日本のお姉さんのアジア! ――― by 日本のお姉さん
☆ マレーシアの独立とインド人と日本人 ―――――― 2007/08/06

マレー半島の植民地化は、1511年にポルトガルの侵略を受けたときに始ま
り、その後のオランダを経て、イギリスは1786年8月11日にフランシス
・ライトがペナン島を取得した日から始まった。ペナン島はその日に誕生日を
迎えた英国皇太子の称号であるプリンス オブ ウェールズ島と名付けられて
英国国旗が掲げられた。

イギリスはタイ領のケランタン、トレンガヌも手に入れ、ナポレオン戦争によ
りオランダ本国が占領されたため、オランダの植民地だったマラッカもイギリ
スが保護するようになった。イギリスはペナン、マラッカ、シンガポールを海
峡植民地と呼んで、最初は東インド会社が支配していたが、1867年からは
直轄植民地として支配した。

マレー半島は九つの州に分かれていて、それぞれにスルタン(地元の王様)がい
て一応連邦制をとっていたが、イギリスは各州に顧問を派遣して支配力を強化
していった。

マレーで錫鉱山が発見され、その開発のためにイギリスは大勢のシナ人を連れ
てきて採掘させた。ゴムの栽培と収穫にはインド人を連れてきて使用した。そ
のためマレー半島はマレー人が52%、シナ人39%、インド人12%という
多民族国家になってしまった。

植民地時代、イギリス軍はインド人を兵士として使った。イギリス軍兵士の7
割はインド兵が占めていた。

大東亜戦争が始まる3ヶ月前、参謀本部第8課の藤原少佐が、インド人を味方
につけるために、バンコクの大使館付武官であった田村浩大佐のもとにやって
きた。田村大佐がインド人をまとめるために拓殖大学出身の満州浪人神本利男
を使ってハリマオ工作を進めた。

ハリマオはマレー語で虎の意味である。ハリマオは日本名を谷豊(たにゆたか)
といい、マレー人の部下が千人もいる匪賊の頭目だった。――――ハリマオは
1960年から1961年に「怪傑ハリマオ」というテレビ番組で放送された
こともある。マレーの匪賊だったが、日本軍のマレー半島攻略に協力しマレー
解放のために戦った。

田村大佐はインド独立連盟の組織とも関係があった。藤原少佐は大東亜戦争が
始まると同時にこれらの人脈を受け継いで、F機関と名乗ってマレーに潜入し
た。
F機関とは、友(Friend)、自由(Freedom)、藤原(Fujiwara) の頭文字で、イギ
リス軍中7割を占めるインド人将兵に働きかけ、インド独立のために立ち上が
らせる事を目的としていた。

F機関員はたった9名(その後10余名に増える)で、参謀本部から中尉が二人
・中野学校から大尉が一人と少尉が二人軍曹が一人・民間人通訳の石川と太田
黒の9人でインド将兵を協力させる工作を行った。

インド独立連盟の書記長プリタムシンは、同志6人と共にタイ南部、ハジャイ
の街にF機関と共に入り込み、インド独立の旗を掲げてインド人相手に大演説
を行った。当時マレー半島には90万人のインド人がいたが、

インド人は「ジャーヒンキー!(インド独立万歳!)」を合い言葉に心をひとつ
にした。マレー人とインドネシア人は「ムルデカ!(独立万歳!)」を合い言葉
にし大人も子供もその言葉を挨拶にした。

日本が1941年12月8日に米英に宣戦布告し、海軍が真珠湾を攻撃したと
き、陸軍はマレー半島に上陸し、山下兵団はシャム湾シンゴラ、あつ美支隊は
コタバルに突入、安藤支隊はパタニに上陸した。三方向から上陸して追撃戦を
開始。クアラルンプール攻防では日本側も多数の戦死者を出した。

タイ国境に近い山岳地帯には、英連邦軍がジットラ要塞を守っており、大変な
激戦だったが、250数年白人に支配されていたマレー人は日本軍に味方し、
情報や食料、薪や石炭をどんどん運んで協力してくれた。

