日本のお姉さんのアジア! ――― by 日本のお姉さん
☆ フィリピンの独立とマッカーサー ―――――――― 2007/09/17

フィリピンで支配者として君臨していたアメリカ極東軍司令官マッカーサーが
日本軍に負けて落ち延びる時に、"I shall return!!"(私は必ず戻ってくる)と
言ったのは有名な話。

アメリカがフィリピンを統治する前はフィリピンはスペイン領だった。

元々マレー系・インドネシア系の人間が何百万人も住んでいる島々で、住民は
イスラム教徒だった。

1521年に、スペイン国王に仕えていたポルトガル人の冒険家マゼランが、
セウ島にやってきた。マゼランは、現地人からみると侵略者だったので、マク
タン島のラップラップ王に殺された。――――なので、フィリピンではラップ
ラップ王は西洋と戦った最初の東洋人として敬われている。

スペインにしてみれば、マゼランによって「発見された」未開の島々はスペイ
ンの領土だったので、メキシコから軍隊を派遣して、1565年にルソン島を
平定。1571年にはマニラを建設。1593年にはスペイン皇太子の名前で
あるフィリップスの名にちなんでフィリピンと名付けた。そしてスペインの影
響下でカトリック教徒が増えていった。

1590年代にはルソン島には日・中混合の倭寇の基地があり、後に日本人町
もできた。徳川幕府とフィリピン総督の合意によって朱印船貿易が始まると、
貿易は更に拡大し、1620年代に日本人町の人口はおよそ3000人になっ
ていた。

徳川時代には、マニラに多数の日本人キリスト教徒が避難してきた。1614
年には、キリシタン大名だった高山右近が追放されてやってきた。ーーー19
36年の鎖国令以降は、本国との関係が絶たれ、日本人町は衰退した。

フィリピンでイスラム教徒が多数を占めるのは、スルー諸島とミンダナオ西部
の一部だけとなった。ミンダナオのイスラム教徒は、アメリカに対しても抵抗
した。日本占領時代、「モロ大隊」と呼ばれたミンダナオのイスラム教徒も、
抗日人民軍と同様に日本軍に抵抗した。――――しかし、アメリカ極東軍は、
日本軍を駆逐した後はモロ大隊に武器を供給しなかった。

フィリピンは1821年のメキシコ独立までメキシコ副王領として統治され、
その後本国スペインの直轄領となった。その間、イギリスやフランスなど諸外
国の攻撃を受けた。なかでもスペインから独立したオランダの攻撃は激しく、
1600年から1848年まで続いた。

イギリスは、1762年にスペインに宣戦布告し、東インド会社の軍がマニラ
を攻撃、2年間占領したがその後撤退した。

1872年、スペインはフィリピン神父やカピテの労働者のストを、政府転覆
の陰謀として処刑した。それからは苛酷な植民地支配を緩和するどころかいっ
そう弾圧と搾取の度合いを増したので、1892年にホセ・リサールがフィリ
ピン民族同盟を結成した。しかし結成から僅か四日後にはホセ・リサールは流
刑されてしまう。

その後、エミリオ・アギナルドと、アルテミオ・リカルテも独立運動を起こし
た。大勢が彼らの側についたので、見せしめのためにリサールは、何万人もの
民衆の前で処刑された。

アギナルドは、スペインにかまわず独立国を作り、初代大統領に治まり、民族
同盟の幹部のひとりだったアンドレス・ボニファシオがスペイン軍を攻撃した
ら彼を処刑してしまった。――――アギナルドはスペインから、革命を放棄し
たら金をやると誘いを受けてそれをのみ、自らは香港へ逃げた。

アルテミオ・リカルテは独立運動を続けていた。

スペイン領キューバで独立運動が始まったため、アメリカはキューバでアメリ
カが投資しているトウモロコシ農業や葉巻産業を守るため、キューバに戦艦を
派遣した。その戦艦が撃沈されたので、1898年4月、アメリカはスペイン
に宣戦布告し、極東戦隊をフィリピンに進攻させた。

