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八路空軍従軍記 ―――――――― by 大澄国一さん
☆ 東安1947年冬休み(1) ―――――――――― 2007/02/16 ――――1947年である。 この正月に航空学校初めての新年晩会が催された。中国人による歌、踊り、劇 等が上演された。なかなか見栄えのある立派なものだった。ーーー八路軍は山 の中の軍隊で、文化的なものは駄目だと決めつけていた私達を吃驚させた。日 本のそれと比べて派手さや綺麗さはないが、内容は十分に皆を楽しませるもの だった。 これを機に、日本人も何かやろうじゃないかという気運が起こり、2月の春節 (旧正月)の時だったと思うが日本人主催の演芸晩会が開かれることになった。 各単位(部署)の日本人毎に演出することになり、私達飛行隊は私が指揮を執り 「勝利の日まで」の替え歌を合唱することになった。当日の司会は私がした。 司会といっても、何処の単位が何をやるのか全然判らない。勿論プログラムも 無い、只演目の順番を決めて紹介するだけであったが‥‥‥。 私は、初めて皆の前に立つという事で、林飛(姫野)さんから皮のジャンバーと マフラーを借りて粋な格好で舞台に上がった。 この演芸会で驚いたのは、被服廠の女の人が裸で『ジャワのマンゴ売り』を踊 りだした事だ。開幕直後政治委員の方から「待った」が掛かり、「軍紀上宜し くない」との理由で中止された。私もドキッとしたが、しかし女の人もよくま あ冬の寒い時に裸になったもんだと感心(?)した。 それから暫くして、2月の終わりだったか、一団の学生が配属されてきた。 全員が真っ黒の軍服を着ているので、東北以外の所から来たのだろうと思って いたら案の定、関内=山海関以西の地方)の新四軍からの幹部学生で、領航班 (航法)要員と聞いた。彼らの規律は立派で、集団生活の見事さは今まで見た事 がなかった。 ┌─────────「新四軍(しんしぐん):ウィキペディア(Wikipedia)」 共産党軍(中国工農紅軍)が、中国国民党軍の包囲攻撃にあい瑞金根拠地を放棄 して1934年に長征に出るが、一部部隊が根拠地維持のために残留した。 1936年に西安事変が起こり、第二次国共合作が成立する。これを受けて、 1937年に華北地区で八路軍が編成されるが、江西省・福建省・広東省・湖 南省・湖北省・河南省・浙江省・安徽省に展開していた紅軍及び遊撃部隊は新 四軍に編入された。 正式名称は国民革命軍新編第四軍、別名陸軍新編第四軍。主力は中国共産党軍 であったが、抗日統一戦線に向けた国民軍である。 └────────── この頃又一人日本人が入って来た。 「木暮」と名乗り、敗戦前に八路軍の捕虜となり「解放同盟」の工作員だった とか、異色者と感じた。日本軍人でこういう者もいたのかと初めて知った。 その後又一人……元陸軍飛行兵と称する者が来た。陸士出身とか、養成所出身 とか、曖昧デタラメなインチキ者であった。 それからもう一人、これは小学5年ぐらいの可愛い男の子「早坂」といった。 私と鵜飼君とが同室であったが、そこへ一緒に寝泊まりして私達の当番兵とい うか、いわゆる勤務員として働く事になった。未だ小さいのに可哀想な気がし た。 来たばかりの時は、体中に「疥癬(カイセン)」の発疹があり元気が無かった。 そこで衛生隊に通わせて治療させた。間もなく「疥癬」は治り、元気になって 非常によく働いた。真冬の極寒にもめげずに私達より早く起きストーブを炊い て湯を沸かし、掃除から小間使いまで感心するほど働いた。私も時々小遣いや 菓子などをやったりした。 彼はその後も…私が千振に移動する時も、牡丹江へ移動した時も共に居たが、 その後は本部付きとなり、あまり会う事はなかった。余りにも少年であったの で、私は将来を考え彼の本籍や親族などを記録しておいたが、その後の度々の 移動で紛失してしまった――――。 