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八路空軍従軍記 ―――――――― by 大澄国一さん
☆ 昭和20年8月14日(1) ――――――――――― 2006/09/15 昭和20年8月14日朝、1機の九七式軽爆撃機が錦州飛行場を飛び立った。 操縦するは私、後席に少尉1名を乗せて「白城子まで九九式高等練習機を取り に行け」という命令である。命令を受けたとき私は反対の意見を出した。 「侵攻したソ連軍がもう白城子の近くまで来ているはずですから、真っ向から 危地に飛び込んでいくようなものです。高練一機ぐらい放棄すべきでは…」と 主張したが全然聞き入れられず、「命令に従え!」と一喝を食らったので仕方 なく飛び立ったのである。
九九式高等練習機⇒
右の写真は中国軍に接収された後のもので、

上は中華民国=国民党軍)のマークになっている。

下は1947年から共産党軍のマークに換わっている。
奉天までの天候は良かったが、北へ進むにつれて段々雲が多くなってきた。少 し高度を下げて地上が良く分かる高度で飛び続けた。 四平街が右に見えた頃エンヂンの調子が変わってきた。回転計の針が下がって いる。何とか回復しようとあれこれやってみたがダメだ。高度は下がる一方で ある、これはとてもダメだ。 航続不能と判断して四平街に引き返そうと決心、後席の将校に合図する。向こ うも分かったのか頷いた。かろうじて高度を保ち、四平街飛行場に着陸する。 降りてからエンジンを見ると油だらけになっている。どこからか油が漏れたら しい。 この時私はフト思った……丁度良い機会だ、これで錦州に戻れるぞ……と。 少尉に「飛行不能だから部隊に戻りましょう」と言ったら、若い少尉は「ダメ だ任務は完遂せにゃならん。俺が代わりの飛行機を借りてくるから待ってろ」 と言い終わるやさっさと歩いていった。 チェッ……なんと頭の固い奴だ……いまいましく思ったが仕方がない、格納庫 の傍でボンヤリ座って待った。 その間にも、滑走路からは四式戦や九九襲などがどんどん飛び立っていく…… 北満の戦線はどうなっているのだろう?ソ連軍はどこまで来ているのだろう? とぼんやり考えながら見ていた。 ちょうど着陸したばかりの一〇〇式偵の操縦者が降りてきたので、様子を訊い てみた。 「……敵は海拉尓[ハイラル]を越えて白城子に近付いている。あそこも恐らく 持ち堪えられんだろう。俺は燃料補給したら南へ飛んでいくわ……あんたも行 くのは止めたほうがいいぞ」と言い残して去っていった。 そう言われて飛行場をよく見てみると、なんだか秩序がないみたいだ。やたら にザワメイテいるように感じられた。 少尉が帰ってきた。誇らしげに「九七軽を借りることが出来た。すぐ出発だ」 言ったかと思うとさっさと歩き出した。……あぁもうダメだ……諦めて随いて 行った。機体の所に来たら整備員が燃料補給をしていた。その中の下士官に訊 いた。 「情況はどうですか……?」 「危ないですよ。ココは前線基地になっていて色々な部隊が集まっていました が、段々引き揚げていきますよ……ついさっき二式戦が、朝鮮まで帰るんだと 整備員を乗せて飛んで行きましたよ……今から北のほうは危ないですよ。無理 なことですよ」 傍で聞いていた少尉は、その下士官を睨むように見てから 「とにかく行こう!任務だから……」 と、前より柔らかい口調で言った。……こりゃ飛ぶより仕方がないな…… 操縦席に乗り込んでスイッチを入れた。エンヂン始動! 混雑している誘導路を縫うようにして滑走路に出た。 バリバリバリ!……排気音を残して一気に離陸した。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 注釈)四式戦 =皇紀2604年式の戦闘機。    九九襲 =皇紀2599年式の襲撃機。    一〇〇偵=皇紀2600年式の偵察機。    二式戦 =皇紀2602年式の戦闘機。    八路軍[はちろぐん]