華僑はイギリスの手下としてマレー半島全てで経済を支配していたので、殆ん
どがイギリスの味方だった。華僑の反日義勇軍は激しく日本軍に抵抗した。多
くの日本兵が華僑義勇軍のため犠牲になった。

日本軍はマレーの独立を助けた側なので、マレー人は殺していない。マレーで
殺したのは、日本軍に抵抗した華僑の義勇軍だ。華僑たちはスパイ活動やゲリ
ラ活動で日本軍を苦しめた。戦争中なので、反日華僑の戦闘員を撃滅するのは
当然のことである。現在、マレーシアで日本の過去の戦争を責める人々は、た
いてい反日の華僑である。

日本軍が、マレー半島に上陸して3日後の12月10日、マレー沖で日本海軍
がイギリスの戦艦、プリンス オブ ウェールズを撃沈、巡洋戦艦レパルスも
轟沈させたとき、その知らせを聞いてマレー半島のマレー人とタイ人、インド
ネシア人、インド人、親日のシナ人は飛び上がって喜んだのだそうだ。

マレー半島のアジアの人々は、西洋人に長い間支配されていたので絶望しきっ
ていたが、独立の希望を胸に日本軍に協力した。

マレー半島でのインド独立連盟の働きもすばらしく、国境のジットラ・ライン
を越えてからは、プリタムシンは、ペナン島で一晩で数万人のインド兵を味方
につけた。おかげで日本軍はペナン島の無血占領に成功した。また、後に独立
インドの大政治家となる指導者たちを獲得した。

ジットラ・ラインを越えたアロースターでは、日本人の中宮と椎葉はマレー人
に変装して、英軍に連れ去られたケダ州のスルタンを探して山の中に入り、山
頂の寺院に籠もっていたラーマン王子を助けた。ラーマン王子は、ペナンの放
送局から、マレー全民に反英決起を促す放送をした。――――ラーマン王子は
戦後国民同盟を結成して民族運動を始め、1957年に独立、その後マラヤ連
邦の初代首相になった。

日本軍がジットラ・ラインを突破してからは、F機関とインド独立連盟のメン
バーがケダ州に入り、インド兵捕虜の説得に当たった。インド兵は日本軍の主
旨に賛同して次々と味方になり、インド兵捕虜が別のインド兵捕虜を説得して
くれて味方が増えていった。

原住民からの情報で、マレーシア北部、ケダ州アロースター近郊のゴム園で約
一個大隊の英印軍が孤立しているという情報を聞き、藤原少佐はプリタムシン
と大田黒通訳の3人で、武器も持たずに自動車でゴム園に乗り込み、降伏勧告
をおこなった。

大隊長だけがイギリス人中佐で、あとはインド人だった。その中に後にインド
国民軍を編成して初代軍司令官となったモハンシンがいた。藤原少佐とプリタ
ムシンはモハンシンに、共にインド独立のために戦おうと説得した。

藤原もF機関も捕虜のインド兵も、朝昼晩同じテーブルで同じ食事をとった。
イギリス人は決してインド人と同じテーブルにはつかなかったのだ。モハンシ
ンと部下のインド兵は、藤原の「共にインドのために戦おう、我々は諸君の同
志である。この戦争はアジア解放戦争である」という言葉を信じた。

インド人やマレー人には日本人の真心が通じた。しかしシナの戦線ではそうは
いかなかった。シナでは国民党や共産党の抗日教育が徹底しており、シナ人は
面従腹背で、表面は笑顔で従うが心は敵愾心の塊で、日本が戦争に負けたとた
ん、日本人の持ち物や命を奪った。マレーのシナ人も、戦争中は一部の親日華
僑以外は全員がイギリス側に立って、日本人を白い目で見ていたそうだ。

モハンシンは山下奉文軍司令官に会って、説得されて初めてインド独立国民軍
を作ることに賛成した。モハンシンは藤原と契約書を交わしたいと申し出た。
ーーーモハンシンは5つの条件を出した。

