日本のお姉さんのアジア! ――― by 日本のお姉さん
☆ ビルマ(現ミャンマー)の独立と日本人 ―――――― 2007/08/27

1941年(昭和16年)12月8日、日本は、アメリカ、イギリスに宣戦布告
をした。大本営は、イギリス軍のアジアの要衝であったシンガポール攻略を最
大の目標に、マレー作戦を実行した。

当時の日本政府と軍部は、シナとの単独講和を渇望していた。日本はシナに膨
大な戦費を使っていたので、なんとしても蒋介石と和睦したがっていた。開戦
当時の陸軍の総兵力は210万。そのうち、シナに68万の兵力を投下してお
り、満州、朝鮮に74万、内地に53万を配置し、南方戦線には15万しかい
なかった。

予算面でも、陸軍の臨時軍事費は104億円だったが、シナには1割8分を使
い、南方には9分しか使っていなかった――――。

日本はシナの戦線を終わらせたがっていたが、イギリス・アメリカには、日本
とシナの和睦は許せないもので、全力をあげてシナ国民党の蒋介石に武器援助
・戦費援助をし続けた。

イギリスとアメリカは、日本が広東の援蒋ルートを封鎖すれば、海南島方面に
ルートを作る。日本が海南島ルートを閉鎖すれば、仏印(インドシナ)にルート
を作る。日本が仏印に進駐すると、こんどはビルマのラングーンを起点とする
大規模な援蒋ルートを作った。

日本はシナ事変を終息させたかったので、このビルマルートを遮断しようとし
た。シナでは、南京に別の政権ができ、日満支一体となって東亜新秩序を建設
しようと協力していたが、紹介石は、尽きない軍事力と援助を得て日本に戦い
を挑み続けた。

大本営は、ビルマルートを閉鎖した後は、インドのインパールにインド国民軍
を入れ、そこを拠点としてインドとイギリスの分断を図るという考えだったら
しい。東条首相が、インド独立運動の志士チャンドラ・ボースとインド侵攻を
約束していた。明治時代からインドの独立運動は日本ではよく知られていた。
ガンジーのインド独立運動も有名だった。

牟田口中将は、日本軍とインド国民軍を、食料・弾薬の補給無しで、雨期の中
を、2000メートル級の山々を越えさせてインドのインパールに攻めに行か
せるという無謀な戦略を切望、上部に働きかけて作戦は決行されることとなっ
た。多くの者が反対したが、なぜか、彼の押しの強さによって、昭和19年3
月、インパール作戦は実行された。

そのころには、ガダルカナルでは日本軍は撤退を余儀なくされており、チャン
ドラ・ボーズは、日本軍の余力が無いのを知って焦っていた。ボースは「アラ
カン山脈を越えてインパールに入るのは愚かである。一挙にインド上陸作戦を
やれ!」と提言したが聞き入れられなかった。――――日本の海軍力は尽きて
おり、ボースの到着も遅かった。

牟田口中将は、東京裁判では日本軍の消耗に貢献したということで罪には問わ
れず、長生きして畳の上で死んだ。彼は一生、言い訳をして過ごした。葬式に
は、息子に言い訳を書いた小冊子を配らせた。

インパール作戦では、シナで戦った日本兵や、インド国民軍が参加した。彼ら
は、インドに達する前に、河を渡る際に食糧として渡された馬や牛や山羊を、
荷物ごと失った。イギリス空軍による空からの攻撃で、多くの牛がチリジリに
逃げて多くの物資を失った。牛は山地を歩くのに適さず、日本兵が牛を連れて
歩く姿は、直ぐに敵の標的となったーーー。

日本軍は空軍の援助を全く受けておらず、食料も弾薬も持って出たものしか無
かった。雨期だったので泥の中を歩くしかなかった。軍刀は錆び、服も身体も
濡れて、体力を奪われた者は病気になって死んでいったーーー。

