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八路空軍従軍記 ―――――――― by 大澄国一さん
| ☆ 1948年、訓練模様(2) ――――――――――― 2007/04/06
国内情勢はこの夏を転機として、東北地区の解放軍は国民党に対して一斉に反
攻に出た時である。まさに破竹の勢いで進撃し、全戦線は勝利に次ぐ勝利で、
ハルピン南方の第二松花江で対峙していた解放軍はどんどん南下して、長春→
四平→瀋陽と、大都市を次々と解放していった。
このニュースを、我々日本人も中国人と共に喜び合った、そして日本人の目も
自然と毎日の新聞ニュースに向けられて、「今日は何処が解放されるのか?」
というのが毎日の話題になった。
なかでも四平街の戦闘は大激戦となり、東北解放戦争の中でも有名であった。
これは、私の妻もこの戦闘に前線で看護婦として従軍していて、よくその話を
聞いた。
都市の解放につれて、我々の材料廠・修理廠は忙しくなった。国民党軍の残し
たアメリカ製飛行機・機材・燃料・器具等の収集に人員を派遣して、どしどし
牡丹江に送ってきた。航空学校好転の兆しであったーーー。
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この3中隊の訓練から、各科目毎の試験が実施された。実技は各課目終了時に
主任教官が同乗し操縦技術を採点、学科は定期的に各課目総合して行われた。
ある時、テスト終了後に各人の成績を発表したら、翌日1人の学生から意見が
出された。それによるとーーー「私は〇〇より点数が低くなっているが、どう
考えても私が彼に比べて劣っているとは思えない、もう一度採点を調べてくれ
ないでしょうか」というものであった。
早速黒田主任がその学生の答案を調べたところ、採点ミスがある事が分かり、
直ちに訂正してその旨を学生に伝えた。自分の考えが正しいと思う時は教官や
上司に対し率直に意見を言うことなど私らは嘗て経験したことがない。後日、
黒田主任は、この学生から何か教えられたような気がすると私に話した。
秋になって航法訓練が始まったが、困ったことに地図がない。街へ行って探せ
ば1枚や2枚はあるだろうが、教材として縮尺の適当なものがあるかどうかは
分からない。上部に頼んだらそれは難しいという返事だった。
私は幸い、今まであちこちに連絡や輸送飛行をして、50万部の1の航空地図
を持っていた。これを何とか教材に使えないかと考えた。そこで、子供の頃拡
大器を使って図形や絵を描いた事を思い出し、拡大器を作る事を考えた。
しかし、その形は覚えているが、どういう機構なのか分からなかった、色々考
えた結果、三角の応用であるのに気付き、修理廠に行き鉄板を貰ってきて帯状
に切り、これを鋲で留め、自在屈折として二組作り、組み合わせて2倍に描け
るように工夫して作り上げた。
その結果、50万分の1を、25万分の1の地図を描く事が出来た。勿論精度
は落ちるが、大きく見易くなり、地形認識には差し支えなく、教材として使え
るものであったので、人数分だけか描き学生に配った。黒田主任は喜んでくれ
た。
しかし、学生は地図の概念が無く、色分けで描くのに山岳・平地・川等を各人
が好みの色で描いたので(山を紫、川を黒色など)、地図だか絵模様なのか分か
らないものができて大笑いした。
航法は操縦とは又別な技術であり、可成り頭を使う技術だ。日本軍では航法の
目的を「定時・定点・定高度」と定義付けていた。解りやすくいえば定められ
た時刻に、定められた地点の上空に、定められた高度で到達する方法をいう。
その方法に種々の計測法があるが、これを身につけていないと、飛行場周辺を
飛ぶだけの飛行員というだけで、戦闘は勿論、人員・物資などを輸送する事な
どできない。
学生には初め、近距離地点を目標に選び、陸測法・推測法を練習、逐次距離を
伸ばして目標到達を覚えさせる。遠距離に飛行場のある所がないので、最終は
三角航法で終わる。ーーーこの航法が始まると、学生は俄に活気づいたという
か非常に熱心になってきた。
訊いてみると、今までは同じ所を上がったり降りたりの、操縦の良し悪しの評
価であったが、航法は初めての地上を飛び目的地を探す……いわば宝探しみた
いに目標を目指して飛ぶので、非常に興味が湧き又面白いという事だった。
私自身も昔そういう経験をした。ーーー新しい課目に移った時は嬉しいものだ
が、特に航法は、未知の所へ飛ぶ楽しさがあった。
訓練終了後に学生の部屋へ行くと、毎日地図を広げてガヤガヤ、ワイワイと話
し合っている。私が顔を出すと忽ち寄ってきて「教官、これはどういう訳か?
