===== トラウトマン工作 ===
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日支の和平工作は、7月中旬の近衛首相または廣田外相の南京訪問案、近衛首相の宮崎龍之介派遣案、外務省の国交調整案などがあったがいずれも実現せず、戦
局は拡大の一途を辿った。 第18回国際連盟総会は支那側の提訴によって日華紛争諮問委員会に問題を付議することになり、10月6日には、日本の行動は9
カ国条約及び不戦条約に違反するものであり、連盟は9カ国条約加盟国会議を開くように勧告する報告を採択した。10月5日 米大統領ルーズベルトは、侵略
国を伝染病にたとえ隔離する実際的措置をとる必要があると演説した。11月3日 ブリュッセルで開かれた9ヶ国条約会議に日本は出席を拒否し、我が国は国
際世論との対立を深めた。しかし米英ともに経済封鎖などの実効ある対日制裁には反対した。日本と同様に米英も対立を深めたくないと望んでいたのである。
10月27日 廣田外相は各国の外交代表を招き第3国の公平なる和平斡旋を依頼した。外相の狙いはドイツの仲
介にあった。またドイツも日本が支那との戦乱に深入りし米英ソとの牽制する力を弱めることを好まなかった。
11月6日 トラウトマン駐支独大使を通じて蒋介石に伝えられた日本の条件は以下のようなものであった。
@ 内蒙古自治政権の樹立
A 満州国境から天津・北京にわたる間に非武装地帯を設定
B 上海の停戦地帯の拡大と国際警察での管理
C 抗日政策の廃止
D 防共協定の締結
E 日本商品に対する関税引き下げ
F 外国人権利の尊重
12月2日 トラウトマンは南京で蒋介石総統に会った。このころは支那側にも和平論が台頭し、汪兆銘(汪精
衛)はしきりに和平を蒋介石に勧告していた。この情勢下で蒋介石は「支那は講和交渉の一つの基礎として日本の要求を受諾する。 @北支の宗主権、 A領土
保全権 B行政権に変更を加えない 等を提議し、協調的精神をもって日本の要求を討議し、諒解に達する用意がある。日本からも同様のことを期待する。」と
告げた。 すなわち、領土主権を条件に日本側提示の条件を和平会談の基礎とすることに同意したのであった。
12月13日 日本軍は首都南京を攻略した。戦勝気分は講和条件の内容に大きな影響を与えた。南京を攻略すれ
ば蒋介石は屈伏するかもしれない、屈服せずとも一地方政権にすぎなくなる蒋介石と和平交渉する必要なし、とする主張が関東軍などから高まった。政府側も戦
果拡大に伴って11月2日の条件を加重しようという意見が強まっており、蒋介石要求の華北主権の保持などが伝えられると、閣議では廣田外相、近衛首相らが
条件加重について発言 「だいたい敗者としての言辞無礼なりと結論に達し」(支那事変戦争指導史)、「かかる条件で国民は納得するかね」(末次内相)、と
いう空気であった。
12月22日 廣田外相からディルクセン駐日独大使に伝えられた新たな講和条件には、@満州国の正式承認、A
我が占領地域を非武装地帯とする B賠償の支払い など新しい要求が含まれていた。この加重条件では和平成立の公算はなくなるから再検討したいという石射
外務省東亜局長や風見書記官長の意見は無視された。さらに蒋介石の回答が遅れたことも日本側を硬化させた一因であった。
統帥部は作戦継続に自信が持てないことを暗に主張しており、参謀本部の秩父宮殿下や多田参謀次長は寛大な条件
での戦局収拾を強く希望した。だが近衛首相、広田外相、杉山陸相、米内海相ら政府側は「支那側に誠意なし」、「屈伏するまで作戦は続行すべし」として強硬
姿勢を崩さず、日本側の要求した回答期限の日、昭和13年1月15日 多田次長は「涙を飲んで」政府側に譲歩し、翌16日「帝国政府は爾後国民政府を対手
とせず…」とする政府声明を発表した。
これによって長期持久戦は必至となったが、この時期兵器弾薬・資材等は不十分極まりない状況であった。敵国の
首都攻略という華やかな成功が、大局的な戦争指導を誤らせたのは明白である。政治指導者たちは国力・軍事力の実状を把握し、冷厳に判断すべきであった。統
帥部の意見を容れず国民政府を相手にせずの声明を発した事は、責任を放棄したに等しく、無為無能が招いた最大の不幸であった。
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