食料は、一日僅かな岩塩と、半合の米しか与えらていなかった。全員栄養失調
で、頬はこけ落ちて、眼だけがまん丸になって光っていた。誰彼の区別も付か
なかった。歩きながらバッタリ倒れて死んだ者、食事をしようと準備したのに
食べる前に死んだ者もいたーーー。

日本軍は飢餓以外のも、マラリア・赤痢・コレラにも苦しめられた。赤痢とマ
ラリアに同時に罹れば、高熱で脳をやられ、躍り上がるようにして死んでいっ
た。傷口には大きなハエがたかってウジがわいた。ケガをした身体を、ウジで
真っ白にしながら歩いている者もいたーーー。

服や靴はボロボロで、まともな軍服を着ている者もいなかったそうだ。イギリ
ス軍所属のインド人は猛攻撃を仕掛けてきた。ぎりぎりまで戦って、もうだめ
だとなると両手をあげて降参したそうだ。

イギリス空軍が空から落とす食料が、運良く敵と味方の真ん中に落ちたら、命
がけで盗りに行ったーーー。

牟田口中将は戦闘に参加せず、遠くの安全な軍司令部で5時まで過ごし、5時
になると、連れてきた料亭で食事をし、連れてきた愛人と遊んでいた。イギリ
スは、前線で牟田口中将の放蕩具合を放送し、日本軍の戦意を削ごうとした。

赤十字のマークを屋根に付けた病院はわざと狙われた。軍医、衛生兵が赤十字
の腕章をつけていたら一番に狙われた。最前線では、赤十字のマークは使用で
きなかった。

イギリス軍は、弾薬、爆弾を十分に持っていた。イギリス軍が攻撃してくると
きは、たこつぼ壕に息をひそめてじっとしているしかできなかった。反撃でき
るほどの弾がなかった。イギリスの戦車は巨大で、鉄条網を巻いていて近寄れ
ず、多くの日本兵が砲撃を受けて倒れていった。日本兵はインドのコヒマまで
到着し、少ない弾丸や手榴弾で果敢に戦い、ほとんどの者が戦死した。

敵の攻撃は空から、M3中戦車から、野砲から、107ミリ迫撃砲から、絶え
間なく雨のように降り注いだ。日本軍は、少ない弾薬を上手に使うしかなく、
多くは手榴弾を持って敵の塹壕に近寄り、手榴弾を投げ込んだあとは攻撃され
て蜂の巣のようになって死んでいった。

日本兵のひそむひとつの塹壕の弾丸が無くなると、他の壕から若い工兵が補充
の弾丸を運び、敵に狙われて命を落とした。血まみれになって倒れても、運ん
できた弾丸を胸から放さなかったそうだーーー。

ケガをしても薬も無く、壕の中に寝かされるだけだったという。重症を負いな
がら自力で這って壕に戻った者も、破傷風で死んでいったーーー。

撃つに弾なく、食うに食無き状態に陥り、軍の命令なく後退した部隊もある。
日本兵の死体は、ジャングルの中で倒れたままにされた。生き残りは少なく、
埋葬するヒマや体力のある人間もいなかった。物資が欠乏していたので、仲間
の死体からも使える衣服や靴などは脱がされたーーー。

4月29日までにインパールを占領すると豪語していた牟田口中将は焦りだし
た。作戦に批判的だった者は次々と牟田口中将によって更迭された。中将ぐら
いの階級では勝手に更迭することはできないはずなのだが、それからは誰も牟
田口中将に作戦の中止を提言する者は出ず、いたずらに時間が過ぎていった。

敵が攻めてくるのに、野戦病院にはなぜか撤退命令がくだされず、イギリス軍
のインド兵が、逃げ遅れた病人に生きたままガソリンをかけて焼き殺した。

昭和19年7月3日、南方総軍はインパール作戦の中止を命令した。インパー
ル南道は死体の山だった。重症患者や病気の者は、みんなの足手まといになる
のを嫌って手榴弾で自決した。その道は、白骨街道とも、餓死街道とも、靖国
街道とも呼ばれたーーー。