彼も、その後我々の航校を離れ他部隊勤務となり、全国解放当時は錦州の部隊 で自動車運転手をしていると聞いたが、帰国するまで遂に会えなかった。 ┌-------- 註:東安での宿舎は校部(学校本部)と飛行隊、訓練所は一緒で、元公安局の跡 らしく、建物の奥に留置場みたいなものがあった。修理敞は鉄道機関車庫と隣 の倉庫に入った。 ………現在、この校部跡地に航空学校創立記念館が建っていると聞いた。…… └-------- この冬休みの間に、私達の中で初めて政治学習が行われた。一応の人員整理が 終ったので後固めという事なのか?……延安から来たという木暮さんが1冊の 本を持ってきて私に見せた。それは延安解放同盟の「梅田」という人が著作し たガリ版刷りの「政治学」という教本であった。 1冊しかないから誰かがそれを読んで皆が聞く、その後討論会みたいに皆が意 見交換と感想を発表する。私はあまり気乗りしなかったが、ヘタしたら又何処 かへ転属させられたらかなわん……という考えから黙って従った。 政治委員の杉本さんもよく顔を出すようになった。政治学習を納得した訳では ないが、私は「めずらし食い」なので興味をそそり、その政治学の本を上下2 冊借りて毎晩毎晩豆油を灯した(電灯はなかった)光の下で書き写した。 ┌-------- 註:豆油は大豆を蒸してから絞り出した大豆油のこと。旧満州では重要な輸出 品。中国人の食用油でもありました。現在は胡麻油が主流だそうです、生活が 向上したのでしよう。 └-------- 同室の鵜飼君がびっくりしていたようだ。写し終わるのに何日間もかかって、 とうとう目がおかしくなった。電灯もなく、暖炉も余り効かぬ部屋でよく書い たもんだと終わってから自分ながら感心した。 この頃に、航校の中の「技工科」を「日工科」と改称し、杉本さんが科長、そ の下に高木・西田・川口・村上・浅野・小野寺という政治幹事がおり、私達日 本人に対する政治思想教育の本拠となった。彼らは後で各部署毎に配属され、 政治指導を行い民主連盟の基盤を作り上げていった。 ┌-------- 「技工科」は「技術員工作科」の略称で、対日本人の政治工作が主眼であった ようです。「日工科」は「日本人工作科」の略称です。 └-------- それと同時に革命とか同志とかいう言葉か流行しだした。そして民主連盟とい う組織の事も宣伝され始めた。殊に飛行教官の間では、木暮さんがよくこの話 を皆の中に持ち出した。そして私らが昔の歌を歌うと、軍国主義の残りとか、 ブルジヨア的だとか耳慣れぬ政治用語が日常用語化し、過去の一切を否定する ような風潮が昂まって来た。 ┌-------- 「民主連盟」は元の名称を「解放連盟」といい、日中戦争中に八路軍が日本軍 兵士の捕虜または投降者に対して採った捕虜政策で、組織的に反戦教育を行い 前線で日本軍に対し投降を呼びかけるなどした対敵工作の一つで、当時は反戦 同盟と称した。その指導者は岡野進と名乗っていた、後の参議院議員野坂参三 氏である。 杉本氏は日本降伏後、根拠地の延安から東北地方に派遣され、通化の2・3暴 動事件以後、対日本人工作責任者として航空学校に来た。 「2・3暴動事件」―→ http://chinachips.fc2web.com/repo4/049015.html └-------- 特に目立ったのは高木さんで、その急先鋒であった、彼と話しをすると、全て が否定批判され、迂闊に話しもできなくなった。                   = この稿つづく:次の記事へ = ┌―――――――――――――――――――――――――――――――――┘ └→ 感想や激励をよろしくお願いいたします。
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