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八路空軍従軍記 ―――――――― by 大澄国一さん
| ☆ 八路軍に参加(3) ――――――――――――――― 2006/11/17
久しぶり日本軍兵舎に戻った。以前錦州から飛んできた時、ここで宇田、山岡
軍曹に「ここに残れよ…」と言われ別れた事が思い出された。今は…去った筈
の私がここにおり、宇田、山岡の二人はいない。これが人の運命かと思った。
下士官室に案内されて入ったら、顔なじみの者が大勢いた。加藤・山本・石森
・井田軍曹・原・鵜飼伍長・整備の西城・大橋軍曹・山根兵長達だ。他に浅野
という軍曹もいた。将校も5、6人いるとの事。錦州当時からの糸川少尉・平
信曹長・河村曹長にも会えたのは懐かしかった。
河村さんは、不時着事故で目を悪くしてから、今は操縦を止め自動車隊にいる
との事。ここで1週間程滞在した。いまだに軍隊的な組織ではあるが、自由気
ままに生活していて、警備だけは民主聯軍がやっている様子だ。
注)東北民主聯軍:当時の八路軍の対外呼称。
何もする事がないので敗戦当時の模様を色々聞いてみた。
┌──────────
敗戦直前まで五練の分遣者も交えて対ソ作戦に出撃し、ソ連戦車にタ弾←注)
攻撃を繰り返していたそうである。そんな中で丸山少尉は未帰還機となり生死
不明。また、日本に帰る皇族の搭乗した輸送機の護衛に飛んで行った者もある
とか。そして8月15日には、北陵に駐屯していた部隊の操縦者が敗戦を知り
いきなり飛び立ち、飛行場目掛けて急降下、次々と自爆した者もあったとか。
林部隊長以下の四練は、敗戦直前に北稜から奉集堡に移動したので、直接ソ連
軍の武装解除は免れたそうである。しかし、8月15日は沈痛な一日であった
そうである。平信曹長はわァわァと一日泣いていたそうである。
その後、部隊は奉集堡を脱出し、日本に帰るため朝鮮を目指し徒歩で山中を行
軍し、途中で食糧を徴発しながら歩き続けたという。他から見れば匪賊にも等
しい行動と思われたらしい。何日か経ったある日、山中で八路軍に包囲されて
‘万事休す’の状態になったとか。
降伏か…戦闘か…の瀬戸際に立たされ部隊長も苦しんだそうである。ところが
意外にも八路軍の態度が良く、空軍建設に協力するならば生活の保証をすると
いうので、生き延びるために止むなく八路軍に参加した。
└──────────
という経緯が判った。しかし、当時どうしても八路軍に入らず日本に帰るんだ
と意志の固い者もいて、帰る者と残る者がそこで別れたそうで、その中に山岡
軍曹や野田曹長がいたという。
┌──────────「編集部注:タ弾」
タ弾は、小爆弾をひとつの容器中に収め、飛行機から投下すると自動的に容器
が開き、小弾子を撒き散らすようにした黄燐性の爆弾。陸軍のタ弾は3種類。
1.2式40mm撒布弾/一番オーソドックスなタイプで、ニューギニアで使われ
たといわれるのもこれ。口径40mm重量約700gの弾子30個を撒布。重量は30kg。
2.3式40mm撒布弾/上と共通の弾子を56個を収容するタイプ。重量は50kg。
3.仮称5式50mm撒布弾/50mmの弾子を使用するタイプ。仮称といいつつ終戦
直後の各基地の在庫状況をみると3式より多い。戦史叢書では50mm×76個のタ
イプが最初に試作されて、その後に40mm×30個のタイプが試作されて後に両方
とも採用されたとある。
詳しくは → http://www.warbirds.jp/ansq/1/A2000778.html
└──────────
┌──────────「編集部注:奉集堡(飛行場)」
この物語に出てくる「奉集堡(飛行場)」は、奉天(現在の瀋陽)の南郊だったと
いうことなので、現在の瀋陽桃仙国際空港ではないかと思い、大澄国一さんに
お尋ねしてみましたら、
┌--------
奉集堡は記憶では蘇家屯の直ぐ近くでした。上空から眺めると10キロ以内の
範囲でした。蘇家屯と奉集堡の位置関係の分かる地図がありましたので送りま
す。奉集堡に「#」の印があるのは緊急飛行場で基地飛行場ではない印です。
└--------
ということでその地図を見てみますと、まさに推測どおり!奉集堡(飛行場)は