なるべく被害が少なく撤退できるように、日本から応援の部隊が送られたが、
途中でほとんどの船が撃沈され、ビルマに到着できた者は僅かだった。彼らは
日本軍の撤退を助けながら、鉄橋を爆破した。その様子は、映画「戦場にかけ
る橋」のようだったそうだ。イギリス軍は、道ばたで倒れている日本兵は、生
きていても死んでいても関係なくガソリンで焼き殺したーーー。

昭和20年1月、イギリス軍のインド師団がイラワジ河を渡ってきた。2月中
旬になると、イギリス軍のM3戦車部隊も河を渡り、原住民が日本軍に協力し
なくなってきた。イギリス軍の工作員が、日本兵に食料を渡すなと工作しだし
た。
原住民は、イギリス軍から、日本兵をひとり殺せばいくら、銃を奪えば一丁に
つきいくら支払うといわれていたので、村人に銃を奪われて殺される日本兵も
出てきた。

火炎放射器を搭載したM4戦車が日本軍の病院を襲い、生きたまま病人を焼い
て死体を踏みつぶしていった。メイクテーラーの敗退で、常に親日的だったビ
ルマの人の心は日本軍から離れた。3月27日には、アウン・サン率いるビル
マ軍が叛乱を起こした。イギリスの工作活動も盛んであった。日本軍は、戦い
ながら撤退をするだけとなった。

泰緬[たいめん]鉄道は、タイとビルマをつなぐ400キロの鉄道で、昭和17
年に起工し、昭和18年の半ばに、イギリス軍捕虜とビルマ人を強制的に集め
て建設に当たらせた。疫病だらけのジャングルでの工事では、マラリヤや赤痢
で5千名近い犠牲者を出したので、戦後、鉄道連隊からは多くの戦犯が出た。

8月15日になって停戦となり、その鉄道を使って日本軍の生き残りはタイに
出た。

昭和20年10月には、戦犯が選び出され、コーカレーのイギリス軍の味方に
なって戦った部落を攻撃した部隊の指導者は絞首刑にされた。他の責任者も処
刑された。

10月上旬に、連合軍の命令で武装を解除することになった。歩兵連隊では、
連隊の玉砕を意味する軍旗奉焼式を行い、涙を流して奉焼を見守った。誰も命
令しなくても、日本兵は自分の三八式歩兵銃についている菊のご紋章をヤスリ
で削り取った。敵に渡す武器に天皇陛下のご紋章が付いていることが耐えられ
なかったのだ。

イギリス軍がテントを張って、生き残った日本兵を、軍隊の形式はそのままに
して管理した。日本兵は、あちこちの石切場で石切をさせられたり、飛行場や
公園を作らされた。オランダ人将校、下士官の家では、奴隷のようにこきつか
われたそうだ。

昭和21年の4月下旬より、日本兵は順番に日本に帰る船に乗せられた。

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日本がシンガポールを陥落させた時、すぐに降伏したインド兵をインドに進め
れば良かったのだが、日本はインド人に独立をまかせず、チャンドラ・ボース
がドイツから来るのを待った。

陸軍の力はビルマまでだったかもしれないが、海軍は余力があったので、一気
にカルカッタやボンベイに上陸すれば、イギリスは海軍も空軍も全滅していた
ので、インドはすばやく独立していたかもしれない。

ビルマは西暦紀元頃からある国で、後漢の時代にはタンと呼ばれ、唐の時代に
はビュウ[馬票]と呼ばれていた。宋では「糸面」と呼ばれていた。ビルマ最後
の王朝の王がインパールを攻略し、ネグレイス島のイギリス人居住区を破壊し
シャムのアユタヤまで攻略した。

その後、第一次イギリス・ビルマ戦争(1824〜1826年)、第二次イギリ
ス・ビルマ戦争(1852年)でどんどん領土を奪われ、第三次戦争(1885
年)で首都のマンダレーまで奪われて、ビルマはイギリスの膝下に下った。国
王と王女はインドに送られ、そこで没した。

