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八路空軍従軍記 ―――――――― by 大澄国一さん
| ☆ さらに東安へ後退移動 ―――――――――――― 2007/02/09
訓練は10月まで続いた、我々の仕事や生活は段々落ち着いたものになってい
き、只生き残るための手段としての技術労働だったものが、中国人と交わる内
に中国の政治というものが意識、無意識の中に私達の生活に入って来た。
自分を取り巻く、いや、東北中国にいる日本人全部を取り巻く周囲は全て「革
命」「革命」の言葉と文字でいっぱいである。いわゆる中国革命の中に入り込
んでしまったのである。
1946年10月、 蒋介石国民党軍が八路軍地区に対して始めた侵攻が中国
内戦となり、それが拡大されて国民党軍は東北の奥へ奥へと侵攻し、ハルビン
まで迫って来た。
この様な情勢の下では、牡丹江で飛行訓練を続ける事は出来ないので、その冬
航空学校は「東安」へ移動した。牡丹江より更に東の奥地である。
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註:東安=現在は「密山市」となっています。
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東安移駐前に中国側の高級幹部と話した………
「奥へ奥へと逃げるばかりですね」
「我が軍は不利な戦いはしない。敵が強く味方の力が弱い時は隠れるか退却す
るのだ。味方に力がついて、敵の弱いところが出れば攻撃に出る」
「成る程、日本軍とは違うね。日本軍では『退却は恥なり、大和魂で最後の一
兵まで戦え』と叱咤教育された」
幹部は笑って答えた。「これが遊撃戦の本領だ」
「でも今は遊撃戦の時期ではないでしょう?」
「もう暫く我慢しなさい、必ず大進撃して勝つから」
私は半信半疑で、そうかなぁ‥‥と、半分ぐらい納得して更に日本から遠ざか
る東安へと飛び立ったーーー。
東安移動に際し、今まで訓練処で一緒に生活していた者が別れ別れになってし
まった。航空総隊が航空学校となったので、飛行員(操縦者飛行員と称した)・
民航隊・教導隊の区別が無くなり、飛行教官として林・黒田・糸川・平信・加
藤・山本・石森・井田・原・鵜飼・と私の11人になった。
ーーー長谷川・宮田さんらは双発機訓練の準備として別な仕事に就いた。
……東安移動後、飛行班・機務隊(整備)の他に、修理敞・機械廠・材料廠・衛
生隊が設置された。一般にいう航空学校とは全く違う構成であった。……移動
後はまだ天候も良かったので壊れていない草地を使って離着陸の訓練をした。
この飛行場は破壊が酷く、滑走路は穴だらけ、僅かに残った西側と北側の草地
を使う。しかも可成りの斜面で、学生の単独飛行は難しかった。
2週間ほど訓練を行ったが、飛行場までの道が悪く、トラックがよく沼地には
まりこんだ、付近は一面の湿地帯である。そんな時、誰が見付けたか知らない
が、途中の草地に日本軍の戦車が1台放置してあった。
これを動けるようにしようという事で、戦車経験のある八尋さんが乗り込んだ
がなかなかエンヂンが掛からない。私も物珍しさが手伝って中に入りクランク
回しを手伝った。何回かの後やっとエンヂンが始動した。
取り敢えず試運転だとその辺を走り回った。喧[かまびす]しいけれど乗ってい
ると面白い。「どれぐらい力があるか、あの樹に体当たりしよう!」といって
ドーンとぶつけては樹を薙ぎ倒して喝采していた。
翌日から学生、教官がこの戦車に乗って飛行場に通った。しかしその戦車も3
日目には動かなくなった。
或日大雪が降った。訓練が出来ないので飛行隊全員で飛行場に行き雪踏みを行
う。どうやら着陸出来るようになったら翌日又雪が降った。結局訓練は中止に
なり、機体を掩体壕の中に隠し冬休みに入った。
この冬休みの間に帰国問題が持ち上がり、あちこちで話題、というより議論の
的になった。……航空隊にいたら日本に帰してくれない、他の地区ではもう帰
国が始まっている……という噂が流れた。
これが表面化し、航空学校の日本人の中に、特に機務隊・修理廠で多くの者が
動揺した。中には公然と日本に帰せと言い出す者も出て来たらしい。中国側指
導者も問題視した。
結局は人員整理の形に追いやられた。噂によれば機務隊・修理廠の一部の者は
トラックに乗せられて何処かへ連れて行かれたとか……それらの経緯はよく知
らないが、我々飛行隊の中からも、山口・谷島・田畑・和田・田原・畠山・枇
杷田さん達は姿を消した。何処へ転属したかも判らない。俗に「精簡運動」と
いわれていた。
ーーー訓練がなくなり、又ブラブラの毎日が続いた。
