支那事変 概説2

===== 上海出兵の経緯 =====

国民政府は、英米他の代表の斡旋によって成立した上海事変停戦協定(昭和7年)に違反して、既に昭和11年末ころから非武装地帯の要塞化と軍隊配置を行っ ていたが、北支事変勃発後、上海方面の支那軍の集中はますます顕著になった。8月に入ると閘北(ざほく)方では保安隊に儀装した中央軍が連夜演習を行い不 安は増大していた。 8月6日 岡本季正上海総領事は在留居留民に対し租界へ退避するように指示した。更にこの日上海警備司令 張治中は「徹底的長期抗戦 をもって日本軍を殲滅すべく、今や最良の好機である。日本の作戦持久は6ヶ月を越えない」と管区将兵に訓示した。 当時の上海は中共の活動拠点地の一つで あり、集結しつつあった支那軍の動きから考えても、まさに火薬庫の観があった。
===== 大山事件 =====

参謀本部では出兵は北支にとどめ、上海・青島には拡大しないよう極力努力していたが、昭和12年8月9日1830 陸戦隊西部派遣隊長大山勇夫海軍中尉と 斎藤与蔵一等水兵が支那保安隊よって射殺される事件が発生した。第3艦隊司令長官・谷川清中将は、南京政府に対し停戦協定区域内におけ支那軍・同軍事施設 の撤去を要求した。8月10日 閣議で海軍大臣・米内光政大将は、上海方面の状況を説明したのち、真相判明を待って対処したいが、さしあたり陸軍部隊の動 員準備を願いたいと発言した。 石原部長は反対したが杉山陸相はこれを諒承、閣議では現地居留民保護を再確認し陸兵派遣の準備を容認した。

8月11日以降 事態は急速に悪化した。支那側は大山事件に対する第3艦隊長官の要求を拒否するどころか、公 然と軍隊を上海に増強させ、租界地周辺に陣地を構築するなど挑発的態度を強化、兵力は計5万にも及んだ。対する我が海軍陸戦隊は4千に過ぎず、この夜応急 警備についた。 第1次上海事変(昭和7年3月)でも日本軍と激戦を交わした張治中指揮の支那軍は、8月13日 総攻撃を開始、我が陸戦隊は断固応戦する も14日には優勢な支那軍の包囲攻撃を受けるに至った。

===== 上海会戦 =====

8月14日 支那空軍は上海租借地を爆撃。初戦果を挙げた。(のちに8月14日は国民政府のもと「空軍節」とされる) 一方我が海軍航空隊は台湾から上海 杭州の飛行場を空襲、さらに15日からは九州から南京に対する渡洋爆撃が行われた。この南京爆撃は非武装都市への不法爆撃として米国の対日姿勢を硬化させ た。政府は居留民保護のため、海軍の要請をいれて陸軍部隊の上海派遣を決定、陸軍は8月14日上海派遣軍を編成した。8月15日 帝国政府は声明を発表、 支那軍の暴挙を膺懲して南京政府の反省を促すのが、今次出兵の目的とされた。不拡大方針は影を没して全面戦争も辞さないと見られるものであったが政府は依 然不拡大方針で、事変の早期解決に努力すべきであるとした。
同日、蒋介石総統は全国総動員令を下し大本営を設置、自ら陸海軍総司令に就任し全国を4つの戦区に分けて純然たる全面戦争体制をとった。毛沢東の紅軍も国 民革命軍第八路軍(八路軍と呼称)と改称、公表された。中共はこの日呼応して抗日救国十大綱領を掲げ、いよいよ国共合作の実をあげ中国人民総決起の態勢を 整えたのである。

8月23日 第3、第11師団を主力とする第1軍を上海北方に強行上陸、戦闘に加入した。当時の支那軍は中央 軍の精鋭14〜15師で、網の目状のクリーク地帯の堅固な火点、家屋を盾に抵抗した。支那軍の兵力はますます増大し第19路軍に包囲される形となり、第 3、第11師団は戦闘1ヶ月にもならない段階で非常な損害を被った。作戦部長・石原莞爾は苦戦が展開されても増兵は「焼け石に水」である、として同意しな かった。しかし9月11日には第9、第13、第101師団、野戦重砲兵1個旅団等を派遣しなければならない事態となった。

