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八路空軍従軍記 ―――――――― by 大澄国一さん
☆ 1949年夏から秋・長春転任 ――――――――― 2007/04/27 それまでは市内の宿舎にいて飛行場に通っていたが、訓練半ばで飛行場内に新 しく宿舎・講堂・食堂・大浴場等が新築完成し、学校の訓練・教育の関係部署 全部が飛行場内に移った。もう敵機来襲の恐れもなく、十分な訓練生活ができ るようになった。 その頃の解放軍の兵器は、敵(国民党軍)から奪った大量のアメリカ製兵器で装 備されていた。昔、参謀長が「我々の兵器補充は敵の中にある」と言った言葉 が現実となった。 学校に届いたアメリカ製の教本を見て一大発見をした。勿論殆ど英文である。 中には中文訳のものもあったが、過去の日本軍の教本は文字ばかりで解りにく かったが、それに比べると写真やイラストが多く挿入されており、見ただけで ある程度解る視覚教育が重視されている事だった。 教本だけでなく、他の機材も合理的・効果的に作られていた。ーーーなんだか 日本とアメリカの考え方の違いを見つけたような気がした。 48年末から49年にかけて、航空学校は旧から新への一大転換期であったよ うだ。私達日本人の中にも大きな変化が現れた。多くの日本人が軍人出身であ るため、軍隊生活の様相が変わり、昔の軍人的というか、日本人的考えは殆ど 通用しなくなった。特に20代以下の若い人と年輩者との考え方の対立は少な くなかった。 ここで初めて民主主義なるものを体験した。解放軍の中には階級はなく、全部 職務名で表されていた。校長、連長のように。人を呼ぶのに「同志(トンズ)」 という言葉が使われた。これは重宝だった。上下老若男女を問わず、全て「同 志」でよかった。 この解放軍内の言葉が解放区内の一般人にも普及して、街の中でも誰彼構わず 「同志」が飛び交っていた。これは、新中国成立以後も世間で何年かは使われ ていた。(特に東北等の解放区に於いて) 本当はこの言葉は共産党内の言葉で、正式な会議・集会以外では使わなかった が、行政機関で使われていたのが民間人の中へ伝わったものと思われる。街で 見知らぬ人に問いかけるにも「同志」は便利だった。 党務以外の一般の生活では〇〇校長、〇〇課長と職名を付けるのが敬語となっ ていた。私も日本人の会合では「大澄同志」であったが、中国人からは大澄教 官と呼ばれた。私的には日本語の「さん」付けだが、中国語では、例えば王さ んには、年長者であれば「老王」、若年者には「小王」と呼んだ。 自分よりはるかに上級者(政府要人など)には逆に「老」が後について「王老」 と呼び、その人が亡くなると「王公」と呼んだ。 「ニィハオ」は、当時はこの言葉は使われなかった。「ご飯食べたか」が朝昼 晩関係なしに使われた。これは、中国人は有史以来戦争に明け暮れしたので、 ご飯が食べられればマシなほうと思われた、日本人は天候に左右されてきたか ら「いい天気ですね」「暑いですね」とかが交わされる。 また、この学生期から我々日本人は全員中国名に変えた。上部から国際問題に 関わるからと説明された。私は「欧思民(オウ・ス・ミン)」と変えた。発音が 似ていたので。ーーーであったので49年以後の学生は私の本名を知らない。 呉玉潤が教官としてやっていけるようになったら私は訓練から外されて、専ら ハルピン修理廠の修理完成機の輸送任務に就いた。行きは汽車で、帰りは空輸 の往復を何度も行ったが、列車内の検問には一度も日本人とはバレ無かった。 そして7月初め、長春へ転任する事になった。 何をするのか分からなかったが、学生や教官に見送られて単身赴任した。荷物 全部は汽車に乗せられないので、取りあえず身の回りのものを持って長春へ向 かった。 長春の街の中の立派なビルの中に航校の領航班(航空士)があった。そこにいた 長谷川さんと交代して、直協機1機を使って航法訓練をする任務であった。 ここで初めて田中さん夫婦と、曽根・小原さん達と出会った。彼等は直協機の 整備を担当していた。聞けば張家口のほうから来たという。それまでは華北の 解放区の山村で働いていたそうだ。元中華航空の整備員であった。 翌日から早速領航班の訓練に飛ぶ。毎日宿舎から田中さんの運転するトラック で飛行場まで行き、直協の後席に学生を乗せて示された方向・高度で飛ぶ。飛 行中は学生が後席から紙片に「請向〇〇度(何度の方向へ)」と方位を書いて手 渡してくれる。(=伝声管がないため) 学生が計算しながら航路修正をするので実に楽だ。三角航路を一周して飛行場 に帰る。午前中3人ぐらい飛んだら終了、午後は何もない。(この時の学生隊 長が90年代の民航局副局長だった) ここにはもう1人顔見知りの中国機械学生がおり、又国民党から来た機械員2 人一緒だった。直ぐ仲良しになり、土曜日の晩はよくダンスに誘われた。ここ での飛行関係者は、学生と共に総勢20人ぐらい。他は皆航空地上勤務学生で 女性が多かった。 真夏のある日、長春航校で水泳大会が行われた。 各部署対抗の競泳があり、そのレースに田畑・姫野さんが断然トップで泳いで いた。やはり日本人は泳ぎが上手いなぁと思った。衛生隊の日本人看護婦も、 手製の水着で泳いでいた。女性で泳いでいるのは、彼女ら日本人だけだった。 久しぶりにその人達を見たが、会って話をする機会はなかった。航校は大きく 広がって、日本人も広がっているのだと思った。 9月の末、領航班の任務を終えて牡丹江に帰った。 当面任務がないので、毎日飛行場に出て見学していた。中国・日本教官による 訓練は順調だった。学生達も、次々と大都市解放を告げるニュースに全国解放 近しと大いに士気が上がっていた。 この時期に合わせたように「立功運動」が展開された。優れた行為に----成績 でないところが日本と違う----1行為1紅点、5紅点で1小功、3小功で1大 功というふうに積み上げていき、運動の終わりには慶功(表彰)大会を行い、全 員の前で表彰する。 勿論日本人もこの大会で中国人と共に表彰された。表彰後にはお祝いのご馳走 が振る舞われた。こういう行政と政治的指導の配合が実に上手いと感じた。 私もこの期間に新聞ニュースを日本人に伝えた事が学生側から評価され1紅点 貰ったがそれ以上にはならなかった。なぜなら、私は中国側の評価はよかった が、日工科指導による評定の時は本人の思想意識が最重視され、よい業績を上 げても採りあげられなかった。だからいつも同じ人(連盟員)が記功された。                         = この稿つづく =
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