1886年、イギリスのインド総督ダフリンが、ビルマ王国を英領とすること
を英国王の名で宣言した――――。

日露戦争に勝った日本に憧れてビルマのウー・オッタマという僧侶が1907
年(明治40年)に日本を訪れ、「日本」という本を書いてビルマで出版した。

「日本の勝利は、日本が明治天皇を中心に3千万人が団結したことによる!」
「ビルマも、青年達が団結すれば必ず独立できる!」と伝え「ビルマ人団体総
評議会」を組織し、納税ボイコットでイギリスに終身刑を宣告され、1939
年に獄死した。

ウー・ウィサラも全国的な反英活動を行い、3千人が投獄された。ウー・ウィ
サラもハンストを行って抗議しながら獄死した。

イギリスはビルマの国境をすべて封鎖し、ラングーン経由でしか外国へ行けな
いようにし、反英分子を厳しく監視し、内陸にいけばいくらでも採掘できる岩
塩を独占し、イギリスから買わせた。また、インド人を使ってビルマ支配をさ
せた。ビルマは、インド人とその資本に牛耳られていた。

日本の鈴木大佐は、読売新聞の記者としてビルマに入り、イギリス人の過酷な
弾圧を眼にした。日本と、アメリカ・イギリスが戦争に突入間近になると、鈴
木大佐は開戦時にビルマが即刻独立できるように工作機関を設立するように軍
の首脳に提言し、南機関という特務機関を設立。

イギリスが逮捕した過激分子の中にアウン・サンがいた。鈴木は、ビルマを脱
走したアウン・サンを東京に連れて行った。1941年(昭和16年)、アウン
・サンは密かにラングーンに戻り、独立の意気に燃える青年29人を選び出し
ラングーンを出て台湾から海南島に入り、川島大佐の元で猛烈な軍事特訓を受
ける。ビルマは大戦中に独立するが、ビルマ完全独立後、これらの青年たちか
ら首相・大統領・大臣・軍総司令官が出た。

南機関は、30名の青年からなる「ビルマ独立義勇軍」をラングーンに入るよ
うに手引きした。彼らは「ド・パーマ!(ビルマ独立万歳!)」を合い言葉に進
撃した。「ビルマ独立義勇軍」がバンコックで出陣式を行ったのは、昭和16
年12月31日で、最初の百人はどんどん増えて千人になっていた。

ラングーン陥落は3月8日。あっという間に北部ビルマも制圧し、5万のイギ
リス軍と10万の重慶軍はビルマ領外に敗走した。

大本営はラングーンに彼らが入った瞬間、ビルマを独立させるという約束だっ
たが、ビルマの独立を押さえて軍政を布くことにし、独立を否定した。ビルマ
人に独立を与えたら、軍需物資の調達がうまくいかないと思いこんだのだ。

アウン・サンは激怒した。鈴木大佐も失望し、以後、何度も大本営に「ビルマ
にすみやかな独立を」と進言し続けた。軍は鈴木大佐を内地に追放し「ビルマ
独立義勇軍」30人を訓練した川島大佐もモロタイ島に転出させられた。

敗戦が色濃くなった1943年(昭和18年)、東条首相はようやくビルマを独
立させるが、アウン・サンに首相をさせなかった。民衆が求めたのはアウン・
サンだったが、大本営は、イギリス軍に捕まって奥地の刑務所で服役中のとこ
ろを助けだしたバー・モウに首相をさせた。

完全独立を願うアウン・サンは、イギリスと完全独立の約束を取り付け、19
45年(昭和20年)、ビルマ国民軍1万5千を率いて叛乱を起こす。日本軍が
敗戦すると分かって、ビルマの独立のために日本軍に戦いを挑んだのだ。だが
終戦後、イギリスはアウン・サンとの約束を破って完全独立を許さなかった。

日本はビルマに独立を与えるのが遅過ぎた。それでも大戦中の1943年(昭
和18年)8月1日の独立式典には、ビルマ人は大喜びしたそうだ。結局ビル
マは、1948年1月4日、イギリスによって独立を与えられたが、ビルマ人
は1943年ほどには酔えなかったそうだ。