アメリカ艦隊はスペイン艦隊を破ってマニラ港に入った。そこでアメリカは、
「フィリピンの独立軍を援助する」と宣言したのでリカルテはそれを信じた。

アメリカは、香港からアギナルドも連れてきた。スペイン軍はすべてのフィリ
ピン人とアメリカ軍の両方と戦う羽目になり、1898年8月に首都マニラが
陥落した。

ところがアメリカは、革命軍はマニラに入らせず、アメリカ軍が入ってそのま
ま居座った。アギナルドは、マロロスを首都として大統領となった。マビニが
総理大臣になった。

1898年12月の米西戦争の講和会議でも、アギナルド大統領は特使を派遣
してフィリピンの独立を主張しようとしたが、アメリカは特使の派遣を許さず
パリの講和会議でスペインに2千万ドルを支払い、フィリピンはアメリカ領に
されてしまった。キューバもアメリカが保護国となった。

マッキンレー大統領は、軍政布告の中で友愛的同化を宣言し、できる限りの民
主化を保証し寛容な支配を約束した。――――しかしアメリカ領有にフィリピ
ン側は激しく抗議し、1899年2月、米比戦争が勃発。アメリカはわざと紛
争になるように仕向け、8万人のアメリカ軍をフィリピンに送ってルソン島の
革命軍を潰した。

リカルテ将軍は、ゲリラ戦をするしか道がなくなってしまった。リカルテ独立
軍司令官は日本に武器援助を申し込む。アメリカ政府は日本に、フィリピンに
武器援助をしないでくれと公式に要請をしてきていたが、日本政府はこっそり
三井物産の古い貨物船を売却。

これがボロ船だったため、暴風雨に遭って300トンの武器と共にこの船は沈
んでしまった。武器を購入するための40万ドルは、アギナルドがスペインか
らもらった金が使われた。ポンセ外相は、余った金をシナ革命の実行のために
孫文に渡したと述べている。

アメリカがフィリピンに送った8万のアメリカ軍の軍政長官はマッカーサーの
父アーサー・マッカーサーで、息子のダグラス・マッカーサーは副官だった。

リカルテ独立軍司令官もアギナルド大統領も逮捕され、グアムに流刑された。
グアムは今では観光地だが、当時はコレラ・マラリア・その他の風土病が蔓延
する地獄のような島で、3年間で、90人いた捕虜となった革命軍兵士は次々
と死に、28人になってしまった。

アメリカはアギナルドに忠誠を誓わせて家と年金を与えた。グアムの26人に
も忠誠を誓わせて自由にしたが、リカルテとマビニ元総理大臣だけは誓いを拒
否したのでマニラの監獄に移された。マビニ元総理大臣はマニラでコレラにか
かり獄死した。リカルテは香港に追放された。

1902年、フィリピン法案が米議会で成立すると、アーサー・マッカーサー
軍政長官にあった行政権も民政長官へ移った。アメリカはフィリピンに国会の
開設や米議会への代表派遣(2名、投票権無し)を約束した。

香港からこっそりフィリピンに戻ってバターン半島に隠れていたリカルテが、
1905年(明治38年)5月27日にアメリカ軍に捕まり、マニラのビリビッ
ト監獄に収監される。6年目に、アメリカに忠誠を誓えば家と年金を与えると
言われたが再度拒否したので、また香港の無人島ラマ島に流された。

1914年に欧州戦争が起き、イギリスはインド人をヨーロッパ戦線に送った
が、インド人の中には拒否して独立運動に走る者もいた。リカルテも反戦運動
をまわりに勧めたという疑いで拉致され、上海の監獄に入れられていた。――
――そこでリカルテの奥さんが上海に行き、シナ人の守衛を買収して抜け出し
二人で日本に亡命した。

1907年に第一回総選挙。

即時独立を求めるナショナリスタ党が勝利し、10月に議会が発足。フィリピ
ンはアメリカに独立を要求していく。米議会は1933年に10年間の準備期
間の後に独立を認めるという法案を可決。――――1944年に完全独立させ
ると約束して、1934年に半独立のフィリピン連邦政府憲法が制定されリカ
ルテ将軍の部下だったケソンが大統領となった。