上海に5個師団増兵が決定されるや不拡大主義の石原作戦部長は辞任し、下村定少将(20期)に交代した。  (辞任の理由は、@石原部長の戦争指導理念の無理解、A参謀本部第2部との対立、B積極派の武藤章参謀本部第3課長との対立、などが挙げられる。) 「満 州国の育成に専念し、対ソ国防力充実に備えなければならない」とする国家戦略を有する石原は、陸軍内不拡大派の最右翼であった。その石原が中央から退去し た後は石原の予言どおり、スペイン進攻時のナポレオン軍のような泥沼の長期戦に陥ってしまうのである。

このように第9、13、101師団などを増加したが、9月中旬には計60万もの支那軍があって我が戦況は一向 に進展しなかった。さらに各部隊にコレラ患者が多発し、砲兵弾薬の不足もあり、死傷者続出して攻撃は停滞した。そこで上海付近で所要の成果を収めることを 重視して、主作戦を華北から上海の正面に移すこととなった。それを受けた支那軍は、10月23日ころから退却を始め、また10月20日新たに編成された第 10軍(司令官 柳川平助中将 第6、第18、第114師団、野戦重砲兵第6旅団基幹)が、第4艦隊(豊田副武中将)の護衛の下に11月4日杭州湾に上 陸、上海付近の支那軍の防御は全面的に崩壊した。
11月11日夜、当面の支那軍は退却を開始、上海周辺の残敵掃討の段階に移行するに従って「南京追撃」という意見があがった。

上海会戦の日本軍損害
  上 海 正 面 北 支 那 方 面
  死 者 負傷者 総 計 死 者 負傷者 総 計
昭和12年8月中 234 1112 1346 615 2367 2982
昭和12年8月29日までの 累計 2528 9806 12334 2300 6262 8562
昭和12年10月14日まで の累計 3908 15843 19351 不 明
昭和12年11月8日までの 累計 9115 31259 40672 不 明
支那事変経過図

===== 対支全面作戦への転移 =====

当時の中央では、作戦任務からして南京攻略など考えていなかった。戦線拡大に最も反対し続けたのは参謀次長・多田駿中将(15期)であった。 11月22 日 総崩れとなった支那軍を南京まで追撃すべし、とする中支那方面軍からの意見具申もあり、石原莞爾から代わった下村新作戦部長は非常に積極的であった。 純作戦的に見れば下村部長の主張する南京攻略は、戦略態勢上も道路網上からも当然であった。しかし戦争指導上からは何としても拡大は阻止したかった。 

中央部では、参謀本部第1部長石原少将、同第2課、陸軍省軍務課等が慎重派・不拡大派で、陸軍大臣杉山大将、 軍事課、参謀本部第3課、支那課などが拡大派であった。拡大派には「一撃を加えればたちまち解決する」とする楽観派と、「これを機に徹底的な暴支膺懲を」 とする積極派が存在した。 また関東軍は楽観的拡大派として中央と支那駐屯軍に強硬な意見を述べたが現地・支那駐屯軍は不拡大を方針として確認しており、 関東軍の対ソ判断が甘く、支那問題を軽く見過ぎているとして、関東軍の申し入れを断っていた。
参謀本部の立場上の指導者は石原莞爾第1部長であったが、河辺第2課長は不拡大派、武藤第3課長は強硬な拡大派で石原には反対し続けた。第1部内ですら意 志統一は困難であった状況下で陸軍部内の意見を「不拡大」に統一することはできなかった。そして石原が表舞台から退場した後、拡大派が事の重大さに気づい た時、既に収拾不能の状態となっていたのである。

