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八路空軍従軍記 ―――――――― by 大澄国一さん
☆ 1948年、訓練模様(1) ――――――――――― 2007/03/30 私は104号機を機械員の鈴木さんと受け持つ事になった。飛行学生は4人で 去年と同じである。種々の情況から乙班は飛行課目が全部終わっていないので 継続する事になった。――――学生も慣れて、操縦の基本も理解できていたの で、訓練は順調に始まった。離着陸を復習し、できるだけ多く単独で飛ばせて 個人個人の自信を深めさせた。
1948年 飛行乙班大澄国一教学組 向左起:牟敦康・呉玉潤・大澄国一・馬周全 1948年 飛行乙班一部学生 (後列右から2人目が大澄国一)
しかし、途中でガソリンの入手が難しくなり、急遽修理廠で気化器を改造して アルコールを使用する事になった。これは、降下中スロットルを閉め過ぎると シリンダー温度が下がり過ぎ、エンヂンが屡々[しばしば]停止した。 同時に機材部品の不足をきたし、尾輪が破損しても取り替えができず、他機種 のものを代用したり、機体の補修も鋲が無くてネジ止めにしたり、甚だしい時 はジュラルミンの代わりに補強枠を作って修理した。こんな事で大丈夫かな? ……と心配するより、この方法しかないんだと諦め気分であった。 エンジンも、新品と取り替える事はできぬので、何回も分解手入れを繰り返す だけだった。従って性能は日本軍時代より落ちていた。飛行速度は元来200 〜210kmは出ていたのが、180〜190kmぐらいに、エンヂン回転も 2000rpmあったのが1800〜1900rpmに下がっていた。 車輪も、止むなく他機種の高圧タイヤを使用したので、地上滑走のクッション が悪く、大きな衝撃を受けるため胃腸が崩れ落ちるような感じで、訓練が終わ ると腹や腰が痛くなった時もあった。 初期では落下傘もなく、ベルトも手製の麻縄のようなものを使ったが、これは 危険であるので、直ぐに布製ではあるが幅広い従来の物を模倣した丈夫な物が 作られた。 機体も、去年の乙班の時は良かったが、訓練班が増えたため機体が足らず、3 中隊の我々はみな去年修理廠の生産競争で作られたものであった。操縦席の前 面は何とか従来の樹脂ガラスであったが、側面は一部普通ガラスの厚めのもの を填めてあった。 通常は前席天蓋は開けて飛ぶので支障はないが、後部の教官席は酷いもので、 上の部分はジュラルミンを張り視界はゼロ、側面はガラス節約でアルミ板を張 り、30センチ程の窓を作りそこにガラスが嵌めてある。 プロペラは代用がないので、曲がったものをハンマーで叩いて修正するという やり方であった。先の章で書いたように、全て寄せ集め、間に合わせである。 このようなポンコツ同然の飛行機ではあったが、九九高練は強かった。その後 何年も使ったが訓練に耐え飛んだ……世界にもまれな記録だと思う。 また、日々の訓練を保証するために材料廠の資材集め、機械廠の代用品の製作 等、私達の知らないところで多くの人が苦労していた事も忘れてはならない。 笑うに笑えない、泣くに泣けない数多くの失敗があり、上部との意見衝突のト ラブルも多々あったと後日聞かされた。当時の中国軍幹部から常に出る言葉は ……「想辨法(色々考えよう)」であった。 以上の状況から、機体に関してはむしろ日本教官のほうに不安があったが、学 生のほうは何の危惧も抱かず、素直に言われたとおり訓練に励んでいた。いや 知ってはいても我々を信頼するしか仕方がなかったのではないか?・・・・ 嘗て敵であった日本の教官、日本人の整備、或いは技術者が修理した飛行機… …これで素直に飛行練習が出来るだろうか?……従来の日本人感覚では少なく とも不安と不信を持つと思う。ここに何か大きな違いがあるように思う。 我々を遙かに超えた政治的考え方か?……とにかくこの1948年は最も困難 複雑な状況下にあったので、今でも一番印象の深い時期であった。又、革命戦 争も大きな転換期であったので、我々に最も大きな影響を与えた時期でもあっ た。 この年の初め、東北民主聯軍は東北人民解放軍と改称した。同時に解放軍航空 学校となった。 訓練も順調に進んでいたある日、私は日頃考えていた事を実行した。 それは、先にも述べたように、機体は古く整備は難しくなる、中国の機械学生 も正規の教育を受けてきたのではなく、いわば見習いみたいなものだ。日本人 機械員のやる事を一緒に手伝って覚えていく。 従って、より正確に細かい説明がしたくても言葉が上手く話せないので分から ない。又、古い機体をより良く維持して飛ばせるためには、飛行員と機械員の 意思疎通が保たれていなければならないと考えていた。 幸い私は中国語が大体話せる。そこでこの日訓練が終わって機体を掩体壕に隠 して燃料を抜き取る作業を終えた時、飛行学生の組長に提案した。「皆で会議 をしたらどうか」と、その内容を話した。彼は同意してくれた。 そして日本人機械員には私から、飛行・機械学生には彼から、それぞれの言葉 で話し合った。全員直ちに賛成してくれた。それなら明日から始めようと決め た。私はこれを三合会と名付けた。即ち学生・機械・教官の三者会議とでもい う意味で、今でいうミーティングというものだ。 翌日から毎日訓練終了後翼の下で、その日に感じた事や意見等、小さな事だが 具体的に提出され、討論し解決方法を考え出した。中には上部へ提出するよう な問題も出てきた。 結果は有効であった。機械員と飛行学生の相互援助というか三者一体で飛行機 は順調に飛んだ。こんな事は過去の日本軍では考えられない事だ。やがてこの 事は中国側の党委員会にも報告され、高い評価を得たと後で学生が知らせてく れた。そしてこれを全中隊に広め実行するよう指示が出された。 しかし、何故か技工科は、これを三員会と名を変えて、他の飛行班の者が創設 したかのように機関誌上に発表した。「俺は進歩分子じゃないからなぁ……」 と自分に言い聞かせた。                         = この稿つづく =
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