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八路空軍従軍記 ―――――――― by 大澄国一さん
☆ 教官班訓練担当 ――――――――――――――― 2007/02/02 牡丹江に着いたら九九高練が飛んでいた。‘教官班’の訓練が行われていた。 訓練所に帰って1週間ぐらいした頃体調が悪くなった。怠[だる]くて力がなく 軽い咳もでてきた。或る日この様子を「何」処長が見て入院しろということに なった。処長の、言った事の処理の早いのには驚いた。ーーー翌日早速衛生隊 に入る事になった。 ここの看護婦は殆ど日本人であった。医者は中国人であったが、真に頼りない 感じである。診断は肺尖炎という事だ。入院といっても大きな病院ではない。 幾つかの空き家を改造して、個々の部屋に入って寝るだけ…… その一室の木製ベットに、冬の飛行服を敷き、その上に毛布一枚……枕もない 哀れな入院患者となった――――。 これという治療もない……尤もレントゲンもなければ良い薬もない、只注射と 栄養剤を飲んで休んでいるだけ。最初の2、3日はよく寝た、朝から晩まで寝 たっきり……。 お陰で、疲れのほうはすっかりなくなり気分も良くなったが、不思議と微熱だ けは出る。医者は朝1回来て聴診器を当てるだけ、‘楊’太夫とかいう赤ら顔 の肥った衛生隊長だとか…(大夫=タイフは俗語で、正式には医生という) よく怒る気の短い男だ。見た後は看護婦任せといった具合である。「こんな医 者に何が判る」と医者に疑問を持ったが、兎に角ゆっくり休んでいれば直ると 思って気長に考えた。 看護婦さんは若い人ばかりだ。私は初めて会うのであまり口はきかなかった。 今覚えているのは、木下・内田・河合・山口・左近・筒井・小林・高橋という 人達だ。後になって小柳という日本人医師が来た。病室といっても以前の日本 人家屋であり、出入りは自由だ。 寝てばかり居るのも退屈だし、身体にも良くないと毎日散歩した。 私の病室の隣家に白系ロシア人の老夫婦が住んでいた。陽気な夫婦で、片言の 日本語と中国語をチャンポンで話し、私はよく遊びに行き仲良くなった。 入院生活は1ヶ月で終わり、訓練所に帰った。 訓練処は相変わらずのんびりしていた。主な飛行員は教官班の訓練に出ている ようだった。教官としては元林部隊の操縦者が主だったと思う。他の飛行員は あまり用がないようだった。私と宮田君は出張が多くて直接訓練には参加しな かった。 この頃だと思うが、張家口から長谷川という元准尉と、元中華航空にいた畑中 ・姫野という人たちが部隊に入ってきた。畑中さんは私と同じ‘米子航養’の 本科1期生ということで懐かしかった。姫野さんは航空士であった。 退院後暫くして、私にも教官班の訓練に出るよう指令が来た。 その頃の教官班は、飛行幹部の養成が主目的で、元来多少とも飛行経験のある 者が学生であった。身分も団級以上と大幹部であった。それに加え、元汪清衛 政府(国民党南京政府)軍出身もいた。 学生で今覚えているのは、身体の大きい劉風・呉凱・方華・干飛・張華・顧請 ・魏堅・袁彬・呂黎平・黎明・安志敏等で、後4〜5人いたが忘れた。当時、 校長は常乾坤、副校長は白起さんといった。この他に蔡雲翔・吉翔さんがいた が、後日航空事故で亡くなった。共に、戦後いち早く汪清衛空軍から義挙して きた白起・干飛さんたちの仲間であったが、少し傲慢なタイプで、日本人から は好かれていなかった。 使用機は、当初ユングマンを使ったが、エンヂントラブルが多く、機数も少な く、果ては不時着事故が起きて使用を中止、代わって、機数も多くエンジンも 強い九九高練を採用した。ーーー飛行練習に最初から高級機を使ったのは世界 でも初めてであろう。
複座軽練習機ビュッカーBu131ユングマン 「陸軍:四式基本練習機」「海軍:二式陸上初歩練習機」
九九式高等練習機⇒
右の写真は中国軍に接収された後のもので、

上は中華民国=国民党軍)のマークになっている。

下は1947年から共産党軍のマークに換わっている。
私は張華・于飛・顧請の3人を受け持った。 張さんは日本語が巧かった。何時も身だしなみのいいインテリタイプである。 于飛さんはよくバイオリンを弾いている陽気なタイプ、顧請さんは少し神経質 な人だが、長く一緒に仕事をしていたのでよく気心を知っていた。この3人と は急に親しくなり、よく部屋に遊びに行った。 この頃、同時に飛行甲班が編成され訓練が始められた。 このほうは黒田さんが主任になり、教官として井田・山本・石森・原・鵜飼さ ん達が担当した。考えれば元の飛行下士官が主力で、飛行将校は姿を消したよ うで訓練には全然顔を見せなくなった。訓練所内では訓練担当者以外は用がな い。整備員達は機体の整備や修理に忙しい毎日を送っていた。 その頃、娯楽というものは何もない、訓練関係者以外は暇があり過ぎる。そこ で誰言うとなく皆で回覧誌を作ろうという声が出た。なんでもいい、一人一枚 意見なり、詩なり、雑文でもいい、それを書いて1冊の本のように綴じて回覧 しようというものだ。私も、これは面白いと乗り気になって一役買って出た。 表紙は枇杷田君が描いて(水彩画)、私が編集を受け持った。表題も『建設』と した。第1号は、20人程が敗戦時の思い出、或いは民主聯軍の印象、散文・ 詩などが集まり、私達の中の雑誌としては結構いい物ができた。――――只回 覧するだけでは面白くないので、末尾に読後の感想欄を設けて、読んだ人に書 いて貰うような方法を採った。 読む物がない当時の事、中々の評判だった。不定期の発行で、原稿が集まった ら編集発行した。47年始め頃まで続いたが、その後は人が分散したため自然 停刊となった。 49年に、これに代わって日工科(政治科)が編集発行する日本人工作者向けの 定期機関誌「建設」が出された。紙面もガリ版刷りとなり、専ら政治教育の内 容に変わっていた。 ┌-------- 註:日工科=対日本人工作科。 通化事件後に現れた杉本政治委員を長として 学校政治部の中に設置。(後に日本人政治幹事を各部署に配置政治工作をした) └-------- この時期にびっくりする事件が起きた。 教官班学生の顧請さんが、九九高練を操縦してソ連領内に逃亡してしまった事 だ。(一部には航法ミスによる不時着ともいわれた) 何故そのような行動をし たか色々取り沙汰されたが真相は判らず仕舞いだった。 彼は翌年ソ連より連れ戻されたが、その後航空学校には姿を見せなかった。                   = この稿つづく:次の記事へ = ┌―――――――――――――――――――――――――――――――――┘ └→ 感想や激励をよろしくお願いいたします。
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