ピタリ!現在の瀋陽桃仙国際空港の場所でした。
:
と注釈したのですが、2008/12/24 以下のように訂正情報を頂きました。
:
┌--------「gundamzakuさん」20代@男性@会社員@近畿
はじめまして、私は関西在住の瀋陽出身の中国人です。今日はネット上で資料
を探してる時、偶然、貴サイドに辿り着いた。一箇所、間違ったところがある
と思います。
それは奉集堡と桃仙空港の関係です。両者は同じところにあったじゃなくて、
奉集堡は、桃仙空港の東南方向に直線距離約8キロのところにあり、戦後は飛
行機場として機能していなかった。現在は普通の農村集落となった。
ただ、現在、奉集堡には瀋陽軍区空軍の自動車改装工場があり、それが奉集堡
飛行機場の一部と考えられます。ーーー忙しいところ、拙文を書いてすみませ
んでした。
└--------
▼
┌--------「(^^) OJIN です(^^)」
いやいや、「拙文を書いて」なんてとんでもございません。
こうして皆様からお助けいただいて、記録が正しいものになってまいります。
早速訂正させて頂きます。本当にありがとうございました!
└--------
└──────────
奉集堡でのある日、河村さんに出会った。いろいろと話しているうちに家族の
事に話が及んで安否を気遣っておられた。私は瀋陽にいるとき、錦州部隊の家
族が春日小学校に避難し、難民生活しているのを知って訪ねた事がある。その
時に河村さんの奥さんに会った事を話した。「直ぐ迎えに行きたいが体が悪く
て行かれない、どうしたらいいだろう‥」と心配そうであった。
それから2、3日して、大西少尉が瀋陽まで出かけるというのを聞いて、河村
さんの件を話したら快く引き受けてくれた。そして2日後の夕方になって大西
さんが河村さんの奥さんと子供二人を連れて帰って来た。
再会した夫婦の喜びは見ていて涙が出た。戦争中に別れた夫婦で再び巡り会え
たのは恐らくこの二人だけではなかろうか……全く幸運という外ない。
その翌日、私は指令を受けて遼陽に飛んだ。この時初めて‘顧’という日本語
を話す中国人幹部と一緒になった。それまでは‘王’という満軍出身の人が私
達に命令を伝達していた。
飛行準備は田さんが立ち会ってくれた。彼とはすっかり仲良しになっていた。
遼陽に着いたら、そこには未だ大勢の日本人が住んでいた。又、参軍している
中で四練以外の人々、修理廠・航空廠・被服廠・日赤・陸軍病院の看護婦等々
色々な人達がおり、毎日何をしているのか判らないぐらいブラブラしていた。
聞けば、在住の日本人の家で遊んだり食ったりの太平楽らしかった、ここで私
は、満州航空出身の畠山・佐藤・枇杷田という人と知り合いになった。3人と
も飛行経験は浅いようであったが、私が民間の養成所出身という事で親しさを
感じたのかよく話しに来た。
この遼陽を起点として、10日間ほど、営口・鉄西・奉集堡との間の連絡飛行
に従事した。私は何時も八路軍幹部と行動を共にしていたので、他の日本人達
とは離れていた。その間、他の人々は宮の原とか遼陽の街で遊び、居留民とか
なり接触しており、私に言わせれば甘い汁を吸っていたようだ。
中には娘さんを女房にして連れて来る者もいたとか。谷島・山口・御前・西等
の将校が多かった。平信さんもここで嫁さんを持ったそうだ。ここで多くの看
護婦が入って来たという事を後で聞いた。他の者が遊んで過ごしている事を聞
けばシャクにさわったが、私は何故か中国人といるほうが面白かったーーー。
そうしたある日、もう大分寒くなった頃だろうと思う、顧さんが来て凌源まで
飛んでくれと指令を伝えてきた。「地図がなくては飛べない」と地図の入手を
頼んだ。調べてみると、錦州よりだいぶ西の山岳部にある小さな町だ。
そこへ連絡用の無線機を運ぶのだそうだ。これより前に、別の白いスーパー機
で佐藤君が飛んだが、着陸に失敗して機体を破損したという。私は初めて遠く
へ飛ぶので飛行機を十分整備してくれるよう頼んだ。
森山という若い背の高い人が整備に来てくれた。破れたパチンコ(始動用ゴム
索)も修理し準備が終わった頃、田さんが来て、スーパー機の胴体に青天白日
のマークを描いた。これは、山海関付近には国民党軍がおり、万一撃ち落とさ
れるのを予防するためのものだった。
