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八路空軍従軍記 ―――――――― by 大澄国一さん
☆ 冬篭り、そして1948年 ――――――――――― 2007/03/23 11月に入ると気温が急に下がりよく雪が降った。ーーーエンヂンも始動困難 となり、毎日ドラム缶に炭火を起こしエンヂンの下から暖めた。オイルも前日 の訓練終了時に抜いておき、朝、火で暖めてから給油した。温められたオイル が下の炭火に引火して燃えることもあった。危ないけれどこれしか方法がない のであった。 本来、夏と冬でオイルは交換するべきだが、オイルも不足している時なのでそ れはできなかった。時には、降下中にエンヂン温度が下がり過ぎて停止するこ とも屡々[しばしば]起きた。 訓練はこれ以上は無理だと思われていた或る日、悲しい事故が起きた。 その朝は雪が多く積もっていた。山本教官担当の高練が、掩体壕の駐機場から 滑走路に出ようとして草地を動き出したところ、車輪が雪に埋まって動かなく なってしまった。 そこで教官が、座席から降りて車輪を阻む雪を除けようと両手で掘っていると 見かねた学生が教官の作業を手伝おうと降りてきて、反対側の車輪の除雪を始 めた途端、バサッ!という音とともにその学生は雪の上に倒れる。鮮血が頭か ら吹き出し辺りは真っ赤になった。 その音で教官は学生が降りていたのに気付き、駆け寄ったが学生は既に息絶え ていた。回っていたプロペラに叩かれ、頭を割られての即死であった。学生は 張訓益といい、良い学生を死なせたと山本教官は大変悔やんでいた。 二日後、飛行大隊全体の葬儀を行う。同僚の学生らは泣いて彼の死を惜しみ、 彼の遺志を継ぐことを誓っていた。その友情にホロリとさせられ涙が出た。 その後も雪は降り続いたので、訓練は難しくなり中止となった。機体は分散し て、壊された掩体壕の中に隠して偽装した。もちろんガソリンやオイルは抜き 取った。 牡丹江の訓練は、夏季は朝6時から11までには終わらせていた。敵機の来襲 を避けるためであった。国民党軍機は、今までの経験では午後が多かったから 午前中に訓練を終わらせなければならない。それと、冬季は寒さでできないと いう大きな制約もあった。 去年の冬は毎日ブラブラしているだけだったが、今年は違っていた。冬の間に 教官は来年の訓練に備えての教材作りや、教官技術学習、機務隊は飛行機の点 検整備、、なにしろ古い機体であるから、細心の整備が必要であった。 また、今までパラシュートは無かったが、この冬から掻き集めた日本製のパラ シュートの補修が始まった。 これら以外の大きな変化は、牡丹江に残留している日本人との交流が始まった ことだ。牡丹江鉄路局(鉄道)では、多くの日本人が鉄道の修復や運行に携わっ ていた。他の都市でもこのような残留日本人はかなりいたようだった。国共内 戦のため帰国できずに取り残された、技術のある鉄道・病院関係が多かった。 これ等の人々には航空学校の日本人は良く知られていた。そしてお互い交流し ようということで、娯楽のない時なので演芸会をやろうということになった。 会場も、劇の道具も無かったが、中国側が援助してくれて、年の明けた正月に 映画館を貸り切って上演することができた。演技は立派とはいえなかったが、 なによりも、多くの日本人が知り合いになれたのが良かったと思う。 正月気分がなくなって2月に入った途端、またもや身体を弱め、3度目の入院 をした。寒さに弱いのか、毎年この時期になると入院する。大した事はないが 微熱が続くのである。幸い訓練の無い時期なのでユックリ休める。今度は建物 も設備も良くなった衛生隊であった。 この時期、老練な日本人医師が配属されていたが、決め手となる良い薬や治療 法がないので、やっぱり休養するだけであった。 そしてこの頃から、精神的な余裕が出てきたのか、看護婦との恋愛沙汰や結婚 話もチラホラ耳にした。機務隊や修理廠の一部の人は、市内の日本人会に出入 りして花嫁候補を探してくるようだった。ーーー歳はとっていく、帰国は棚上 げでいつのことか分からない、精神的にはここに定着する傾向の兆しか? 当時私にも意中の人とか、結婚話がないわけではなかったが、未だ若いという 気持もあり、それに日本に帰る時は単身がよいと決めていたので、そういう事 には関わらないようにしていた。 ーーー1948年4月、訓練再開。 この年は乙班が飛行3中隊となり、黒田さんが主任になって引き続き海浪飛行 場で訓練。新たに4中隊(第2期生)が編成されて、糸川さんが主任で千振飛行 場で訓練開始。4中隊の半分は機械学生からの編入者であった。 また、教官班の学生の大部分は飛行隊の指導幹部となり、(隊長職)飛行員とし て残ったのは僅かであった。(勿論年齢的な原因もあったが)……これらの人は 甲班学生と共に双発・戦闘と分かれ、それぞれ湯原・太平鎮飛行場で、戦闘は 林さん、双発は長谷川さんが主任で訓練を始めた。双発は同時に領航班の教育 も平行して実施した。 私は鵜飼・鮑・勝瑞・内田・(新任)教官と共に黒田主任の下に配属された。 その他に陸非光・趙鵬さんら元満軍出身者が飛行副官として入ってきた。黒田 主任は糸川主任より中国語が下手だったので、趙鵬さんが通訳に当たった。彼 は非常に慣れた日本語を話した。語調が日本人そっくりだったので彼と話して みた。 彼は若い時日本に留学して、名古屋飛行学校で練習したとか……偶然私の故郷 の守山だ。更に聞くとこれ又ビックリ、私の家の近くに下宿していたとか…… 二人は急に親しさを覚え、その後も良く彼と話しをした。ーーーさらに長谷川 さんとは東京のアジア飛行学校の同期だとか、珍しい人と会えたものだ。 去年と同じ三角の建物が宿舎となったが、今年は地下の浴場が修復されて入浴 ができるようになっていたのはありがたかった。去年は1週1回、街の銭湯に 通っていたのだ。 訓練は宿舎から海浪費飛行場までバスで通った。このバスは、壊れたまま路上 に放置してあったのを、運転手の白井さんが運んできて、あちこちで部品を探 してきて苦労して直したものだそうだ。王という中国人に運転を教えながら走 らせた。 この年の訓練から機械(整備)学生も配属されて、1機に1人の日本人機械員= 機長といった)と3人の中国人学生がついた。そして機体にも101・102 ・103というふうに番号が付けられて見易くなった。 機体マークも「☆」の中に「中」という文字だったのが「☆」の中に「八一」 と変わった。
機体マークの変遷
                        = この稿つづく =
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