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八路空軍従軍記 ―――――――― by 大澄国一さん
| ☆ 1949年後半、不審機飛来 ―――――――――― 2007/05/11
海浪では林さんが主任になり高級機訓練を、温春は黒田さんが主任に、蘭崗は
糸川さんが主任教員となり、海浪以外は九九高練で基本操縦訓練を行う。

九九式高等練習機⇒
右の写真は中国軍に接収された後のもので、
上は中華民国=国民党軍)のマークになっている。
下は1947年から共産党軍のマークに換わっている。
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各飛行中隊の行政・政治幹部は陸軍から転向・転属した者で、航空知識はゼロ
に近かった。中隊だけでなく、校長の魏堅さん以外の各級・各部署の幹部は殆
ど陸軍からの転任者で、これら大量の航空幹部の育成も大きな課題となってい
た。
特に飛行中隊の隊長・政治指導員は、初期には、部下の教員・学員に対する指
導はお手上げで、只訓練の様子を見守る、或いは見習うような態度であった。
飛行・機械教員も、国民党から来た者が少なくない。他のソ連式航校と異なり
全く中国側独自の運営となり、歴史的には日本人から中国人へ移行する段階で
あった。
私は勝瑞・山本・鮑・内田・井田さん達と共に蘭崗に配属された。ここは全く
の田舎で、畑の中に滑走路があるだけという寂しいところで、飛行中隊と警備
中隊の建物しかなかった。日工科より、政治幹事として河口さんと、衛生隊よ
り林医生(女)が配属された。
学員の質は非常に良く、操縦技術の掌握は早かった。九九高練の単独飛行も、
8時間余りでできたのは過去の日本軍でもなかった記録だ。また、私の学員の
王太永が単独飛行で離陸後エンヂン故障で西瓜畑に無事に不時着できたのも、
質の良い証明であった。
私の受け持ち学員5人の内、‘方新林’と‘寧懐芳’は大学生出身、王太永・
王保君と、名は忘れたがあと1人は兵士出身であった。自習時間や私の飛行後
の講評の時、解らない理論的な事を他の3人に良く解るように説明していた。
日本軍時代によくあった出身別の差別感は全くなく、互いに学員としての本分
に徹していた。
蘭崗は田舎のため、休日でも外出して遊ぶところはなく、宿舎裏側を流れる牡
丹江(河)に行き、水泳したり、魚取りして遊んだ。学員の中で、広州から来た
者がスッポン取りの名人で、手作りの釣り竿を持ち、口や手でポンポンと鳴ら
してスッポンを呼び寄せ、実に上手く釣り上げて見せた。
また、時には付近の農民が西瓜を毎日のように贈ってくれて、小便が赤くなる
程食べた。牡丹江の岸辺は蛇が多く、学員と蛇獲りしては皮を剥いで焼き、私
が食べて、薬になるぞと学員に勧めて驚かしたものだ。
家族のある者は「過礼拝六(ゴリィバイリュウ=土曜帰り)」といって毎土曜日
にはトラックで牡丹江の家族隊まで帰って一泊した。教員・学員その他の者も
外出希望者は、日曜日にトラックで牡丹江の街まで遊びに行った。
男ばかりの訓練生活の中で、只1人林医生だけが若い女性で、とかくチヤホヤ
され、教員のある者と問題を醸し出した場面もあったーーー。
訓練課目が早く進んで編隊飛行になった頃、午後の時間を利用して教員のアメ
リカ機AT−6習修訓練を行う。国民党から来た「周斉傍」が教員となって離
着陸の練習をする。私は丁度体をこわして休んでいたので参加できなかった。
内心は乗りたかったが、休養の手前我慢した。これが響いて、その後の高級機
訓練には参加できない結果となり、古参の私だけが最後まで九九高練を担当さ
せられた。この間に、優秀な学員は九九高練の後席操縦を練習してAT−6移
行への準備をする。
10月のある雪の日、訓練中、突然正体不明の飛行機が1機、蘭崗上空に飛ん
できた。何事かと訓練を中止し見ていたら、1〜2回飛行場周囲を旋回してか
ら着陸態勢に入った。機体をよく見たらソ連製のл−9戦闘機であった。
ソ連機である事を確認して、北朝鮮空軍のものと判断し着陸させた。
待機線に誘導し停止させたが、パイロットはエンヂンを止めると操縦席から立
ち上がり、こちらに向かって何やら大声で叫んでいるが我々には解らない。
「姚」政治指導員は興奮して「武器を取り上げろ!」と喚いていた。
私達が、これは北朝鮮空軍機だから心配ないと言っても納得できぬ様子で、暫
く大声のやりとりが続いたが、どうやらロシヤ語を使っているらしいと分かり
学員の中からロシヤ語の解る「寧懐芳」が静かに話しかけた。
パイロットも理解したらしく、素直に拳銃を渡して機上から下りてきた。話を
聞けば、航法を誤り迷っているうちにここを見つけて下りたという事らしい。
取りあえず中隊本部に連れてきて詳しい事情を訊いた。指導員は中隊長不在の
ため1人でアタフタと校部に電話して対応に慌てていた。
連絡がつくまで、昼食を食べさせて待つ事にした。パイロットはだいぶ気持が
落ち着いてきて、応対していた河口幹事が、日本語が少し分かるということで
彼を教員室に連れてきた。話しをしているうちに日本語を思い出したのか我々
と気安く話すようになった。
3〜4日して、北朝鮮からソ連人が機体を引き取りに来て飛んで帰った。
ーーーちょっとしたハブニングであった。
= この稿つづく =
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└→ 感想や激励をよろしくお願いいたします。
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┃ ┃ 記事に対するお便りなどあれこれ。
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┌──────────「Zhenさん」男性@四十代@会社員@栃木
はじめまして、Zhenと申します。
僕の父親と大澄さんは、同じ年代です。僕の父親も大澄さんと同様、戦闘機に
乗っていたようですが、戦争のことはまったくといっていいほど話してくれま
せんでした。----父の足には流れ弾を受けた傷跡が生々しく残っていましたの
で、戦場には赴いたのだと思います。
今は他界して、戦争の話は永遠に聞けなくなってしまいました。当時は僕も積
極的に戦争の話を聞くこともなく、今考えると非常に残念ですが、話好きな父
が敢えて話さなかったのは、よっぽど話したくない思い出だったのかもしれま
せん。
それだけに大澄さんの「八路空軍従軍記」を拝読していると、父の話を聞いて
いるような気持ちになり、とても興味深く拝読させいたただいています。続き
を楽しみにしています。
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┌──────────「大澄国一さんから」
お読み頂き有り難うございます。お父さんが元戦闘機パイロットとか、親しみ
を感じます。
「戦争と平和」という言葉がありますが、平和を叫ばれるほど、戦争体験者は
自分の体験をあまり話したくないものです。分かってあげてください。逆に軍
隊内では戦闘体験は自慢話であり、尊敬されたものでした。
戦争の話で、楽しかったとか嬉しかった話は、私は聞いたことはないです。
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