戦前のフィリピンには日本人が3万人以上いて、マニラ麻を輸出したり、多数
の漁師がマニラのトンド海岸で漁業をしており、フィリピン人と仲良く暮らし
ていた。アメリカは、フィリピンに大量の教師、牧師、神父、医師、記者を送
り込んでいた。

金持ちのフィリピン人は子供をアメリカに留学させるのが常だったが、アメリ
カではフィリピン人は差別されたので、留学生はアメリカ嫌いになって帰って
きたそうだ。

当時、アメリカに渡った日本移民もアメリカ人に激しく差別されており、日本
自体もアメリカから様々な圧迫を受けていたので、フィリピンと日本は互いに
同じアジア人として共感する部分があった。

そんなおりの1935年に、フィリピンの即時完全独立を目指すサクダル党の
ベニグノ・ラモス党首ら幹部が日本を訪問し、フィリピン独立に協力的な団体
と会っていた。その最中にフィリピンで農民暴動が起こり、アメリカ軍は暴動
を理由にサクダル党を全滅させてしまった。

ダグラス・マッカーサーは、1935(昭和10)年に参謀総長を退任し、未来
の大統領で友人であるケソンに呼ばれ、フィリピン軍の軍事顧問に就任。高等
弁務官を兼任して高額の報酬を得ると共に、フィリピン財界の主要メンバーと
なった。さらにアメリカ資本の在フィリピン企業に投資して財を築いた。

ケソンはマッカーサーに「フィリピン軍元帥」の称号を与えた。1937年、
マッカーサーは本国召還を避け軍事顧問として留まるため米陸軍を退役した。

1940年、大東亜戦争が起こる前年、ケソンは横浜にいるリカルテに帰国を
促すが、リカルテは「フィリピンに星条旗が翻っている限りわしは帰らん!」
と断った。

1941年7月、マッカーサーはルーズベルト大統領の要請を受け、フィリピ
ン駐屯のアメリカ極東軍司令官となった――――。

1941(昭和16)年12月8日、大東亜戦争が始まり、9日には日本に亡命
中のリカルテ将軍が陸軍参謀本部に呼ばれ、日本軍のフィリピン作戦への協力
を要請された。リカルテは「日本がフィリピンの独立を認めてくれるなら協力
を惜しまない」と答えた。

日本は、資源の無いフィリピンを植民地にするつもりはなく、アメリカ軍がそ
こにいたからという軍事的な理由で攻めた。1941年3月の日本政府の「南
方作戦における占領地統治要綱案」には――――「フィリピン攻略は米軍の根
拠地破壊が目的で、物資獲得は重視しない。フィリピン政府が米側になったと
しても、懐柔させる作戦は採らない」と明記されている。

リカルテ将軍は、日本軍と共にルソン島に飛び、首都マニラに迫ったが、リカ
ルテ将軍が「まずバターン半島の制圧が先だ」と主張するのに、日本軍は聞か
ず、あせって首都攻略を目指した。

マッカーサーは、日本陸軍航空隊の攻撃で自軍の航空機を破壊されると、マニ
ラ無防備都市宣言を発し、26日マニラを出てバターン半島とコレヒドール島
に篭り、2ヶ月にわたって日本軍を相手に善戦した。そうなるとアメリカでは
マッカーサーの人気が上がってきた。

しかしアメリカはフィリピンに応援部隊を送らなかった。ーーー送れなかった
のだ。ハワイの太平洋艦隊が、日本海軍の奇襲攻撃で壊滅していたからだ。

ルーズベルト大統領は、人気者のマッカーサーが死ぬと国民の士気に悪い影響
があると考え、マッカーサーとケソン大統領にオーストラリアに撤退するよう
命令した。ケソン大統領はダグラス・マッカーサーの功績を称え、フィリピン
国庫より彼の口座に50万ドルを振込み、14万ドルを米軍高官に支払った。