===== 南京攻略戦 =====

11月7日中支那方面軍(司令官 松井石根中将)を編成、その任務は「海軍と協力して敵の戦争意志を挫折せしめ戦局終結の動機を獲得する目的をもって上海 付近の敵を掃滅」とされていた。11月20日軍令によって設置された大本営は、11月24日前進統制線を解除し、無錫−湖州の線を新たな攻勢限界線と指示 した。参謀次長多田中将は、戦面の拡大、南京攻略を強く反対したが、参謀本部内の強い実行論と、現地の第10軍の強い具申により遂に12月1日 海軍と協 力し敵国首都南京を攻略すべし と命令するに至った。なお直前の11月16日に国民政府は重慶に遷都を宣言していた。
現地第10軍はこの大本営命令に先だって独断にて制限線を突破、南京攻略を準備しており、上海派遣軍と第10軍との進撃競争となった。12月4日 支那軍 約10万による南京防衛外郭陣地を突破、8日から最後の防衛線での支那軍の抵抗を排除しつつ南京城に迫った。12月13日 支那軍は退却を始め、日本軍は 1個聯隊を入城させ、南京の完全占領を発表した。当初の作戦計画では、昭和13年1月中旬から攻略戦が開始される予定であり、予期した4週間も前に南京は 陥落したのであった。

首都南京を攻略するにあたっては並行して講和工作を進めるべきであったが、作戦が予想外に進展したため間に合 わなかった。戦略と政略との強調を最も必要とした時機であったのにここで停戦に持ち込めなかった事は、後のトラウトマン工作不成立と併せて一大痛恨事で あった。

===== ドイツの対支政策と日独関 係 =====

大陸での権益拡大をめざしていたドイツは、日本だけでなく支那とも友好関係にあり、支那事変勃発後も友好を維持しようとする支援行動は我が事変遂行を妨害 するものである、としてしばしば日本から抗議を招いていた。

日本のドイツへの抗議はまず有力な軍事顧問団の存在にあった。昭和3年以来支那に駐在し、共産軍の討伐に関し て助言を与えていた顧問団は、事変発生当時、フォン・ファルケンハウゼン将軍を長とする20数名の元将校と10数名の民間人から構成され、支那政府に雇用 されていた。上海周辺のクリーク戦で日本軍が苦境に陥ると、ドイツ顧問団が陣地構築を指導し実戦の指揮にあたったのではないか、との疑惑と批判が高まっ た。 さらに日本が抗議したのは、ドイツの武器輸出であった。昭和11年4月 独支両国はハプロ条約を締結、ドイツは支那に武器を供与するかわりにタング ステンなどのレアメタルを輸入することになった。また1億マルクにものぼる借款協定も成立、いずれもドイツ陸軍主導によるもので、昭和12年(1937) のドイツ武器輸出総額の37%が支那向けであった。 事変勃発直後から日本はドイツの対支武器輸出に厳重抗議し、防共協定に反すると批判していた。

こうしたドイツの態度が一変するのは昭和13年(1938)の政変によってヒトラーが軍部を掌握し外相にリッ ペントロープを起用してからである。ナチス党主導の日独提携強化路線に対して親支的な陸軍の抵抗は弱まり、昭和13年5月に対支武器輸出禁止は全面的に実 施され、7月には軍事顧問団は帰国するに至ったのである。

===== トラウトマン工作 === ==

日支の和平工作は、7月中旬の近衛首相または廣田外相の南京訪問案、近衛首相の宮崎龍之介派遣案、外務省の国交調整案などがあったがいずれも実現せず、戦 局は拡大の一途を辿った。 第18回国際連盟総会は支那側の提訴によって日華紛争諮問委員会に問題を付議することになり、10月6日には、日本の行動は9 カ国条約及び不戦条約に違反するものであり、連盟は9カ国条約加盟国会議を開くように勧告する報告を採択した。10月5日 米大統領ルーズベルトは、侵略 国を伝染病にたとえ隔離する実際的措置をとる必要があると演説した。11月3日 ブリュッセルで開かれた9ヶ国条約会議に日本は出席を拒否し、我が国は国 際世論との対立を深めた。しかし米英ともに経済封鎖などの実効ある対日制裁には反対した。日本と同様に米英も対立を深めたくないと望んでいたのである。

