日本のお姉さんのアジア! ――― by 日本のお姉さん
☆ シンガポールの独立と日本人 ―――――――――― 2007/09/03

シンガポールは、サンスクリット語のシンハプラという言葉からきた言葉で、
ライオンの町という意味だそうだ。シンガポールの象徴となっているマーライ
オンは、古い地名の「海の町(テマセク)」と、「ライオンの町(シンハプラ)」
をいっしょにして、マーメイド(人魚)でなくて、頭がライオンのマーライオン
(獅子魚)を作ろうということになったそうだ。

シンガポールの伝説では、スマトラのアレキサンダーの末裔が、ビンタンの王
女と結婚して、1160年にシンハプラを建設したという。1252年にジャ
ワのマジャパイト王朝に攻撃されて米も採れないような場所になったといわれ
ている。その後は、何十人かのマレー漁民が住むだけの島となっていた。

1819年、西インド生まれのラッフルズが、マレー半島ジョホールのサルタ
ン(王様)から、5万ドルでシンガポール島を購入した。ラッフルズはバタビア
(現ジャカルタ)の副総督だった。ウィーン会議でイギリスはマラッカを捨てた
が、ラッフルズはその代わりにシンガポールを領有するよう総督を説得した。

ラッフルズが1826年に死んだ後、アヘン戦争でイギリスは香港を得た。ま
たイギリスは、スエズ運河の株券をフランスから買い、エジプトを支配した。

1828年にはマレーの4州を支配し、ジョホールも植民地にし、ビルマも制
圧した。イギリスはインドばかりでなく、ビルマ、シンガポール、マレー、北
ボルネオ、香港をほぼ同時に手に入れた。

ワシントン会議の後は英米で日本を圧迫しようということになり、シンガポー
ルがイギリスの軍事拠点となった。

シンガポールには十ヶ所近くの航空基地が建設された。周辺の島々がまず要塞
化された。18インチの大砲や浮ドックが用意された。100万トン入りの重
油タンクも備え、イギリスは15年の期間と、当時の金で4億円をかけ、シン
ガポールを世界の四大要塞のひとつと呼ばれる大要塞に変貌させた。

大東亜戦争の勃発を予測して、イギリス本国から世界最新鋭の戦艦、プリンス
オブウェールズと巡洋戦艦レパルスが、上陸してくる日本軍を迎え撃つために
シンガポールに向かった。

1941年(昭和16年)12月8日、日本時間の午前1時30分、日本軍はマ
レー半島コタバルに上陸した。真珠湾攻撃は12月8日の日本時間で午前3時
25分なので、コタバル上陸のほうが早い。

プリンスオブウェールズとレパルスは8日午後6時55分に出撃したが、航空
部隊の支援はなかった。そのため日本軍の爆撃隊や雷撃隊によって攻撃され、
12月10日午後2時29分から50分までの間に、レパルスは轟沈、プリン
スオブウェールズも撃沈された。フィリップス英東洋艦隊司令官は艦を降りる
のを拒否してプリンスオブウェールズと運命を共にした。

日本軍は、シャム湾シンゴラと、コタバルとパタニの三ヶ所に上陸。シンゴラ
とパタニに上陸した部隊はマレー半島西海岸を自転車で南下した。1942年
1月28日に合流、マレー人は熱烈な親日感情で日本軍に協力した。

1月31日には、マレー半島の南端ジョホールバールに突入。シンガポールは
マラッカ海峡へ向けて要塞を築いていたので、その方面には大小の砲塔が配備
されていて、日本軍に対抗数する手段がなかったのでマレー半島から突入する
ことになったのだった。

2月8日にから総攻撃を行い、2月11日には、英語とシナ語の投降勧告文を
納めた通信筒やビラを空から散布。イギリス軍とオーストラリア軍と華僑の義
勇軍は勧告に応じず、ブキティマ砲台やアンモキオ渓谷では激しい突撃戦が行
われた。