1937年(昭和12)8月22日、中国共産党は抗日のための国共合作の結果 27年創設の紅軍を国民革命軍に改編し、そのうち、華北主力を第八路軍とし た。一般通称は「八路」、国民政府軍編成では第18集団軍に属する。 武器・弾薬・資金は国民政府が提供し、日本軍の背後に出て遊撃戦を展開する というのが基本構想であった。また進出各地に人民をして根拠地を建設し、持 久戦も展開できる「人民戦争戦略」を行う。 八路軍は、1軍編成(軍長は朱徳、副軍長彭徳懐)で、第115師(師長林彪)、 第120師(師長賀龍)、第129師(師長劉伯承)からなり、当初兵力は約4万 5000人であった。 共産党の根拠地だった陝甘寧辺区から出撃し、平型関で勝利したのを手始めに 華北を経て、山西、山東まで進出し、晋察冀(山西・河北・察哈爾)、晋冀魯予 (山西・山東・河北・河南)、晋綏(山西・遠綏)などの根拠地を築いた。 40年には兵力40万人、支配人口は1億人を越えた。この時点で、抗日作戦 「百団大戦」を展開したが、日本軍の反攻と国民軍との衝突などで勢力を半減 した。そこで、三風整頓運動、生産自救、地方軍化を行い、戦略的には戦争・ 生産・工作、戦術的には地下道戦、地雷戦、麻雀戦を展開した(麻雀戦とは小 部隊(雀)を出没させるゲリラ戦法のこと)。 45年には、兵力310万人(正規軍は90万人)に達し、19の根拠地を支配 するまでになる。日本軍の敗退後、その武器を接収するなどして軍備を整え、 46年国共内戦勃発で、華北、華東、西北、中原の各野戦軍に再編成して展開 し、47年10月に中国人民解放軍となった。 (以上「聚史苑」日中・太平洋戦争時代年表1937年8月22日より)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜                   = この稿つづく:次の記事へ = ┏━┳━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┃┃ 記事に対するお便りあれこれ。 ┗━┛ ┌──────────「ドバイの悪党さん」男性@四十代@その他海外 初めまして。 関東軍の方が、終戦後に八路軍へ進まれた事は父より聞き及んでおりましたが 生き証人の方からお話をお伺いするのは初めてでございます。大変興味深いお 話、続きを楽しみにしております。 悪党の父は、明大のグライダー部から、特操見習士官第一期生として熊谷で入 隊、台湾・屏東にて第八教育隊、豊岡士官学校で教官となり、以後満州東京城 で終戦を迎えるまで教官として過ごしております。 特に、99式直協と97戦には思い出深く、悪党が子供の頃、模型を作ると実 機の話を色々と聞かせてくれました。そして、知覧から散っていった教え子を 偲び、毎年九州へ供養に行っております。(知覧=鹿児島県知覧町。陸軍特攻 機出撃基地) 終戦直後の内部混乱では、無為に命を落された方や、数奇な運命の渦に巻き込 まれていった方のお話も多いかと存じます。是非とも当時の状況や八路軍航空 隊の実態をお聞かせいただければ幸甚に存じます。 しかし、 八路軍塗装の99式高錬の写真には、度肝を抜かれた悪党でございます。(^^; └────────── ┌──────────「大澄国一さん」 お読み頂きまして有り難う御座います。何日か前、ご感想に対する返事を送信 しましたが、私の送信記録に載っていないのでもう一度送ります。 私も昔、宇都宮校で特操の1期2期を教えました。又知覧の特攻基地にも行き 同期の写真と対面しました。私自身も特攻要員を要請されましたが、刑務所行 きを覚悟で無視しました。お陰で長生きできました。 └────────── ┌──────────「Y Hajimeさん」 ┌-------- 関東軍の方が、終戦後に八路軍へ進まれた事は父より聞き及んでおりましたが 生き証人の方からお話をお伺いするのは初めてでございます。大変興味深いお 話、続きを楽しみにしております。 └-------- 関東軍のお[かた]なのか、方角の[ほう]なのか、ここでどうして貧弱な関東軍 に敬語をお使いなのでしょうか? 日本人民間人を置き去りにして、さっさと トンズラした関東軍に敬語なぞ不要です。 八路軍へ進まれた云々ではなく、まったくの寝返ったことなのです。共産主義 を容認し、中共についたということなのです。 