1.インド国民軍の編成に着手するが、日本軍は条件を付けずに支援を供与す
  る。
2.インド独立連盟とインド国民軍は協力関係とする。
3.日本軍は、インド兵捕虜と指揮の一切をモハンシンにまかせて決して干渉
  しない。
4.日本軍は在住インド人、及びインド兵捕虜を、友愛を持って接し、国民軍
  に参加する者はただちに解放する。
5.日本軍は、インド国民軍を同盟国の友軍とみなし、いついかなる場合でも
  対等の立場に立つことを承認する。

1941年(昭和17年)2月15日に日本軍はマレー半島を制圧し、イギリス
の要塞シンガポールは陥落した。藤原少佐は、シンガポールのファラパークで
イギリス軍から接収した4万5千人のインド兵を前に大演説をうった。

「日本の戦争目的は、一に東亜民族の解放にあり、日本はインドの独立達成を
願望し、誠意ある援助を行う。ただし、日本にはいっさいの野心のないことを
誓う。インド国民軍、インド独立連盟の活動に敬意を示し、日本はインドを友
愛の念を持って遇する。もし国民軍に参加したい者があれば、日本軍は捕虜の
取り扱いを停止し、運動の自由を認め、いっさいの援助を行う」

多くのインド兵がインド国民軍に参加し、「チャローデリー!=デリーを目指
せ!」を合い言葉にインパールからインド領へと迫ることになる。

その後、藤原少佐が次の任務のために転出したり、国民軍のモン・シン大尉が
罷免されるなどいろいろあったが、後に亡命先のドイツから帰ったチャンドラ
・ボースがモハンシンの創った国民軍を継承して司令官となる。チャンドラ・
ボースは国塚中尉に、なぜこんなに簡単に日本人はインド人の心を掴めたのか
聞いてきた。

国塚中尉は「我々は同じアジア人です。我々は共通の文化を持つうえに、藤原
少佐が真心をもってインド兵捕虜に接したからです。今後も日本軍は、真心を
もってインド国民軍と協力すれば、かならずやインドの独立は勝ち取れます」
と答えた。

インド国民軍は日本軍と共にアラカン山脈を越え、ビルマからインドを目指し
た。このインパール作戦は、補給のあてのない無謀な作戦として非難されるが
本質はインド人と日本人による対英インド独立戦争だったのである。この作戦
が後のインドの独立に大きな影響を与えたということは誰も語らないが、

日本が敗戦となったとき英軍に引き渡されたインド兵約2万が立ち上がった。
この反乱で軍事裁判にかけられたインド軍のカーン大尉・セーガル大尉・デイ
ロン中尉の三被告は、インド人のゼネストによって無罪放免となり、この軍事
裁判がきっかけとなってインドは独立をかちとることができた。

日本軍はマレー占領と同時に軍政を敷き、真っ先に青年達の教育を開始した。
1942年(昭和17年)5月から翌年7月までの短い期間だったが、昭南訓練
所で280名、マレイ興亜訓練所では1945年8月の終戦まで800名、日
本留学17名、義勇軍の養成では2000名を訓練した。その他に神本利男が
ハリマオと共にマレイ青年連盟を作って、マレー人に軍事訓練と精神教育をし
た。
ーーーマレーシアにはインドネシアのような独立戦争はなかった。

シナ、ポルトガル、オランダ、英国、日本と、列強の支配を受け続けてきたマ
ラッカから独立運動が始まり、F機関の中宮中尉、マレー在住20年の老人椎
葉が、マレー人に変装して山の中の寺院で出会ったラーマン王子=トンク・ア
ブドゥル・ラーマンは、1956年2月20日、マラヤ連邦の独立宣言を英国
人社交クラブで行った。翌年8月31日、英国は独立を承認した。

トンク・アブドゥル・ラーマンはマレーシア初代首相となった。マレーシア建
国時の重要人物たちは、みなマレイ興亜訓練所や、日本留学経験者だった。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
マレーシアには、イギリス人によって、大勢のシナ人やインド人が連れてこら
れたが、経済はイギリス人と華僑に支配されていた。独立後もマレーシアの商
工業は華僑と欧米人に独占され、華僑が富を築いていくのに対し、マレー人農
民の生活水準は低かった。華僑は、国語・国教・マレー人の特権などマレー人
優先政策を続ける政府に反発していった。