元南機関長鈴木敬司将軍が、戦後ビルマに連行され、イギリス軍に軍事裁判に
かけられそうになったとき、アウン・サンは、「ビルマ独立の恩人を裁判にか
けるとは何事か!」と猛反対し、鈴木将軍は釈放された。

アウン・サンはビルマの独立のために日本軍を攻めたが、バー・モウは日本に
亡命した。ビルマは再びイギリスの植民地となり、アウン・サン率いる愛国ビ
ルマ軍は、英国指揮下のビルマ軍に合併されたが、アウン・サンは英領ビルマ
とイギリスに対し自治を要求し、完全独立を目指して活動を続けた。

1947年1月27日、英国首相クレメント・アトリーと、1年以内の完全独
立を約束する「アウンサン・アトリー協定」に調印。完全独立に向けてのイギ
リスとの厳しい交渉や、国内対立の解消と国家統一への苦しい道を模索し続け
ていた。

1947年7月19日、政敵であり前首相のウー・ソーの一味の手で、6人の
閣僚とともに暗殺され、翌1948年1月4日のビルマの独立を見ることなく
わずか32歳で没した。

ビルマは、1962年の軍事クーデター以来、ネ・ウィン軍事政権が独裁政治
を敷いた。1990年5月27日に総選挙を行ったが、アウン・サンの娘であ
るアウンサンスーチー率いる国民民主連盟(NLD)が大勝した。しかし軍政側
は権力の移譲を拒否した。

1989年、アウンサンスーチーは自宅に監禁され、国名がビルマからミャン
マーに変更された。

2002年12月、ネ・ウィン将軍がヤンゴンで死亡。今日の軍事政権は19
62年から88年まで独裁政治をやり悪名の高かったネ・ウィンの否定者とし
て登場した。

アウンサンスーチーは日本政府に、ビルマの軍事独裁政権に援助金を渡さない
ように要求した。軍事政権は、アウンサンスーチーは政治のアマチュアであり
ビルマが民主主義に移行すると混乱が生じるとの考えを持っている。

日本はこれまで、開発途上国における民主化や人権状況に好ましくない動きが
あった場合、援助の停止や削減も含めた見直しを行っている。ミャンマーに対
する新規の経済協力を原則見合わせているが、ミャンマーの貧困農民がケシ栽
培から脱却するための農村開発で農民の収入向上を図り、道路建設のための機
材供与や村落の電化、小学校の改修の支援を無償資金協力により行っている。
マラリアや結核、ポリオなどの感染の撲滅にも協力している。

2007年3月27日、ミャンマー政府は、新首都ネーピードーで国軍記念日
式典を開いた。――――ミャンマーは近年急速にチャイナと接近して、チャイ
ナの水力開発の援助などをうけている。4月には北朝鮮とも国交を回復。昨年
から核技術研究所を設け、ロシアに留学生を送っている。

アウンサンスーチーは、2007年8月現在も自宅に軟禁されており、国連安
全保障理事会は同国の人権改善を求める採択を実施したが、チャイナとロシア
は、国連が扱うべき『国際の平和と安全にたいする脅威』に該当せずとして拒
否権を行使、否決された。

かつて日本はビルマ独立の志士を助け、ビルマの独立に深く関わった。ビルマ
はミャンマーと国名を変え、人権無視の軍事独裁国家にとして生まれ代わり、
チャイナやロシアや北朝鮮との関係を強めている。

ミャンマーはほとんど鎖国状態だったので、経済の発展が遅れ、その分手つか
ずの自然が残っている国でもある。グローバル化から遅れているが、素朴な民
族性もよく残り、観光には魅力的な国である。

日本は、日本の経験を生かし、ミャンマーがチャイナのように自然を壊さない
ように指導をすることもできる。軍事政権の独断と横暴に国民生活が脅かされ
ていることにも無関心にならず、ミャンマーの民主化を促すこともできるので
はないか。

