┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓



八路空軍従軍記 ―――――――― by 大澄国一さん
☆ 1949年の春から初夏 ―――――――――――― 2007/04/20 3月になって飛行中隊は、宿舎をここより西の、最初に校部のあった大きな建 物の一部に移った。同時に、東安に残っていた校部・修理廠・衛生隊も牡丹江 に集中し、新しく家族隊も創られて中・日の全家族が1ヶ所に集まった。 一部の修理廠と機械廠・材料廠は、ハルピン・瀋陽 に転出していった。こうして、牡丹江は航空学校の 拠点となった。そして航空学校は中国人民解放軍空 軍部隊となり、軍帽も工人帽風になり赤いの徽章 が付いた。上着には解放軍の胸章を付けた。 食事もぐんと良くなり、日常支給品も良い物が多く支給された。勿論給料も多 くなり、1人では使い切れない程あった。給料の中に10万円札があったのを 覚えている。勿論物価が高騰している時だったが後に通貨改革があり百分の一 の単位になった。紙幣はそれまでは各軍区発行のものであったのが中央に統一 されて、中国人民銀行の紙幣になった。(硬貨はまだ無かった) ハッキリしないが私の給料は400元ぐらいだったろうか? 当時は供給制と 薪金制とがあり、私達軍人は供給制で衣食・日用品支給の他に給料があった。 (正しくは「手当」) 薪金制は等級があり、1〜18級まで1級何点と定め、1点は当時の布・食用 油・燃料の物価が基本になって計算されていた。物価が上がれば自動的に給料 も上がるので心配はなかった。これは主に民間に働く人に適用され、聞いたと ころでは、日本人の医師が最高の1000点ぐらい支給されていたそうだ。 4月になって新学生が来、黒田さんを主任として飛行三期5中隊を編成する。 今までの学生は「連級」以上の幹部から抜擢された者であったが、この新学生 からは一般兵士及び下級幹部の中から募集し各種の検査をパスした者であり、 文化程度・身体・年齢共に同じような水準であったので、地上教育・飛行訓練 共に順調に進行できた。 この中隊の訓練から中国人教官が加わった。教官班から于飛・張華・孟力・呉 玉潤・満軍出身者の曹文会・陸非光等である。増えた教官の分だけ日本教官が 他の訓練班に転属していった。 この時期は全東北は既に解放されて、第四野戦軍は関内(山海関以西)に進撃し 第1・第2・第3野戦軍と合流し、戦線は平津・准海戦役に進展し、全解放軍 は怒濤の如く長江を渡って南へと進軍を続けた。 毎日の新聞は気持ちのいいほど勝利!勝利!のニュースを伝えていた。戦時中 の日本の大本営発表とは違った感覚で身体に伝わってきた。私は毎日のように 新聞を周囲の日本人に読んで聞かせた。 誰かが中国全土の地図を貼りだしたので、私は解放された都市に赤印を付けて 表示し、皆に一目で分かるようにしてお互いが喜び合った。(この戦況解説は 後で中国側の高い評価を受けた) こうした戦況下で、全国各地で捕獲・接収したアメリカ軍機と機材がどんどん 牡丹江に送られてきた。それと共に、国民党軍より投降した飛行員・機械員も 多数航校に入ってきた。 その最初に、揚という人が5中隊に副官として配属され、記録係をしながら良 く私のところに来て日本人のことを知りたがり、親しく話をした。察するに、 思想的によい者が来ているように感じた。 日本人がいることが意外そうであったが、それでも私達を教官として敬い、よ く指示に従った。我々日本人がとかく抱きがちな民族差別感は少しも感じられ なかった。 そして飛行場大隊も新設され、着陸管制・信号等はこの大隊の飛行場班で行わ れた。海浪以外では、3中隊・4中隊卒業者が湯源で隼(戦闘機)・九九襲撃機 を、太平鎮で双発練習機を、チチハルでB−25、後には公主嶺でP−51を 使って訓練を始めた。 後日、私が公主嶺に出張した時、乙班の学生がP−51を操縦している姿を見 て、立派になったものだと嬉しく思った。 5中隊の訓練は中国教官と混成になったが、地上教育も絵画による図表・地面 上に場周経路を描く等工夫を凝らし、中国教官の中国教官による理論学課で、 私達日本教官は随分楽になり、訓練の進行も非常に順調であった。 以前のように苦労する事は殆どなくなり、また機体の整備・修理もずっと良く なり、訓練に支障の出るトラブルは起きなかった。これは修理廠の機械・設備 が充実・向上した結果であったと思われる。 私と一緒に組を担当する教官となった呉玉潤は、熱心に学生を教えていた。同 期の者の殆どがP−51に乗って高級訓練を受けているのに、少しも僻んだと ころがなかった。本人に訊いても……「教官をやって人より多くの時間飛べば それだけ早く上手くなるから、自分のためにはよい事だと思う」……と言って いた。組織性を明確にした立場であった。 受け持ち学生は5人いたが名は忘れてしまった。(以前のように宿舎が同じで はなかったので接触が少なかった)私は離着陸の初期だけ学生に同乗し、後は 殆ど彼に任せた。私は只彼のそばで学生への指導を見ているだけだった。 彼はいつも助言を求めた。1ヶ月程経った頃にはその教育振りは実に上手くな り、一人前の教官に見え、頼もしく感じた。彼の学生の頃は私たち日本教官か ら見様見真似で覚えていたものだ! その苦労が解っているのか、彼の学生に対する教育は細かいところまで説明し ていた。それでも自分で説明できないところは、素直に私と代わって説明させ た。それを恥とも思わぬ謙虚さは立派な人格者であり、党員であった。彼の事 は終生忘れ難いものがある。 このような場面からも、中国空軍は既に私達から離れ独歩し始めたと感じた。 ----35年後、彼と文通ができ、1993年、中国で44年ぶりに再会した。
44年ぶりに済南で再会 (右が呉玉潤氏)
                        = この稿つづく =
中国ランキングに参加中!クリックして頂けますとランキングページが開きポイントが加算されます。 そしたら「応援してくれる人がいる!頑張ろう!」とファイトが湧いてくるんです!
    