フィリピン人のケソンとオスメーニャはアメリカに亡命した。結局、マッカー
サーはフィリピンを去ることになる。その時"I shall return!!"と軽い気持で
言ったのだそうだ。それがフィリピン人には、自分の意志を表すwillを使わず
shall を使ったということで、自然の摂理でまた戻るという意味に聞こえたの
だそうだ。

マッカーサーと家族と幕僚は魚雷艇でミンダナオ島へ脱出、パイナップル畑の
秘密飛行場からB−17でオーストラリアへと飛び立ったが、この敵前逃亡は
マッカーサーの自尊心をいたく傷つけた。ーーーオーストラリアで彼は南西太
平洋方面の連合国軍総司令官に就任した。

日本軍は首都マニラで軍政を始めたが、昨日までアメリカと一体となっていた
親米派の政府をそのまま起用し、司法制度もそのまま存続させた。刑務所にい
たサクダル党のベニグノ・ラモス党首を救出したが、彼やリカルテ将軍などの
親日派を使わなかった。

そして、軍政をひくと同時に独立運動を禁止したので、親日家が一気に反日家
に変わってしまった。しかも日本軍はフィリピン人に手荒な応対をしたので評
判は悪かった。戦いでマニラの街も瓦礫の山にしてしまった。

1943年4月には、セブ島で遭難した福留中尉が抗日ゲリラに捕まり、その
時に連合艦隊の次期作戦計画書や暗号解読書をゲリラに奪われたのに、そのま
ま作戦を実行したので、手の内は全てアメリカに知られてしまっていた。

1943年5月、東条首相がマニラで、数万のフィリピン人を前にしてフィリ
ピンの独立を公約した。10月にはホセ・パシアノ・ラウレルが初代大統領に
なった。しかし、国民はリカルテ将軍を支持していたので、日本のやり方に納
得しなかった。反米の民族主義者達は日本に期待を寄せたが、日本占領下では
期待は裏切られた。

サクダル党などは、日本軍がルソン島に来た時に、胸に日の丸をつけて日本兵
の世話をしたのに完全に無視されたばかりか、ラウレル大統領に「あいつらは
強盗集団だ」と告げ口されて、日本軍に武器を取り上げられ、丸腰のサクダル
党はアメリカ側のゲリラにやられて大勢が死傷した。

日本軍政の経済政策は失敗し、フィリピン人の生活は窮乏、ゲリラ活動は益々
激しくなった。大本営は、昭和19年8月に、マレー作戦でマレーの虎とよば
れた山下奉文大将をフィリピンに送ったが時は既に遅かった。大本営はレイテ
沖海戦の敗北は誰にも知らさなかったので、山下大将まで一時は勝ったと思い
こんでいたそうだ。

1944年10月23日、マッカーサーはオスメーニャとともにレイテ島レイ
テ湾に上陸した。連合軍全体の作戦ではフィリピンを迂回して日本本土を目指
す予定であったが、マッカーサーが強く要望したのだ。マッカーサーがフィリ
ピンに拘ったもう一つの理由は、フィリピンに蓄積していた「彼の私的財産の
確保」であったという。

上陸した際マッカーサーは戦場のスピーカーを通じて「フィリピン市民諸君、
私は帰ってきた!わが軍はアメリカ、フィリピン両国民の血で清められた土の
上に再び立っている。全将兵よ団結せよ!」と放送した。ミンダナオ島やレイ
テ島では、抗日ゲリラがアメリカと共に日本軍に対して戦った。

山下大将はフィリピン愛国国民軍(マカピリ)の創設を許可し、独立運動者と共
にアメリカ軍と戦ったが、ジャングルの戦いで苦戦した。レイテ地上戦は山下
大将は猛反対したが、大本営の命令で決行され、全兵力の97%が戦死または
餓死した。――――その時一緒にジャングルを歩き回ってアメリカ軍と戦った
フィリピン愛国国民軍の生き残りの兵士は、今でも日本に好意を持ってくれて
いるのだそうだ。