15日にイギリスが停戦を申し出てくる。ブキティマ高地の自動車工場の中で
パーシバル中将ら4名と、山下奉文[ともゆき]中将との会談が行われた。2月
11日には、日本軍部隊の一部がスマトラとビルマに転用されることが決まっ
ていたため、山下中将には時間が無かった。日本軍の携行していた食料も砲弾
も弾薬も多くはなかった。

パーシバル中将が、交渉の条件のひとつひとつに注文をつけ始め、日本側の通
訳も上手ではなく交渉がゴタゴタしかけていた。山下中将は、回りくどい通訳
に「君はイエスかノーかだけを聞けばいいのだ」とちょっと強く言ったところ
「イエスかノーか」と迫ったというふうに伝わってしまったが、

実際は、パーシバル中将があまりにも青ざめていたので、大丈夫かと声をかけ
そうになったぐらいで、山下中将は礼儀正しい人だったそうである。山下中将
はパーシバル中将の願いを聞き入れ、日本軍のシンガポール入城を禁じ、十万
を超す連合軍の武装解除を速やかに行った。

本当は、日本軍は弾薬も尽きかけていて、なんとしてもイギリス軍を降伏させ
る必要があったので、降伏するのかしないのかまず確認したかっただけだった
ようだ。

1819年2月にシンガポールがイギリス領になってから120年。東洋支配
の牙城であったシンガポール要塞が陥落した1942年2月15日が、初めて
アジア人が西洋列強の軍を破った記念の日であり、アジアの国々が独立する第
一歩となった日である。

塹壕から、ゴム林から、ジャングルから、日本兵がバンザイの歓声と共に走り
出て、投降してくるインド人兵士は、「イギリスはこれでアジアから去る!次
はインドだ!」と、飛び上がって喜んでいた。

クアラルンプールに住むあるマレーシア人は、「我々マレーシア人は、長い間
イギリス人には何もかも劣る、とても勝ち目はないと諦めていましたが、あの
時、我々と同じアジア人である日本人が、我々の目の前でイギリス軍を叩きの
めしてくれたのを見て大変自信がつきました。独立の願いが実現するのではな
いかと」と言っている。

1942年2月15日から1945年9月12日までの3年半、マレー半島と
シンガポールを日本軍が占領していたが、日本が負けると再びイギリスの支配
下に戻った。しかし、民衆に白人優位の意識すでになく、1959年、自治政
府が設立され、1963年、マレー半島とボルネオ島北西部、シンガポールが
マレーシア連邦としてイギリスから独立した。

マレー人の多いマレーシア連邦はマレー人優遇政策をとったため、華僑が7割
だったシンガポール島では、華人とマレー人が対立する事件が後を絶たずデモ
や暴動が続発。1965年8月9日、シンガポールはマレーシア連邦から追い
出されるように分離独立し、シンガポール共和国を建国した。

初代首相のリー・クアン・ユーは、ルックジャパン政策を掲げて、英才教育と
公共道徳・インフラ整備に力を入れ、国を発展させた。不安の中で独立したシ
ンガポールは、多人種主義・能力主義・実用主義を打ち出して国を発展させ、
最近では、日本の東京都知事が、シンガポールの英才教育現場を見学に行くま
でになっている。

リー・クアン・ユーは、不道徳なことをしなかった山下奉文中将の兵団に通訳
として出入りしており、日本民族の美点と特徴を受け取ったと語っている。

リー・クアン・ユーは、能力によって、年が若くてもどんどん高い教育をうけ
ることができる英才教育システムや、高学歴の女性に高学歴の男性を政府が斡
旋するお見合い制度、高学歴の夫婦には、子供が3人以上生まれると多額の援
助を行い、低学歴の家族には、子供を2人にしておくなら特典を与えるなど、
独自の考えで出生率をあげてきた。