┌―――――――――――――――――――――――――――――――――┘ └→ 感想や激励をよろしくお願いいたします。 ┏━┳━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┃┃ 記事に対するお便りなどあれこれ。 ┗━┛ ┌──────────「金子康政さん」 大澄様、はじめまして。金子康政と申します。 懐かしい牡丹江、パロジンが出てきて非常に興味がわきました。実は今日偶然 にも≪ WEB 熱線 ≫≡アジアの街角から≡に行き当たり、もしやと思い登録し たばかりです。 私も満洲での体験談をブログに書き込んでいますが、後世の人に何かのときに でもお役に立つものならと、半信半疑(?)で書いています。 第一に収容された所が、なんとトンキン城の陸軍飛行場跡地。何かのご縁です ね。 第二の収容所は間東軍延吉連隊跡地、ここで運命の分かれ道、シベリヤかどう か、私は14歳、ロシヤ軍も国際法は守ってた。 第三の日僑俘虜収容所、延吉の刑務所、ここから脱走、民間でクーリー、後に 八路軍の病院=旧陸軍病院)で炊事班。――――帰国。 申し遅れましたが、私の所属は満蒙開拓青少年義勇軍。当時14歳でした。 あなた様への感想の中に、共産軍に協力したことへの非難がありましたが、実 情を知らないショウハイのいうこと、お気になさっておられないないとは存じ ますが、東満州の関東軍や、義勇隊の全滅に近い戦闘を知らない方には無理か と思います。 また、八路軍には兵隊の位がなく、人種差別がないことを知らないからでしょ う。お許しあれ。懐かしい八路軍の高粱飯、あけてもくれても冬瓜やピーマン の肉なし油炒め。今の人に耐えられるかな? これからも暇を見つけてあなた様の伝記を拝見させていただきます。あなた様 の楽しい余生を願ってます。お元気で。 100式新司令部偵察機懐かしいです。ーーー飛んでみたかった。 └────────── ┌──────────「大澄国一さんから」 金子様 お便り有り難うございました。下手な文章ですが読んで頂きうれしく 思います。 私が居た頃の中国と今の中国は驚くほどの変化ですが、私の人生の大きな転換 点として記録したものです。何かの参考になれば幸いです。 中国を懐かしむ私たちの年代も少なくなっています。今後ともよろしく。 └──────────
八路空軍従軍記の目次に戻ります







SEO [PR] お金 ギフト  冷え対策 わけあり商品 動画無料レンタルサーバー ブログ SEO