ミャンマー人は、戦後あちこちに取り残された日本兵の遺体を埋葬してくれた
そうだ。今でも、イギリスに味方して日本軍と戦った村以外は、日本に対する
印象はいいらしい――――。

┌―――――――――――――――――――――――――――――――――┘
▽ 参考資料:
ミャンマー報道
http://www5a.biglobe.ne.jp/~asia-mt/myanmar/myanmarnwes.htm
ビルマの民主化運動について
http://www.asiawave.co.jp/BMnemoto1.htm
ミャンマー基礎データ
http://www.jetro.go.jp/biz/world/asia/mm/basic_02?print=1

                        = この稿おわり =
本当に冗談じゃネーよッ!‥‥と思われた方!「誰でもできる!1人1日1回の愛国活動」は、 ここをクリックして頂くことからはじまります!ーーークリックして頂くと票数がアップして、この問題を多くの人々に 知らせる事ができます!
    
┌―――――――――――――――――――――――――――――――――┘ └→ 意見や感想をよろしくお願いいたします。 ┏━┳━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┃┃ メールマガジン読後感アンケート結果。 ┗━┛ ◇ そうだこのとおり!(^○^) ---------------------------- 25人 (68%) ◇ そうではないと思う..(゜.゜) ------------------------- 0人 ( 0%) ◇ そうだったのか..知らなかった..(-_-) ----------------- 12人 (32%) ┏━┳━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┃┃ コメントボードに頂きましたご意見や感想。 ┗━┛ ┌──────────「lonsome carboyさん」 1989年でしたか。わたしは、軍事クーデター直前のラングーン(ビルマ)に 居合わせました。雨降る街角に、機関銃を持った兵士達が険しい表情で立って いて、現地の人間からはホテルから外へ出るなと言われた、殺伐とした雰囲気 を思い出しました。 弊社に派遣で来ていた女性は一昨年「アジア歴訪の旅」に出掛け、ミャンマー では、日本統治時代を懐かしみ、日本を敬愛する現地の人の話を聞き、彼女が 習った歴史との齟齬に驚いていました。 時の政府や教育者がどんな事を吹き込もうと、生き証人の生身の体験を覆す事 は出来ないものです。欧米や中国共産党の書いた、彼らにとって都合の良い近 代史が、自分の生きているうちに検証され是正される日がくるのであろうか。 └────────── ┌──────────「日本のお姉さんから」 軍事クーデター直前のラングーンにいたなんて、すごい経験ですね。派遣会社 の社員の方が、ミャンマーで日本軍のことを知っている現地の方に出会えて、 本当の歴史に触れることができてよかったですね! わたしは本からしか戦争の時のことを知らないですが、会社の女子社員に、お じいさんがビルマで戦った元日本兵だった人がいます。その女子社員は子供の 頃からおじいさんに、戦時中のチュウゴク軍に追いかけられて撤退していった 時の話を聞かせられたそうです。 日本軍はビルマ人と共に戦っていて、チュウゴク軍は重慶から来た部隊らしく 砲弾もたっぷり持っていて、ドカドカ撃ってくるので塹壕に隠れているしかで きなかったそうです。 ある日、塹壕の中に上官たちやビルマ人兵士と一緒にいた時、急に危険な感じ がして別の塹壕に移ったんだそうです。一緒にいたビルマ人兵士も随いてきた そうです。その直後、今までいた塹壕に砲弾が打ち込まれ、おじいさんとビル マ人は助かったのですが、上官と他の日本兵はバラバラになったそうです。 一緒に逃げたビルマ人兵士には「あなたは命の恩人だ!」と言われて、泣きな がら感謝されたそうです。 チュウゴク軍は、赤十字の部隊でも攻撃して全滅させたそうです。