昼頃、私と顧さんは出発した。顧さんが50万分の1の地図を持ってきてくれ
た。それに鉛筆で一本線を引いただけで飛ぶ‥‥。天気は良好、地上の草木は
すっかり枯れて野山の緑は消え、冬の訪れを告げている。
エンヂンは快調、一路西へ飛ぶ。飛行すること2時間余で目的地凌源の上空。
山の中の小さな町だ。一周右旋回して飛行場を確かめる。
= この稿つづく:次の記事へ =
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▽
この物語によく登場する「四練」=関東軍第2航空軍第101教育飛行団第4
練成飛行隊)について記述されているサイトをみつけました。
「人民中国:中国空軍創設につくした日本人教官」
http://www.peoplechina.com.cn/maindoc/html/200603/zhuanwen64.htm
「外交と安全保障をクロフネが考えてみた」サイトの記事
「第15回 歴史認識問題にどう対処すべきか?(その2)」
http://gaikoanzenhosyo.blog4.fc2.com/blog-entry-67.html
2チャンネル掲示板「歴史としての朝鮮戦争」レス341
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/whis/1117403060/
この物語のライター、大澄国一さんが元々所属していたのは、旧満州国錦州省
錦州市(現在の遼寧省錦州市)にあった「五練」です。
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┃ ┃ 記事に対するお便りあれこれ。
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┌──────────「yamato44さん」男性@六十代@東京
終戦時のドサクサではそうしなければ生き残れなかったと充分理解できます。
そして中京軍に非常に信頼を得、崇められていたのに、最近の中国政府の発言
行動は首を傾げます。中国政府高官は、最初に井戸を掘った人は忘れないとよ
く発言するが、二枚舌であることがよく解る。ましてICBMの照準を日本に
合わせているなんて考えられない。
八路軍に協力したのは無駄になり、歴史に踏み潰されましたね。それこそ死亡
者は靖国に祀るべきです。
私の考えは、中国人(政府役人等)は、自分さえよければ自分の国さえ、という
考えであるから、我々は新たに友人にはなれませんし、なるつもりもありませ
んがね。
相手にばかり友好の証を求めるが、自分たちはそうゆう歴史は踏みにじって相
手が悪いと罵る、日清戦争当時の、辛亥革命当時の、群集と全く同じ考え行動
をしていますね。
└──────────
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┌──────────「大澄国一さんから」
お便りありがとう御座います。
言われる通り、現在の中国に少しの落胆はあります。けれど全てではありませ
ん。只、世代が代わり意識も変わったのだと思います。当時、私達と同じ釜の
飯を食った中国指導者は、日本軍人であった私から見れば日本及び日本人より
遙かに崇高な精神と人格者でした。
人間誰しも、困窮した時は互助団結するものですが、個人の生活が良くなるに
連れこの考えは薄くなり利欲に走るものです。中国の今と昔を知る私には天変
地異の感じです。
でも、空軍の中には私達の事蹟は歴史として残り、軍に受け継がれています。
その記念館もあります。が、それは軍の中の事であって、一般社会では知られ
ておりません、特に40代以下の若い中国人はこの事蹟を知りません。けれど
留学生や、訪中したときに中国人と話をすれば大いに感動し称えてくれます。
今、中国に起きている良くない現象は、大小、多少の差異はあっても日本の社
会、政治にも起きています。私は、お互いの共通を探るか、違いを主張するの
かの違いだと思います。
個人的な感じですが 良きにしろ悪しきにしろ、中国人程のパワーを、現在の
日本人は持ち合わせていないように感じます。
└──────────
┌──────────「ドバイの悪党さん」男性@四十代@その他海外