どう判断するのか?」等々質問攻めにあった。相互援助とか相互学習とかいう
言葉は、この軍隊ではよく使われる言葉だが、このような時にはこの作風は全
く大きな作用をして学生の進歩を助けていると感じた。
この時期のある日、私は‘何’訓練処長に呼ばれた。突然に何事かと訓練所へ
行くと、1冊の日本の「航空医学」と題した本を見せて、これを翻訳して衛生
隊の‘王’医生=医師)に渡し、彼女の研究を手伝ってくれ、と指示された。
私も航空医学に就いては大きな興味を持っていたし、自分も勉強したいし、将
来この分野の発展も不可欠のものと考えていたので、その場で快諾した。
それから毎日、業務終了後の余暇を本の翻訳に取り組んだ。途中適当な訳語が
解らない時は、学生に訊いて辞書代わりにした。学生達は「せいぜいご馳走が
食べられるように書いてくださいよ!」と注文して笑っていた。
1項目終わる毎に王医生に手渡した。王医生は、初めのうちは珍しさで喜んで
くれたが、段々専門的になってくると、浮かぬ顔して受け取るようになった。
彼女は一般的な医師で、航空に関しては全くの無知であったので、理解が難し
かったようだ。
何回か足を運ぶ内に「彼女、大丈夫かな?解るだろうか?」と何か期待外れの
ような印象を持った。ーーー案の定、2ヶ月ぐらい経った頃、彼女は「私には
理解できないし、あまり参考にならない……」と断りを言ってきた。
やっぱりそうか、口ほどにもない人だ……と内心王医生を軽蔑した。
「こういう事はヤッパリ党員でないと駄目だな〜」と感じたーーー。
= この稿つづく =
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└→ 感想や激励をよろしくお願いいたします。
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┃ ┃ 記事に対するお便りなどあれこれ。
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┌──────────「ナデシコさん」
「八路空軍従軍記」を読ませていただいています。
私は戦争を知らない世代です。こういう事を書いてくださる方がいてくださる
ことは、とてもありがたいと思います。できるだけたくさん書いていただきた
い気持ちです。感謝です。
「自分の考えが正しいと思う時は、教官や上司に対し率直に意見を言うことな
ど、私はかつて経験したことがない」
と書かれています。私はこの文章が頭から離れません。
大澄さんは、そういう指導(の仕方)をされて、教官や上司を恨んだりなさらな
かったのですか?
大澄さんの文章は、事実が淡々と書かれていて、それと感謝の言葉が殆どだと
思います。「軍国教育」に対して葛藤はなかったのですか?
ーーー私としては不思議でなりません。
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┌──────────「大澄国一さんから」
お読み頂き有り難うございます。ご質問にお答えします。
1.当時は軍国主義という言葉も意識もなく、生まれたときからそういう社会
であり、人々はそういう環境が日本だと思っていた。それに反する言動は即く
村八分となり、非国民と罵られた。
2.恨むことはあり得ないです。軍隊はそういうところなのです。「上官の命
(令)は、即ち朕=天皇)が命(令)と心得よ」という絶対支配の観念…わかりま
すか?それを承知で軍隊に徴兵され、或いは進んで志願したのですから。もし
恨みを口や態度で表せば直ぐ処罰となり苦痛の身となります。自身の保全のた
めに従う以外にないのです。
軍隊内では反抗的態度は皆無ですが、隠密の反抗行為は行われていました。
戦地の第一線で兵士が上官に漏らした言葉……「隊長‥弾は敵のほうから来る
とは限りませんよ!」ーーーこの意味わかりますか?
航空隊に於いてはこれ程ではないが、階級よりも操縦技術優先という風潮はあ
りました。因みに戦争末期、私は特攻隊に編成されるのを他の下士官二人と拒
否しました。けど今無事に暮らしています。
戦後生まれの方に旧日本軍を理解してもらうのは難しいです。
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