機と対等に戦い、勝つま
でになった成長ぶりに拍手を送りたい思いだった。
訓練が終わった10月中旬頃、私と宮田さんは、校部指令で瀋陽までアメリカ
製L−5を空輸するため出張した。――――瀋陽は敗戦直後私がウロウロして
いたところであり、参軍したところでもあるので、久しぶりに来て懐かしかっ
た。以前行ったことのある飲み屋やバーを探してみたが、すっかり変わってい
て確かめられなかったーーー。
昔飛んでいた北陵の飛行場は懐かしい。ソ連教員がЛ−9の訓練をしていた。
L−5の整備には二日かかった。飛行距離が短いので予備の燃料タンクを付け
た。国民党からきた整備員だったが、熱心に気持ちよく私らに接してくれた。
兎に角初めての機種で、飛行諸元(速度・回転数等)が分からない。元国民党飛
行員を捜して訊いてみたが知らぬと言う。もちろん整備員も知らない。宮田君
と二人で「弱ったなぁ……」と考え込んだ。
機体は高翼単葉の通信連絡機で小型機である。エンヂンは150馬力というか
ら速度は150Kぐらいだろうと考えた。
試運転をした。スロットル全開で2000rpmでる。フラップは手動式であ
る。長いテコのようなバーを引き上げる簡単なもの。アメリカにもこんな原始
的なものがあるのかと思った。視界もいいし、地上滑走も楽でクッションが非
常に良くフワフワと走る。――――問題は飛行速度である。飛行場は終日飛行
訓練をしているので、滑走試験をするわけにはいかない。
3日目、整備が終わり試験飛行を行う。初めに宮田さんが飛んだ。20分ぐら
いで降りてきた。そして私に「速度は80マイルぐらいだと思う、回転は18
00〜から1900ぐらいだろう。フラップは気をつけろ、一挙に引くとひっ
くり返りそうになるよ」と注意してくれた。
そして私の番となる。訓練中の合間をみて離陸地帯に出る。ソ連の教員が誘導
してくれた。前方が空いてるのを確認してスロットル全開……200mぐらい
の滑走でフワリと浮いた。昔乗った「初練」のような感じだ。
500mの高度で操縦性を試す。視界が広く、操舵の効きも中々良いものだと
思った。降下しながらフラップのテストをする。軽いと思ってチョイと引いた
が動かない‥‥。力を入れてグイッと引いたら、突然機首が大きく上がった!
ビックリした。宮田君の言った通りだ、いっぱい引くのに相当弾みを付けない
とバーが上がらない。
大体分かったところで降りようと場周に入る。ЯК−18機の飛行に注意しつ
つ降下。フラップを引くと、またもクラッと機首が上がる。難しいものだ。
牡丹江に帰ってから分かったことだが、急に引くから風圧がかかって難しくな
るのだ。ジワリと引けばなんでもないのだ。こんな簡単な理屈が何故思いつか
なかったのか??ーーー着陸は易しかった。
試験飛行を終わり、宮田君と明日出発することに決めて午後は休息した。
翌朝、同行した機械員を乗せて離陸した。鉄道に沿って真っ直ぐハルピンに向
かう。途中、長春を過ぎた頃に燃料タンクを切り替える。宮田さんは50m先
を順調に飛んでいる。昼近くにハルピン馬家溝飛行場に着陸した。ここは第6
航校で、同じくソ連式である。ここはT−2軽爆機であった。
L−5から降りて宮田君と宿舎に案内されていたら「大澄教官!?」と呼ぶ者
がいた。振り返ると、なんとなんと、懐かしい学生「呉玉潤」ではないか!?