毎回、父子ともども配信を楽しみにしております。父はPCを扱えないので、
日本の兄に頼んでプリントして見せたところ、大変興味を示し以下のコメント
を送ってきました。
┌--------
大澄国一さんの八路軍従軍記、興味深く拝見しています。
私もちょうど8月16日、奉天の鉄西飛行場から九九高練で大石橋経由、満州
と朝鮮国境の鴨緑江水豊ダム(当時東洋一と云われていた)中州に造られた飛行
場に向って飛んでいたので、その当時の事を書かせていただきます。
私は特操一期生で、18年10月1日に熊谷飛行学校館林に入隊、中練高練を
終了し、19年2月、台湾塀東にあった第八教育戦隊で97戦の訓練を受け終
了後、主力は南方前線に、一部の7名だけ97重で羽田に、豊岡の陸軍航空士
官学校に転属、陸士58期生の助教に従事、59期生の訓練のため満州の東京
城の高練で渡りました。
終戦のときは、丁度高練の単独飛行の時期に近く、まだちょっと早いと思われ
ましたが単独飛行を強行し、今思えば若い生徒によい思い出をつくってあげた
と思っています。なんといっても操縦者にとって、単独飛行は一生の思い出で
すからね。
8月14日、生徒を老爺嶺越えで吉林へピストン輸送を終え、奉天経由朝鮮に
向ったのですが、割当てられた高練が格納庫で修理中の予備機で、後輪がパン
ク、コンパスも狂っており、双練の55期の中尉の先導で、(奉天)鉄西飛行場
に、ガソリンかすかす、後輪を浮かせてやっとの思いで着陸。
(8月16日だったと思う)ソ連・中国軍機が満鉄の権益確保の為続々と到着中
だったので修理する事も出来ず、給油の上すぐまた離陸しました。
奉天を出発、満鉄沿いに目視飛行したのですが、途中鞍山製鉄所の煙突を本渓
製鉄所と勘違いして直進してしまい、気づいたときは、既に奉天には連合軍が
来ていたのが判っていたので、そのまま大石橋から遼東半島を山越え、安東で
給油し目的地の水豊ダム下の飛行場に着陸。
(8月16日)終戦を知り、原隊が豊岡の航空士官学校でしたので、豊岡へ向う
こととなり翌日新義州へ飛びました。新義州で、飛行場から駅へ向う途中沿道
に日の丸の旗が掲げられており、よく見ると半分が塗りつぶされて四角に何か
書いてあって、ーーー現在の韓国の国旗になっていました。
貨車で釜山へ出て、興安丸で山口県の須佐沖から上陸、緑の多い日本に「国敗
れて山河あり」の感をつくづく味あわされましたーーー。
追記:大澄さんの記事によると、宇都宮飛行学校出身の予備士官の御様子です
が、私も熊校で予備士官に訓練を受けました。
亦九州太刀洗飛行場より台湾塀東に向った時、MC輸送機の操縦者が満飛出身
の予備士官の方で、海上を飛ぶのは今回が初めてとか・・・・雲上飛行で台湾
を通り越し、引き返してやっと夕暮時の石垣島の海軍基地に着陸したが、海軍
にはパチンコ(始動車)が無く、3日間滞在した思い出があります。
何れにせよ私共は、沖縄戦に備えた即成の操縦者養成第一期生で、当時一式〜
四式の優秀機は消耗(操縦者も)し、私も航士に行くので、待機中に一式97戦
の空戦訓練を受けましたが、やっと沖縄戦の特攻に間に合って出撃した同期の
連中は旧式機であまり成果がなかった様子、、残念至極です、、。
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┌──────────「大澄国一さんから」
お便りありがとうございます。お父さんのお便り、何か懐かしさを感じます。
私の出身は、元逓信省航空局の航空機乗員養成所です。昭和16年に入所、初
練、中練、高練を経て二等飛行士免状を取得後、岐阜陸軍飛行学校に、予備役
下士官候補生として入隊、六ヶ月で除隊するところ、戦争のため現役編入され
ました。
宇都宮では助教として特操一、二期を教えましたので想い出があります。この
記事の後の章で、特操一期で航士出身の人が出てきます。お待ち下さい。
お父さんに宜しくお伝え下さい。
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└→ 感想や激励をよろしくお願いいたします。
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