赤十字のト ラックが前線に負傷者を探しに行こうとしていたので、「あっちは、チュウゴ ク軍がいるから行かないように」と、おじいさんたちが言ったのに、「赤十字 は攻撃されないんですよ」と、笑ってそのまま行ってしまったそうです。 夜が明けてみると、丘の上に赤十字のトラックがずらりと並べられており、そ の上に杭が並んでいて、そこに裸にされた看護婦さんたちの死体が吊るされて ブランブランゆれていたそうです。国際法もクソも無いなと思ったそうです。 他の部隊の「証言」でも、チュウゴク軍だけではなくイギリス軍も、赤十字の マークがついた病院を見たら必ず攻撃してきたので、逆に赤十字のマークをつ けないほうが安全だったそうです。 ビルマでは、日本軍の負けが決定的になったので、ビルマ軍のアウンサンは、 日本軍を裏切って日本軍を攻撃する側に変わりましたが、彼と同格のビルマ軍 のリーダーの中には、日本軍を攻撃するのは忍びないとして自害した人もいた そうです。 日本の占領時代に独立できたのだと当時のビルマ人は考えているので、日本人 に対して今でもとても好意的なのだそうです。日本人がビルマで「戦争では大 変申し訳なかったです」と言えば、「日本軍は武器も食料もなかったのに、イ ギリス軍と戦ったのだから謝らないでくださいよ」と言ってくれるそうです。 日本軍が来る前は、ビルマは長年イギリスの植民地にされていたのです。戦前 にはアジア人は、各地で白人と白人が連れてきた華人に支配されていた。その ことを日本人はちゃんと習っていないので、日本は「アジアを侵略した」とし か思っていない。 その前に、何百年もアジアを侵略・支配していたのは、白人と華人だったわけ です。インド人もイギリスに連れてこられていましたが、独立したがっていた ので、日本軍は各地でマレー人、ビルマ人、インドネシア人、インド人、タイ 人に助けられ、すばやくアジアを西洋列強の支配から開放でき、その後、占領 できたわけです。 華人・華僑だけは、一部を除き義勇軍を作って日本軍に激しく抵抗したので、 華人は日本軍に始末されました。普通の服を着て一般人に紛れ込んでいたので 彼らは軍人ではなくゲリラ扱いになりました。その中で、ゲリラでない一般人 も被害を受けた場合もあったと思いますが、それだけ華人、華僑は独立などし たがらず、西洋人と共にアジアの経済を引き続き支配することを願ったという ことです。 ミャンマーの人も、「結局、アジアの戦争は、覇権を狙うチュウゴク人と日本 人の戦いだった」と言っている人もいます。アジアの国々の現地の人は、日本 軍は西洋の支配から独立させてくれた友人だと思ってくれているそうです。 シンガポールの指導者リークワンユーのような親日の理解者もいるので、華人 華僑全員が植民地宗主国側だったとはいえません。リークワンユーは、日本軍 を実際に間近で見ているので、日本を理解している貴重な華人です。 植民地時代、白人たちは相当厳しく現地人を搾取したそうです。そういう話は 日本人は習わない。日本が悪かった、戦争は嫌だ、二度と戦争が起きないよう ににしないといけないなどと教え込まされていますが、日本が戦争に突入して いった経緯は、欧米がアジア人を差別して厳しく扱ったせいもあるのに、それ は無かったことになっているようですね。 欧米が何百年もアジアを支配していた時代に、多くのアジア人が独立を願った だけで宗主国の欧米人に処刑されています。そんな歴史は、日本人はあまり知 りません。だからアジアに行ったら、日本政府の者も一般人も謝ってばかりい るのです。 日本軍の支配は2年か3年ちょっとだが、欧米の支配は250年も340年も 続いていたではないか。侵略していたのは欧米なのに、日本ばかりが叩かれて 本当に損な役回りでしたね。まあ、アジアの国々が、白人や白人が使った華人 の経済的な支配から独立できて良かった。 アメリカの大統領が、昔の日本をアルカイダと同列において演説している内容 を読むと、アメリカ人の認識はまだそんなもんなのかとがっかりします。 └──────────
日本のお姉さんのアジア!の目次に戻ります







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