私も、父親の仕事の都合で1957年まで、中国で一家が辛苦を嘗め嘗め中国 建設に携わった親父の背中を見てきたものです。 飛行機物語は、面白おかしく御表現ですが、もう少し裏の裏を、お読みになる 方[かた]は考察の一工夫を凝らしてくだされば幸甚です。 └────────── ┌──────────「鳳山高雄さん」男性@七十代@その他海外 肝心の時期に誤った判断をしたのが大学・専門学校出の、経験のない若手将校 (尉幹)でありました。当時台湾にいた私は、米国機動部隊の反撃で台湾沖海戦 で無残な敗退で全滅。ーーー裏の中国側から空襲に来る防空対策が空っぽであ りました。 終戦直後、インドの独立指導者チャンドラボース氏を仏印サイゴンから南満州 へ移送せる途中、中継地の台北松山飛行場で、離陸直後にプロペラが折れ台湾 神社境内に墜落し、貴重な人材を失しました。 ベトナム戦争、サイゴン陥落の際も、当時の南べトナム大統領を移送していた 米軍の輸送機が、中正空港(現在の台北桃園国際空港)で事故を起こし爆死。 終戦直後の朝鮮でも、満州国皇帝薄儀の救出に南満州へ飛んだ輸送機は、台湾 出身の副操縦士を伴い平壌で待ちわびたが、結局皇帝搭乗機は来ず、引き返し てきました。 最後まで臨機応変に動かず、無茶な判断で無駄死が多かった終戦処理でした。 └────────── ┌──────────「ドバイの悪党さん」男性@四十代@その他海外 鳳山高雄殿 ボーズ氏の生涯を記した書に未だめぐり合っておらず、自分のライフワークと していずれ調べてみたいと思っております。戦前、日本に亡命してきた際、中 村屋が匿い、中村屋創始者の娘と結婚したとか、 ボーズ氏とナチスの関係(ノルマンディーで米英を迎撃した部隊にボース氏の 義勇軍が居た事実あり)ドイツ降伏直前に潜水艦で日本へ逃げたとか、断片的 な話は何処かで読んだのですが、、、。 ちなみに、ボース氏の長女はハンブルグ大学の現役教授だそうで、一度会って みたいと思います。 └────────── ┌──────────「(^^) OJIN です(^^)」 ドバイの悪党さん、このページはご存知でしょうか? 「スバス・チャンドラボース・アカデミー ▼ 」 http://www.yorozubp.com/netaji/academy-j.htm └────────── ┌──────────「会社員Aさん」男性@四十代@滋賀 いつも楽しく拝読しています。 インド独立のボーズの話がありましたが「ドバイの悪党さん」はチャンドラ・ ボースとビハリ・ポースを混同していますね。ビハリ・ポースの生涯は、中島 岳志著「中村屋のボース」白水社(2005)に詳しく述べられています。 これからもメルマガ楽しみにしています。頑張って下さい。 └────────── ┌──────────「PACKMANさん」男性@六十代@会社員@神奈川 意見ではありませんが、伊豆の伊東から下田方面にむけて国道を行くと、網代 の町並を抜けてトンネルを過ぎ、右カーブを過ぎて少し行ったところの右側に チャンドラボースとか、インド、ネパールなどと書いた忠霊塔のあるホテルが あります。――― オーナーがこの件に思い入れがある方のように思います。 何か参考になるかと思い書き込みました。 └────────── ┌──────────「みえいおさん」男性@五十代@自営業@福岡 私は団塊の世代です。つまり、戦争を知らない子供です。この世代もまもなく 還暦を迎えようとしているのですが、戦争に関しては子供です。 戦記を読んだり、史書などを調べても、やはり概略でしかない。その点、八路 軍の話は生の声というか、状況が直に伝わるという感じです。戦争の知識では なく、その実感を知ることのほうがはるかに戦争に学ぶことだと思います。 └────────── ┌──────────「しょーちゃんさん」男性@四十代@会社員@埼玉 私の祖父は、九州の離島生まれで満州に渡り、父は長春で生まれました。父の 兄弟もみな満州生まれですが、全員は戻れませんでした。満州時代の話は、少 年志願兵となった父から詳しくは聞けませんが、タマにぽつぽつと話してくれ ます。 