===== 近衛声明にみる支那事変の本質 =====
昭和12年、事変勃発時は局地解決を意図していたこともあり「北支事変」と称した。その後中支に拡大するに従って
政府は「支那事変」と改称するに至った。
| 昭和12年7月11日 |
政府は今次事件を「北支事変」と命名 |
| 昭和12年9月 2日 |
閣議で北支事変を「支那事変」と改称決定 |
「日華事変」というのは後の俗称であり、「日中戦争」などは歴史上存在しない架空の出来事である。日本は支那
に対して正式に宣戦を布告することはなく、蒋介石政権も対日宣戦は行わなかった。(蒋介石が日独伊に宣戦を布告したのは大東亜戦争勃発後の昭和16年12
月9日である。) 日支両国ともに全面戦争になることを避け、常に解決の糸口を探していたからである。
昭和13年12月 閣議決定された「日支新関係調整方針」に基づき、12月22日、いわゆる近衛声明と呼ばれ
る東亜新秩序建設の声明が発表された。 これは支那事変の目的を明らかにした基本方針で、支那事変の本質を明確に現したものである。
@ 支那は満州国を承認し、日本は支那の独立主権を尊重する
A 領土の割譲を求めず、賠償を要求しない(在華居留民の権利利益の損害は除く)
B 治外法権を日本は放棄し、租界地返却を考慮
C 防共地域以外のすべての地域からの2年以内の撤兵
D 日支防共協定の締結、日本軍の防共駐屯
E 第3国の権益を損なわず=日本のみが経済開発を独占しない
我が国はあくまで事変として処理し、領土的野心も賠償も求めていなかった。米英ソの力を背景に、抗日・遠交近
攻政策をとる蒋介石に反省を促すことにあった。事変当初は日支の間には外交関係は断絶していなかった。また両国間の条約は依然効力を保持していた。従って
降伏してきた支那兵を釈放することもあったし日本在住の支那人は敵国人として収容されることもなかった。
@ 米国の中立法発動などによって戦時物資の輸入が困難になることを恐れた
A 大義名分がなかったので、戦争ではなく事変だと「国民をごまかした」
などが宣戦布告は行われなかった理由である。(特にAは左翼史観によって強調されることが多い) それも一面
では真実であるし(内閣に第4委員会を設置し、宣戦布告について利害研究が行われた)、大本営が設置されるほどの「事実上の全面戦争」であったのは紛れも
ない事実ではあるが、表面上の事象のみみて「日中戦争」などと称するは歴史の歪曲であると断じる。 なぜ「戦争」ではなく「事変」なのか? 以下の点に留
意して支那事変の本質を理解する必要がある。
@ 蒋介石に抗日・悔日政策を改めさせ、現地日本人に対する非道に反省を求めるのが目的であった。
A 英国による阿片戦争などと異なり、我が国に領土的野心などは全くなかった。
A 事変後も依然として条約関係は効力を保持し、両国は事変解決の交渉を継続していた。
B 戦争に持ちこまないことで、第3国の権益を制限しないように配慮した。
C 宣戦布告のない場合、以下の制約が発生したが敢えて受忍した。
1)港の税関の接収ができず、郵政・金融など占領地行政に不便をきたす
2)親日派の支那人指導者が日本の決意に疑念を抱くため、新政権樹立に熱意が欠ける
3)作戦行動に制約を受け、不徹底となる
4)「九ヶ国条約」(大正11年)違反の抗議を各国から受けることになる
支那事変を「日中戦争」などと詐称する事こそ「歴史のごまかし」である。
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