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八路空軍従軍記 ―――――――― by 大澄国一さん
☆ 千振飛行場へ移動、訓練開始 ―――――――――― 2007/03/02 1947年、雪が解け花が咲き始めた4月になって、民主聯軍の軍区司令部よ り、劉亜楼参謀長が東安に視察に来て、航校全員を集め講話をした。その中で 「我々は空軍も機甲部隊も大砲も持たない軍隊であるが、アメリカ式に武装さ れた国民党軍には近い日必ず勝利する。なぜなら我々は人民の軍隊であり、兵 器を使うのは兵士であり、如何に最新兵器があろうとも最後の勝利は兵士が勝 ち取る」と演説した。 私は凄い話しだな、日本軍ではこんな事は聞いたことがないと感嘆した。 全員はこれに励まされ、4月、教官班・飛行甲班・飛行乙班と編成されて、そ れぞれ、五道溝・太平鎮・湯源・千振[チブリ]=現在の樺南市)の各飛行場へ と分れて訓練を始めることになった。私は飛行乙班に配属され、4月下旬千振 飛行場へ移動した。
初めての正規の訓練班、しかも一から始めるのだから意欲は盛んであった。 木暮・糸川・鮑・山本・鵜飼・勝瑞、そして私が飛行教官として行く。他に副 官として西谷君がいた。そして通訳が3人。 千振は全く田舎の村であった。その中の少し大きい建物(大豆油工場)が宿舎と なった。学生は全部連級(中隊長職)幹部であった。この千振飛行場は破壊され ておらず、滑走路は全部使用できたが、付属の建物は破壊されていたのを修理 したばかりだった。 飛行訓練といっても、設備がないから地上における準備教育は行わず、いきな り飛行機に乗せた。学生の質は、幹部の中から選んだだけあって、政治思想的 にはしっかりしていて人格は優れているが、知識水準に差があり過ぎた。高い 者で中学卒、低い者で小学卒、文字の読み書きに不自由しない程度であった。 だから、飛行理論はとても難解であり学科をしても一度では理解しなかった。 それで先ず飛ぶ事……その体験を元に学生お互いに討論して理解を進める…… という方法をとるしかなかった。 それにしても一番困ったのは言葉である。航空の事を全く知らない通訳をで、 しかも3人しかいない。飛行小組5組に対し3人では足らない。飛行後、学生 の講評をするのに隣の組が終わるのを待っていなければならないので、訓練時 間を相当これに費やしてしまう。 飛行中は全く無言、着陸後も何も言えない。だから組の全員に飛行後の講評を する時は既にかなりの時間が経ってからになり、こちらも忘れる事もあり、学 生も記憶が薄くなっており、講評の効果がかなり落ちる。 私の組の李憲剛は、最年少で、嘗て通化まで機材を取りに行った時の引率者で 顔も覚えており親しかったが、知識水準が一番低かった。初めての慣熟飛行で 目を回し、降りてきた時は顔色が真っ青になっていた。 後で聞いたところでは、飛行機を見るのも初めてであり、機械的な知識も全く なかったとか。離陸後にどう飛んだのかも全く覚えていないという事だった。 ーーー当時の八路軍兵士は殆どが貧農出身であった。 この点は、多かれ少なかれ他の学生にも当てはまると思われた。同時に我々の ほうにも、いい加減な浮ついた考えがあり、丁寧に教えるという態度もなかっ たので、訓練成果は遅々として進まなかった。 生産運動……この当時は、国内戦の困難な情況から食糧難であった。部隊は何 処でも自給自足を強いられていた。我々の航校も、訓練の傍ら飛行場端の草地 を耕して生産労働もした。なので訓練過程は尚更進まなかった。 それともう一つは、教官自身が九九高練の後席操縦に十分熟練していなかった ので、教官自身が早くそれに慣れる必要があり、最初の離着陸操作は全て教官 が行い、学生は手足の動きでその操作を感覚的に知る程度で、学生自身に操作 させるのはかなり経ってからだったと思う。 もちろん通訳の関係もあるが、飛行後の講評も誰の何処が悪いという指摘では なく、「上昇はこうするんだ」という説明的になっていた。 あまり進歩が遅いので、私は飛行隊長に「淘汰」する事を提言した。 「量をとるか、質をとるか」の私の質問に、隊長は通訳を通じ「質、量共に欲 しい…」と返答され私は黙ってしまった。今から思えばそれは当然の事であり その時の自分が可笑しく思われた。 又、通訳も時にとんでもない訳し方をして学生がキョトンとしたこともある。 たとえば「操縦桿」を操縦管(パイプ)と訳してしまった。笑う笑えない事が何 度も起きた。 そんな時、東安の校部から劉善本の一行が見学に来た。 劉善本とは、1946年初めに国民党が八路軍に対し攻撃を始めた事を、内戦 に広がると反対して国民党空軍からB−24爆撃機で同志数人と延安に義挙し てきた空軍大尉である。 私達が東安にいた頃に、はるばる延安からこの学校に来たもので、当時私達日 本人教官と会見して、戦後の東京の話をしてくれた事がある。彼等はアメリカ 仕込みのパイロットであるので、我々の日本式訓練を見たかったのだと思う。 訓練前段終了後の休憩時に、私ら教官1人1人と握手を交わしたが、訓練につ いての質問は一つもなかった。                   = この稿つづく:次の記事へ =
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