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八路空軍従軍記 ―――――――― by 大澄国一さん
| ☆ さらに牡丹江へと移動 ――――――――――――― 2006/12/29
3月に入り、河の氷が溶けだしてすさまじい流れになっていた。天気の良い日
曜日には、河原に出て投げ網で魚取りをして楽しんだ。こうして気楽な暖かい
春を迎えたが、3月1日、航空総隊は民主聯軍航空学校と改称し、対外呼称を
「三一部隊」として発足した。
だが、国内情勢は悪くなり、内戦勃発の危機を孕んでいた。国民党軍の勢力が
通化に近づいてきたので、更に安全な地を求めて移動しなければならない状況
になった。3月中旬、部隊は牡丹江へ移動する事になった。
私は九九高練で三機編隊を率いて飛ぶことになった。愛機のスーパー機は佐藤
君が乗って行くことになった。折角綺麗にしたのに少し残念だった。
出発の日、雪は未だ深かったが天候は良く、エンヂンも快調、悪い印象しか残
らない通化を飛び立った。三番機は田原さんだったが、二番機は誰か忘れた。
牡丹江まで約450kの航程だ。右は遙か長白山を望む山又山の雪ばかり、左
に遼東平野を眺める。全くいい天気だ。
尾根の上を1時間ほど飛んで、初めて河に出た。河といっても雪で真っ白であ
る、うっかりしたら見失ってしまう。承徳行きの経験から、河と鉄道は絶対見
失ってはいけないと思った。
暫くして左に松花江が見えた。やがて敦化の街に出る。さすが大きな街で活気
があるのか、雪は薄く街全体が黒く遠くからよく判る。鉄道も黒一筋の線を引
いたようだ。
山岳部を過ぎると次第に雪も淡くなってきて地形が判り易くなる。やがて鏡泊
湖に出る。広い湖面がギラギラと太陽に輝いている。後方の僚機は順調に着い
てくる。私のほうばかり見つめて隊形保持に懸命のようだ。特に田原さんは睨
むように着いている。あれでは疲れてしまう、自分で計測する余裕はないだろ
う……手で合図してもっと離れるように伝える。
フト下を見ると、谷間の河原みたいな所に飛行機が見えた。雪の解けた樹の間
に大きな翼が見える、、あれーっ?!スーパー機だ!……佐藤君又やったな…
スーパーの機体は直ぐに後ろへ流れ去った。編隊だから旋回して確かめる事も
できぬまま飛び続ける。鏡泊湖からは河に沿って飛ぶ。30分程で牡丹江に到
着、此処も大きな街だ。
街の上を一周する。周辺の道路、鉄道付近は可成りの数の砲弾の穴がある。街
の東の鉄橋は破壊され河に落ちている。此処は相当の激戦地だったようだ。飛
行場も、建物は焼け崩れているが滑走路だけは無傷である。今までと比べ大分
長い滑走路だ。
編隊を解散して各機着陸。機から降り立ってみると、辺りはメチャメチャに壊
されている。焼けた格納庫の鉄骨だけが曲がり落ちて残っている。兵舎も崩れ
落ちて、煉瓦の残骸ばかりで全く殺風景である。思えば段々北へ北へと辺境の
地まで来てしまった。だんだん日本から遠ざかっていくような気がした。
………この移動の過程で色々な事を見聞きした。(通化までの移動をも含めて)
私は飛行機で飛ぶから何の苦労もしなかったが、地上勤務員は大変だったらし
い。途中に匪賊が出没するので、列車は止まったり走ったり、まともに運行し
ない。特にこの冬は辛かったらしい。けれど民主聯軍は多くの警備隊を配置し
て、また事前偵察隊を先行させ、民兵と連絡しながら部隊の安全を図っていた
という。
迎えのトラックが来て街の宿舎に行く。北に来た故か顔に当たる風が冷たい。
飛行場入り口にはソ連兵の歩哨が立っていた。未だソ連軍が居るのか、と変な
感じがした。
牡丹江の橋を渡って街に通じる道路の傍らには、既に骨だけになった日本兵の
死骸があちこちに転がっている。骨の上に残った軍服の階級章が痛々しく見え
た。改めて自分は生き残ったんだという実感が湧いた。
街の中は静かで、歩いている日本人は見かけない、牡丹江駅の陸橋を渡るとき
貨物列車に沢山の資材を積み込んでいるソ連兵が見えた。あんな鉄骨まで持っ
て行くのか、余程ソ連には物資が無いのだなと思った。
橋を渡ると並木のある道路に出た。一目見ただけで日本人街の後だと判る。突
き当たりの大きな建物に着く。正面入口の上に「牡丹江省××」の剥げた文字
跡がある。恐らく省政府の建物だったのだろう、あまり壊れていない。
奥の2階の建物に案内された。外壁は黒と黄色のカムフラージュされたままで
ある。大きな部屋に通された。先発で来た何人かが居た。枇杷田・石森・山本
・原君等飛行関係の人々だった。
整備員も機務隊、修理廠と分かれ、更にその余の人員は機械廠・材料廠・被服
廠・衛生隊・自動車隊と編成されていった。私達飛行員は、訓練処に属した。
4月中旬、ここで初めて紺色の軍服が支給された。
1ヶ月ぐらいはする事もなくブラブラしていた。その間に牡丹江の街の様子を
見て回った。私達の宿舎の直ぐ北側は、元日本人の住宅街らしく、家が整然と
区画され建ち並んでいた。
家具は散乱していたが、生活の臭いが未だ残っていた。余程慌てて逃げたのだ
ろう、なかには防空用の地下室があって、その中に米・塩等の食糧が入ったま
まの器もあって、何か哀れを感じた。
……私は、参軍直後の瀋陽の街で、着の身着のままで北方より避難してきた日
本人を思い出した。女の人は頭を全て丸坊主にしていて、酷いのは麻袋の角と
真ん中に穴を開け頭と両手を出して着ていた人もいたことを……
壊れていない家には中国人が住んでいた。北山のほうに、大きく立派な建物が
あった。そこは砲兵学校になっており、日本軍の大砲と馬があった。 聞けば
元日本軍人が教官になっているとのこと……その他に、街の鉄路公司の中にも
多数の日本人が居ることが判ってきた。
また別の地区では、鉄条網に囲われた一画が収容所みたいになっており、捕虜
か戦犯なのか判らないが、多くの日本軍人が鉄条網の中で生活していた。当時
紺色の服に長靴を履いていた私は、ある日、その傍らをブラブラ一人歩きして
いたら、収容所の監視兵に脱走者と間違えられて尋問を受けた。片言の中国語
で説明するのに弱ったことがある。
一方、各地で収集した航空機材が牡丹江に次々と送られてきた。この任務に従
事した日本人から色々な苦労話も後で聞いた。――――国民党軍に追われて、
民主聯軍の幹部らと共に何度か身の危険を冒しながら運んだという。生きる為
とはいえ、どうしてそこまでやるのか?技術者としての情熱なのか?……
5月中旬、学校は、教官訓練班・飛行乙班・飛行甲班を編成し、理論学習を始
めた。
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