マカビリの党首ベニグノ・ラモスは、彼と若い妻が赤ちゃんを抱えてジャング
ルを歩いていたのを最後に見た人がいるが、その後どうなったのか誰も知らな
い。
翌1945(昭和20)年、マッカーサーは全土の奪還に成功。8月15日戦争
が終結すると、日本に亡命していたラウレルは、17日に共和国を解散した。

9月3日に山下将軍が降伏。マッカーサーは、シンガポールで日本軍に降伏し
たイギリスのパーシバル将軍をわざわざ連れてきて山下大将と会わせた。山下
大将は死にたい気分になったそうだ。マッカーサーはけっこう意地が悪い。

日本陸軍の司令官であった本間雅晴陸軍中将が、戦後「バターン死の行進」の
責任を問われ処刑されたが、自尊心を傷つけられたマッカーサーの個人的な復
讐であったという説もある。

フィリピンでは、戦後大勢の日本兵がB級C級戦犯の名目で、弁護人もつけな
い裁判で次々に処刑された。中には、無実であるのに弁護する機会も与えられ
ず処刑された人もいる。

フィリピンは、戦争が終わった1年後の1946年7月4日に独立を宣言。

ロハスが第1代大統領に就任しフィリピン共和国が誕生した。フィリピンの独
立は、自ら勝ち取ったというより、与えられたという面が強く、独立後もアメ
リカの強い影響下に置かれた――――。スペイン支配時代の大土地所有者は、
アメリカ支配時代に益々力を蓄え、小作農や労働者達の貧困は解消されなかっ
たので共産主義が根付いていった。

1953年、キリノ大統領は、モンテンルパ、ビリビッド刑務所に収容されて
いた日本人戦犯108名(53名の死刑囚を含む)を恩赦令で解放し日本へ送還
した。当時、病気療養中であったキリノ大統領はこう語ったそうだ。
┌--------
長い間、日本人戦犯の恩赦要求を熱烈に受けていたが、最後の最後まで許すこ
とができませんでした。自分の妻、子供3人と自分の家族5人を日本軍に殺さ
れたからです。でも、もしわたしがこの個人的な恨みを持ち続けるなら、わた
しの子供たちも永遠に恨みを持ち続けるでしょう。

将来フィリピンは、隣り合わせの日本とはあらゆる点で親しく助け合って発展
していかなければなりません。そのためにも、私恨を断ち切らなければならな
いと思ったのです。
└--------

1956年に日比賠償協定が調印され国交正常化がなされた。賠償支払い後は
政府開発援助が始まる。

1992年に全ての米軍が撤退したが、1995年2月に、チャイナが南シナ
海でフィリピンが主張する排他的経済水域の中にあるミスチーフ礁に軍事建造
物を構築した。

90年代初頭から、モロ・イスラム解放戦線MILF離脱組がイスラム原理主
義グループに合流し、事件を起こすようになった。現在のフィリピンのイスラ
ム教徒人口は全人口の5%にも満たない。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

フィリピンの独立は、寛大なアメリカによってもたらされたという印象を受け
がちであるが、ーーー歴史を眺めてみるとアメリカは結構狡[こ]すからい。

独立してからもフィリピンはアメリカに悩まされている。簡単には自立させて
もらえなかったようだ。ーーーしかし米軍が去ると、すぐチャイナに南シナ海
のミスチーフ礁を占領されている例は、日本も大いに参考にすべきである。

アメリカは、フィリピンに入ったアルカイダ系のイスラム過激派を駆逐する際
も、フィリピン軍を訓練するなどの援助をしている。アメリカと関係の深かっ
たフィリピンは、今の日本と似ている部分がある。

フィリピン人は、ヨーロッパとアメリカの影響を深く受けており、アジア人と
いうよりも西洋人っぽい。フィリピン人の中には、日本に対して悪感情を持つ
人がいるそうだが、故マルコス大統領の時代に、日本が賠償を済ませて援助も
キチンとしたため、親日のフィリピン人が増えたそうだ。

日本は将来、隣り合わせのフィリピンとあらゆる点で親しく助け合い、発展し
ていかなければならないのだと思う。

                        = この稿おわり =
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