マレーシアから水を引き、精製してマレーシアに送り出し、シンガポールを車
で出るときはシンガポールでガソリンを一定量買わせる法律や、ガムやゴミを
道に落としたら莫大な罰金を払わせ、ボウフラを涌かせたら罰金を払わせる法
律を作って定期的にチェックさせ、車が増え過ぎないように許可制にしたり、
徹底的に国を管理している。

マンションでは、華僑だけが固まらないように、右隣はマレー人、左はインド
人というように、徹底的にバラバラにして同民族が固まって他民族と敵対しあ
わないようにしている。

二国語政策をとっているが、徐々に英語が主体になるようにしむけ、教育は英
語で行っている。法人税を下げ、外資に優遇処置をとって外資を誘致し、シン
ガポール人の留学生には、卒業間近になったらリクルート組織を差し向けてU
ターン就職をうながす。

政府が管理する個人名義の強制貯金口座に毎月給料から2割近い金額を強制的
に振り込ませて、医療費や、住宅購入、株式投資、年金のみに使うことができ
るようにしている。

男性は2年から2年半の兵役があるので、女性はその間社会で活躍している。
結婚してもシンガポール人は朝昼晩外食が基本なので、政府斡旋のフィリピン
人やインドネシア人のメイドを安く雇えるので、子供一人につき一人のメイド
を雇って仕事を続ける。

リー・クアン・ユーは1990年に引退したが、彼は今でも各方面に影響力を
与え続けている。

シンガポールは、東南アジアの中で唯一の先進国であり、国民1人当たりの購
買力は日本を抜いている。今はむしろ、日本のほうがシンガポールを見習わね
ばならない。

能力のある者に英才教育を受けられる機会を与える一方、学習能力が劣ってい
ても10年間の義務教育を受けさせ、得意な分野で能力を発揮できるチャンス
を与えるようにしている。

日本を発展させるには、リー・クアン・ユーのように国益を考え策を練るリー
ダーが必要だと思う。国が滅びたら国民の生活など誰も面倒をみてくれない。
国が滅びず発展していけば、国民生活も豊かになる。国民の生活を第一に考え
るなら、個人的な欲や自分の政党のためにではなく、国益を考えた政治をして
いかなければならない。

戦前は、日本とタイだけが、西洋の植民地にされなかったアジアでただ二つの
独立国だった。日本人は、弱ければいつでも侵呑しようとする欧米列強に囲ま
れていたので、独立を守るために必死になって頑張ってきたのだと思う。

シンガポールは、マレーシア連邦から追い出されるように独立したので、小さ
な島で生き残るための不安や恐れがあったことだろう。リー・クアン・ユーは
独立を宣言した日、国民の前で泣き出したそうである。ーーーそれでも、生き
残るために頑張ってシンガポールは今日の繁栄を築いた。

日本も、これからも生き残っていくために国際社会で高い地位を得ていかねば
ならず、テロ対策などで責任ある仕事を望まれたなら受けるべきである。また
日本が今後も発展を続けていくためには平和でなければならず、アジアで戦争
が起きないように努力する必要がある。

日本が外国の標的にされないように抑止力を持つことや、周辺国が侵呑しよう
という野心を起こさせないように、常に手を打っていくことも必要である。
周りの国々に対して、上手にアメとムチを使い分けるようにして、日本には何
をしても抵抗しない、何をしても大丈夫と思わせないようにするべきである。

シンガポールのまわりには、マレーシア・インドネシアなど、襲ってくるかも
しれない危険な国はないが、日本はどうだろうか。――――日本の首相には、

日本が独立を維持し、さらに発展するように、不安や恐れも糧にしてやるべき
ことをどんどん実行していってほしいと願う。

                        = この稿おわり =
┌―――――――――――――――――――――――――――――――――┘
▽
 参考資料:
「シンガポールの教育」
http://www.clair.or.jp/j/forum/forum/gyosei/075/INDEX.HTM#3
「アジアに生きる大東亜戦争」ASEANセンター編
「秘史太平洋戦争の指揮官たち」別冊歴史読本77号 新人物往来社
「シンガポール路地裏百科」トラベルジャーナル

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