10月27日 廣田外相は各国の外交代表を招き第3国の公平なる和平斡旋を依頼した。外相の狙いはドイツの仲 介にあった。またドイツも日本が支那との戦乱に深入りし米英ソとの牽制する力を弱めることを好まなかった。
11月6日 トラウトマン駐支独大使を通じて蒋介石に伝えられた日本の条件は以下のようなものであった。

 @ 内蒙古自治政権の樹立
 A 満州国境から天津・北京にわたる間に非武装地帯を設定
 B 上海の停戦地帯の拡大と国際警察での管理
 C 抗日政策の廃止
 D 防共協定の締結
 E 日本商品に対する関税引き下げ
 F 外国人権利の尊重

12月2日 トラウトマンは南京で蒋介石総統に会った。このころは支那側にも和平論が台頭し、汪兆銘(汪精 衛)はしきりに和平を蒋介石に勧告していた。この情勢下で蒋介石は「支那は講和交渉の一つの基礎として日本の要求を受諾する。 @北支の宗主権、 A領土 保全権 B行政権に変更を加えない 等を提議し、協調的精神をもって日本の要求を討議し、諒解に達する用意がある。日本からも同様のことを期待する。」と 告げた。 すなわち、領土主権を条件に日本側提示の条件を和平会談の基礎とすることに同意したのであった。

12月13日 日本軍は首都南京を攻略した。戦勝気分は講和条件の内容に大きな影響を与えた。南京を攻略すれ ば蒋介石は屈伏するかもしれない、屈服せずとも一地方政権にすぎなくなる蒋介石と和平交渉する必要なし、とする主張が関東軍などから高まった。政府側も戦 果拡大に伴って11月2日の条件を加重しようという意見が強まっており、蒋介石要求の華北主権の保持などが伝えられると、閣議では廣田外相、近衛首相らが 条件加重について発言 「だいたい敗者としての言辞無礼なりと結論に達し」(支那事変戦争指導史)、「かかる条件で国民は納得するかね」(末次内相)、と いう空気であった。

12月22日 廣田外相からディルクセン駐日独大使に伝えられた新たな講和条件には、@満州国の正式承認、A 我が占領地域を非武装地帯とする B賠償の支払い など新しい要求が含まれていた。この加重条件では和平成立の公算はなくなるから再検討したいという石射 外務省東亜局長や風見書記官長の意見は無視された。さらに蒋介石の回答が遅れたことも日本側を硬化させた一因であった。

統帥部は作戦継続に自信が持てないことを暗に主張しており、参謀本部の秩父宮殿下や多田参謀次長は寛大な条件 での戦局収拾を強く希望した。だが近衛首相、広田外相、杉山陸相、米内海相ら政府側は「支那側に誠意なし」、「屈伏するまで作戦は続行すべし」として強硬 姿勢を崩さず、日本側の要求した回答期限の日、昭和13年1月15日 多田次長は「涙を飲んで」政府側に譲歩し、翌16日「帝国政府は爾後国民政府を対手 とせず…」とする政府声明を発表した。

これによって長期持久戦は必至となったが、この時期兵器弾薬・資材等は不十分極まりない状況であった。敵国の 首都攻略という華やかな成功が、大局的な戦争指導を誤らせたのは明白である。政治指導者たちは国力・軍事力の実状を把握し、冷厳に判断すべきであった。統 帥部の意見を容れず国民政府を相手にせずの声明を発した事は、責任を放棄したに等しく、無為無能が招いた最大の不幸であった。


支那事変1/支那事変の背景 蘆溝橋事件 事変の本質 など
支那事変2/上海会戦 南京攻略戦 トラウトマン工作 ほか
支那事変3/徐州作戦 武漢作戦 広東作戦 など
支那事変4/南寧作戦 海南島作戦 中共の戦略 援蒋ルート 米英ソとの関係
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