久しぶりの対面だ。……元気な彼を見て嬉しかった。互いに固く握手をした。
彼は直ぐ食堂に案内してくれて自分で食事を運んでくれた。パン食であった。
食事をしながら牡丹江の時を懐かしく話し合った。彼も立派に成長して一人前
の爆撃機操縦士に見えた。
給油後、再びL−5に乗り牡丹江に向けて飛び立った。宮田さんが少し先を飛
んでいた。方正辺りまで来た時エンヂンの調子がおかしくなった。そして変な
振動が出てきた。‥‥そのまま5分ぐらい飛んだが、やはり不安になり後席の
機械員に知らせてハルピンへ引き返す事にした。
着陸後点検して貰う。翌日一日掛かりで検査したが異常は見つからなかった。
機械員もこれ以上は分からんと首を傾げていた。異常がなければ帰ろうと二日
滞留して飛び立つ。この後は順調に飛んで、牡丹江に無事帰着した。
= この稿つづく =
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└→ 感想や激励をよろしくお願いいたします。
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┃ ┃ 記事に対するお便りなどあれこれ。
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┌──────────「爺さん」八十代@大阪
大澄国一さん、毎号淡々と記述しておられますが、私はわくわくしながら読ん
でいます。同じような中国での経験を持つ者にとっては、まるで小説のようで
す。
まさしく現中国空軍の創始者といっても過言ではないですね。中国では少しは
感謝しているのでしょうか。
数ヶ国製のポンコツ機体を集めての訓練、乗りこなすのも大変、また相手軍機
から見ると敵か味方か分からなかったでしょう。
以前の爺さんの体験投稿 ▼
「青島海軍航空隊の終戦」
「あの時俺たちを攻撃したのはお前たちか?」
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┌──────────「十八子松戸さん」
こんにちは、十八子松戸です。
来日20年。戦争経験者の旧軍人からいろいろ話を聞きました。
1.そのまま帰国した日本軍人
2.中国国民軍に編入された日本軍人
3.中国共産軍に編入された日本軍人
3種類の経験者のお話は相当な歴史認識の格差があるのです。
前2者は、割合淡々と事実どおりに物語っていますが、一番後者は多くが感情
的に物語っています。どういう事か。
今考えれば、
一番後者は当時共産党に洗脳され、優遇され、利用されている特殊人種です。
受けた教育はすべて共産党が作ったマニアルです。当時20〜30代ぐらいの
年齢ですから染められやすかったのでしょう。
しかし、
相当な方々は、80代に入ってもまだ頑固に頭に残っているでしょうか。
よくいわれる「歴史の真相は50年後から段々後世に公開され、評価される」
ということは、本当に今はまだ健在している戦争経験者から重い口を開けてい
ただきたいところです。
因みに、私の父も元軍人でした。日本軍と真正面に戦いました国民政府軍でし
た。いつも、国民政府軍がどうのように勇敢に戦っていたかということを、家
の門をびっしりと閉めてから、小さい声で密かに語ってくれました。話してい
るうちに、目が段々潤くなって光ってきました。
----生きていれば95歳。しかし、共産党の酷政下69歳で他界。もっともっ
と当時の真実を聞きたかったです。なので、
中国共産軍に編入された日本軍人のお話は貴重ですが、そのまま帰国した日本
軍人、中国国民軍に編入された日本軍人のお話も大いにに聞きたいのですね。
そうすれば、歴史を双方の言い分によって比較でき、割合客観的に認識できる
ことは間違いありません。よろしくお願いいたします。
└──────────
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┌──────────「(^^) OJIN です(^^)」
十八子松戸さん、好久不見了!
そうでございますか、十八子松戸さんの父上は国民政府軍の軍人さんだったん
ですかーーー。
OJIN の父は、旧満州国黒河省黒河で、満ソ国境守備隊に在籍しておりました
一兵卒でしたが、終戦の僅か数ヶ月前に病をえて内地療養命令により送還とな
り、結果としてシベリア抑留を免れました。今の人ならばなんと幸運なと思わ
れるかもしれませんが、
OJIN がラジオの戦記番組を聞いているときなど、何度も何度も(自分が病気
になって内地送りとなって一緒に戦えなかったことを)「戦友の皆には本当に
すまないことをしてしまった‥‥」と呟いて肩を落としておりましたーーー。
当時の日本軍人は「戦死もせず、シベリア送りに遭わずに俺は幸運だった♪」
ではなく、一兵卒に至るまでこういう気持を持っていたのだと思います。
中国の今の教育を受けた若い連中とそういう話に及んだ時、共産党が頑張って
日本軍を負かしたんだ!と鼻の穴を膨らませられると、なにをシャラクサイこ
とを!その頃の共産軍なんか、国民政府軍の陰でちゅろちょろコソコソやって
ただけじゃないか!ーーーと、大人げもなく腹の中で毒づいてしまいます。
まあ、どちらにしても君等は中国人なんだから連合国側で、勝利したのは確か
だけれど、でも日本との勝利には共産党はほとんど関わりなんかなくて、国民
政府が日本と戦って勝利し、その後、国民政府と共産党が争って勝利した。
――――こういう真正の事実を教えられないということは、その政権は、誤魔
化さなければならない何等かの事情を包持しているからじゃないのか?
「歴史の真相は50年後から段々後世に公開され、評価される」のは真実では
ないかと思います。戦後60年、10年ぐらい前から日本では、自虐史観や、
その他諸々の偏りが正されつつある流れに変ってきているように感じます。
中国は共産党政権成立からもうすぐ60年ですが、さて、歴史の真相を国民が
識るようになるには、あとどのぐらいの時間を必要とするのでしょうーーー。
そのまま帰国した日本軍人、中国国民軍に編入された日本軍人・民間人の話を
公開したいものでございますーーー。体験を聴き書きできるような方はおられ
ないものでしょうか。
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┃ ┃ 「melma!」バックナンバーページに頂きました感想。
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┌──────────「名無しさん」
十八子松戸さんの投稿興味深かった。現在の台湾軍がアメリカ式になる以前は
蒋介石が旧日本軍の将兵を雇い、日本式軍事教練をしていた事ご存知か。パイ
団と称していた。
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