終戦前後の兵営内部や街のざわめき、シベリアに抑留された同期(戻ってこれ なかったそうです)や八路に行った後輩、漢人と満人の対立に呑まれて消えて いった知人一家、飛び立ったまま行方不明になった上官や、帰国許可前後の苦 労話、若かりし頃の星が浜海水浴場のこと・・・ 多くは語って貰えませんが、語れない部分は学校や書物など近代史を学ぶ中か ら補っています。 関東軍や満州国、全体像だけを見るのも、個人の体験だけを見聞きするのも、 一つの見方であることを承知の上でなければ、誤った方向に向いてしまう場合 があります。最終判断は自己責任ですが、物事は常に多方面から観察し、批判 も追従も構いませんが、誤りの可能性を必ず念頭においてください。 被害者数の集計といった数字にしたって、アト加工はナンボでも可能なんです よ。きちんと客観的かつ検証可能でなければ、論拠のモトにすべきではありま せん。 >大澄国一さん いろいろな声が届くでしょうが、ご自身のペースでゆっくりと語って下さい。 楽しみに読ませていただいております。 >Y Hajimeさん 八路軍への参加には、いろんな形があります。自由意志があった反面、家族の 帰国をタテに取った半強制もありました。また、新しい国つくりの夢=八路軍 に賭けて、という方もおります。当時の軍閥や国共内戦などの事情を知れば知 るほど、貴殿のように「まったくの寝返った」とは私には思えません。 また、関東軍の全員が民間人を見捨てて逃げたのではありません。全体からす れば確かに少ないですが、我が身を盾にして多くの避難民を助けた小隊を知っ ております。 ーーー実際の現地を何も知らない若輩者ではありますが、愚考を申しあげさせ ていただきます。 いろんな方々のお話を拝見し、いろいろなご意見を交換することはとても楽し いことだと私は思います。主観半分客観半分ぐらいで、いろいろとお話しが交 わせればと思ってます。・・・実際は私自身、主観8割かもですが・・・ 長文かつ不躾の段、お詫び申し上げます。 └────────── ┌──────────「そこらのじいさんさん」男性@千葉 八路軍航空隊参加のお話、興味深く読ませていただいております。 一切何も気にされず、自分の言葉でお話下さい(お書き下さい)。 次を楽しみにしています。 └────────── ┌──────────「大澄国一さんから」 みえいおさん、しょーちゃんさん、Y Hajimeさん、そこらのじいさんさん。 お便り有り難う御座いました。私はメルマガもメールも初めてです。初めて書 いて、このように多くの方に読んで頂き、お便りを頂きまして、驚きと喜びを 味わっています。 私は当年82歳です。18歳で陸軍航空隊に入りまして、20歳で満州に行き 翌年敗戦になりました。航空隊ですから一般の地上部隊の事は分からないし、 また地上戦に参加した事もありません。敗戦まで、軍隊内で八路軍という名は 聞きましたが(=匪賊という事)、実態は知りませんでした。 敗戦後、少なくない人が八路軍に入ったと聞いています。またその人たちにも 会っています。皆それぞれの動機があります。その動機について良いとか良く ないとかは考えません。それぞれその時の状況が違うのですから。 後の章で出てきますが、私の動機は、折角再会できた兄にも無断でただ八路軍 の恩義(=命を助けられた)に応える考えからでした。(勿論生きる為もあり、 八路軍側も来て欲しかった)だから私は他の人に、どうして八路に入ったと訊 いた事はありません。 ‥‥私は終戦とは思っておりません、「敗戦」です。ソ連軍が満州に入ってき た後、在満の日本人が味わった苦しみは「戦いが終わった」のではなく「戦い に負けた」者の運命に他なりませんでした‥‥。 記事では当時の私の考えは余り書いておりません。これからはその都度その時 の「私」を紹介したいと思っていますので、どしどしご意見をいただければと 思っております。 └────────── ┌―――――――――――――――――――――――――――――――――┘ └→ 感想や激励をよろしくお願いいたします。
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