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八路空軍従軍記 ―――――――― by 大澄国一さん
☆ 東安1947年冬休み(2) ―――――――――― 2007/02/23 冬の寒さが終わりになる頃、暖かい日に、宿舎の下のほうの湿地に行き氷の溶 け始めた小川に魚を取りに行った。西谷・鮑[ポウ=畑中]さんとはこういう遊 びにはよく気が合った。小川の氷を叩き割って穴を開け、金網を穴の中に突っ 込んで掬い上げると、面白いほど魚が捕れた。小さいバケツにいっぱい捕った こともある。 又或る日、林さんが猟銃で1頭のノロを撃って来た。それを私と西谷君と二人 で、切り出しナイフを使い皮を剥ぎ、部屋中血だらけにして肉をとり、それを 洗面器で煮て皆に食べさせた。 それだけならよかったが、残った血だらけのノロの頭骸骨を、家族隊の入り口 にぶら下げた。そしたら大騒ぎとなり、家族隊から物凄く怒られた。それでも 懲りずに、数日後、今度は赤犬を1匹捕まえてきて、又西谷君とその犬を煉瓦 で叩き殺し肉をとった事がある。 その頃の西谷君は酒が強く「白酒」を飲みながら犬肉を食べた。兎に角彼と私 は目立った蛮風者であったらしい。けれど私は蛮風だけでなくいい事もした。 或る日、材料廠にいる枇杷田君からドラム缶一つを貰い、宿舎の端の広場(私 らの宿舎は元拘置所であったらしく囚人用の広場があった)の片隅にレンガを 積んで野天風呂を作った。当時はなかなか風呂に入れなかったのでこれは皆に 喜ばれた。但し女の人は駄目だった。 こんなのんびりした或る日、突然国民党のP−51戦闘機が飛来した。かなり のスピードで宿舎の上を飛び過ぎたと思ったら、飛行場目がけてダ…ダ…ダ… と機銃をぶっ放した。 びっくりした私達はただウロウロするだけで何も出来なかった。二転三転して 攻撃しているP−51を憎らしく見ているだけだった。敵機は直ぐ引き返して 行った。後で聞いたら、九九高練が少し被害を受けただけだったという。 これは、事前にこういう事を予測して、林さんの発案でニセの飛行機を作って 置いたので、敵は計略にはまったのだった。さすが元部隊長だけはあると感心 した。 これより先、2月はじめ私は再び胸が悪くなり入院した。大した病状ではない が大事をとって入院させてくれた。入院といっても当時の東安で良い治療はで きない。ましてその頃は米がなくなり、私達飛行員も「包米(とうもろこし)」 や「小米(粟)」を食べていた頃だったから……いわば静養であった。 だから自覚して、寒い中でも外の散歩と睡眠は規則正しく行った。 ここでも衛生隊の木下・左近・高橋さん達にお世話になった。彼女らに仕事が ない時はよく私の部屋に遊びに来て、互いに冗談を飛ばし笑い合った。時には 私が笑い話を作って読ませたりして、楽しい入院生活であった。 しかし、同室の勝尾君が目の前で死んだ時はショックだった。人の死の哀れさ をつくづく感じた。ーーー1ヶ月足らずの入院で飛行隊に戻った。 この頃、機務隊・修理廠では「生産競争」という運動が展開されていた。 春からの訓練開始に備えて、飛行機の不足を補うため機材を集め、新しく機体 を組み立てなければならない。その為には通常の作業進行では間に合わないの で、一方では機材を探し集め、一方では無い物は代用してでも、或いは継ぎ足 してでも作り、1機でも多くの飛べる機体が必要であった。 これより先、私らとは別に、東北各地に派遣され旧日本軍の航空機材を集めて 廻っていた人々もおった。機体を分解して馬車に乗せ、何日も掛かって運んだ り、凡そ航空と名の付く物は車輪であれ、油であれ、何でも集めた。中には農 民の使っている物を買い上げた物もあった。 出来上がった機体は、風防の樹脂ガラスが無いので、普通の窓ガラスを切って ハメ込み、必要以外の箇所はジェラルミン板で覆ってしまった。だから後部の 教官席は暗くなり、青色がかったガラスは歪んでいて、外の地面が歪んで見え た。勿論、左右両側だけ見ることができるだけで、後ろや上は見えない。 また、機体が凄い。右と左の翼は、別々の機体から外して取り付けたものなの で色が違うし、穴の空いたところはジェラルミンを切って鋲で貼り付けた。方 向舵、昇降舵は、麻布がないから木綿布を張ってペンキを塗ったもので、弛ん でブヨブヨしている。 いうならば、自動車を、廃車事故車の中から使えるエンヂン・ボデー・ハンド ル・車輪・座席などを寄せ集めて組み合わせたようなシロモノだった。けれど 修理廠の人達はよく働いて見事に完成させた。 私はこの運動中に、個人で修理廠へ見学に行った。競争の実態が知りたかった からだ。修理廠の人は歓迎してくれた。よく見に来てくれたという表情だ。 皆は熱心に取り組んでいた。それは革命的精神かどうかは判らないが「作って やるぜ!」という意欲は十分窺えた。又彼らも、飛行員として見に来た(私だ けらしい)私に好感を持ったらしい。 そして10機近い九九高練を組み立てた。その完成機の試験飛行が行われた。 林さんと私と他に2、3人がテストに加わった。最初林さんが飛び、そして私 が飛んだ。絶好の天気であった。綿布を張ったブワブワの昇降舵、方向舵が気 になったが、操舵は軽く上出来だった。 私は私なりのテストを繰り返していた。(当時、テストといっても基準はなく 試験飛行実施要領とか、テスト項目というものは定められていなかった)飛行 員が自分なりに飛んでみてよければOKであった。 私の試験機は順調であったのでもう降りようかと思った時、フト上を見たら後 上方から別の高練が私目がけて突っ込んでくる!? 「林さんだな、、やる気かな?ヨシ!」 と挑戦を受けてクルリと機首を返して挑んだ。……が到底林さんの相手になれ る私ではない……しかし形だけでも格闘の真似ができたのは面白かった。 終わって着陸したら、中国幹部や修理廠の人が拍手をしてくれた。格闘の事で はなく結果良好を喜んでくれたのだ。けれどもこの格闘は後で批判をくった。 曰く「試験飛行で、しかも初めての飛行に格闘とは常軌を逸している」 ‥‥‥なる程その通りだと思い素直に反省した。 私の後、山本さんが試験飛行後の着陸に失敗して脚を折損した。彼は大きく気 を落としていた。普通では飛行勤務以外の者には目に触れない自分の技量が、 こういう事故で見ていた人々から評価されてしまうのだ。 機材面での訓練準備が進められる一方、我々飛行隊のほうも訓練準備が始まっ ていた。飛行小組の編成、学生、教官の配置等々、毎日が仕事らしくなってき て、今まで部屋で楽しいリズムを聴かしてくれた勝瑞、宮田君のギターの音が 聞こえなくなった。                   = この稿つづく:次の記事へ = ┌―――――――――――――――――――――――――――――――――┘ └→ 感想や激励をよろしくお願いいたします。
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