┌─────────「航空人材の東安集結:航空隊参加者の思い出集より」
機材の収集と共に、航空要員も各地から続々と集まってきた。牡丹江までの時
期では、四練と航空廠の人達が主体であったが、東安に来てからは、各地、各
都市の人民政府や軍の呼びかけに応えて、各種各様の専門分野の日本人技術者
が集まってきて、航空事業の人材の巾と厚みが一挙にふくれあがった。
ハルピン気象台の要職におられた内田英俊さん。満飛の高級技師松野さんが校
部の建築施行の監督。後にP−51の複座改造に尽力された機体技師森さん。
鋳物の職人、旋盤工。エンヂン修理の専門家等々、実に多彩な陣容が形成され
始めた。
東安時期までに航空学校創設に参加した人々の、元所属していた組織で分かっ
ているものを挙げてみると、八路軍が満州の広い範囲であらゆるツテを使って
技術者を集めていたのかが良く分かる。
第4錬成飛行隊 航空士官学校 独立飛行81中隊 第30教育飛行隊
満州航空 中華航空 奉天航空廠(輸送機) 奉天航空廠(237部隊)
錦州航空分廠(751部隊) 独立整備8341部隊
飛行第15戦隊(新京残留組) 満州飛行機(ハルピン) 満州飛行機(奉天)
8372部隊(平房) 満鉄(ハルピン、三 樹、鉄道工場) 気象台(ハルピン)
宮之原病院 陸軍看護婦(牡丹江、掖河) 開拓青年義勇軍 民間の人達
こうして広い地域にわたって集めた機材収集は終結し、人材も揃い、以前日本
人に遺棄されて壊れた建物が修理され、航空関係者の宿舎になっていった。
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そして正月を迎えた。1947年である――――。
= この稿つづく:次の記事へ =
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┃ ┃ 記事に対するお便りなどあれこれ。
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┌──────────「灰色眼鏡さん」男性@二十代@会社員@中国
初めまして!ここに入ったのは偶然でした。でも、偶然のお陰で面白い記事を
ご拝見いたしました。
東北航空学校(1946年3月2日より設立、番号「三一」)に日本人教官がい
ること、以前も聞いた事がありますが、こんなに詳しいことが初耳です。
ネットで調べると、この本(空軍征戦紀実)に大澄さんの名前を発見しました。
こう書いてあります。
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日本人教官大澄国一が怒った。「ばか!三回って言ってただろう?何で九回で
すか?」李漢が飛び降りて、正立、礼、真面目な顔して「報告いたします。先
生、白旗ですけど‥‥」....大澄さんはホントにこの生徒が大好きです....。
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林さんの事も記載した。
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(彭真さんと会談後)帰った時、林さんもうすでに自分が捕虜である立場を忘れ
た。彼は瀋陽行きのトラックに乗った。副運転手席に既に一人が座ってます。
林さんはその人に手を振って「どけ!」といってその人を席から追い立てた。
その人が一言もせずトラック後ろに乗った。。。。その後、衛兵からその人の
名前を聞いた。林さんはびっくり、その人は瀋陽方面司令官呂正操でした。
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では、東安へ移動後のことどうなりましたか、楽しみにお待ちしております。
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┌──────────「大澄国一さんから」
お便り有り難うございます。中国の青年に読んで頂きうれしく思っています。
中国空軍内でもこの事蹟を知る人は少なくなっています現在、一般青年からの
お便りは初めてです。当時の関係者も生存しているのは少なくなっています。
50年ほど前は個人の秘密事項でしたが、今はこうしてネット上でも話ができ
ることを無上の喜びと思います。私にとっては不滅の歴史です――――。
これからもよろしく!
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└→ 感想や激励をよろしくお願いいたします。
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