ラーマン首相の政策は、マレー人の経済的不利と、華僑の民族的不平等を生み
だし、結果的には互いが不満をもつことになった。華僑が多いシンガポール州
と連邦政府の間には、常に問題が起こっていた。シンガポール州では、二度の
マレー人と華僑の人種間暴動も起こった。

1965年、連邦政府のラーマンとシンガポール州政府のリー・クアンユーは
シンガポール分離協定に署名、リー・クアンユーはシンガポールの独立を宣言
する。

1969年5月13日、第三回総選挙の直後にマレー人と華僑の衝突が発生、
死者200人(公称)、負傷者2000人とされているが、実際はもっと多く、
逮捕者は1万数千人を超えた。

民族衝突を避けるため、マレー人優先のブミー・ブトラ(民族企業育成法)が作
られた。植民地当初からイギリス人と華僑が経済を支配していて、マレー人の
経済進出の道が完全に閉ざされていたからである。

日本の占領中は、イギリス勢力を排除し華僑の勢力を抑制し、マレー人を優先
していた。日本軍に対する華僑の抗日戦線(メンバーはほとんどシナ人)は、シ
ナの共産勢力に影響を受けたマレー共産主義勢力と結びつき、イギリスは日本
からマレーを取り戻したいのでこの抗日・共産勢力を支援していた。

戦後のマレーシア政府は、何度もマレーシアを共産化しようとするゲリラ化し
たマレー反政府運動と戦わなければならなかった。

1981年にマレーシア首相になったマハティールは、「ルック・イースト」
政策を掲げて、2020年までにマレーシアを先進国レベルまで高めることを
国民に呼びかけ、9つの課題を掲示した。特にマレー人の経済力を高めるよう
努力した。

与党連合の中核である党の中で総裁を決める選挙を行った際に、マハティール
首相に対し反主流派が選挙無効の申し立てを起こし、裁判所がその中核である
党は非合法団体だと判決を下したとき、国王が出てきて、国民生活が困窮して
いるとき、政党内のトラブルで政治が停頓することは許されないとして、国民
にマハティール首相を支持するよう説諭した。

マレーシアは、1957年の独立から今年で50年目。

アブドラー・バダウィ首相は、2003年10月31日に首相就任。2006
年3月、第9次マレーシア計画=2006〜2010年を対象とした5ヶ年経
済計画)を国会に上程。2020年までの先進国入りとの目標を堅持し、強い
道徳観を身につけた高度な人材の育成、社会格差是正などを目標にしている。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
イギリスによってマレー連れてこられたシナ人は、マラリアなどの疫病はあっ
てもシナ本国よりはるかに豊かで過ごしやすいマレーの生活に満足し、そのま
まマレーから離れなかった。パスポートも無い時代にマレーに来たシナ人は、
そのままマレーシア人となった。

彼ら華僑の影響は、マレーシアの教科書に影を落としている。日本軍占領中の
説明には、憲兵がシナ人を拷問したとか、日本語を強制されたとか、否定的な
ことばかり書かれている。台湾の米を植えさせられたとか、米と砂糖は配給制
だったとか、マレー人は非常に苦しんだなどとも書かれているが、戦争の末期
は日本人も含めて全ての人が苦しんだのだ。

あの戦争がなければ今のマレーシアという国もシンガポールという国も存在し
ていない。マレーを日本軍が占領し、錫やゴムを日本へ送ったのは事実である
が、日本軍を助けたのはマレー人でありインド独立を願うインド人である。

マレーシアの教科書では、日本のスパイ活動が巧妙であったという事が書かれ
ているが、250数年間もイギリスの植民地にされていたマレーで、イギリス
軍兵士として使われていたのはインド人だったから、インド人兵士に働きかけ
て無益な殺傷を避けるのは当然だったのだ。

日本人とインド人は、インパール作戦で共に血を流して戦ったのだから、本気
でアジアの独立を考えていたのだ。シンガポールには、当時戦死した日本軍人
の墓があるそうだーーー。

250数年間に及ぶ植民地時代の苦痛を忘れ、数年間の日本占領時の不満を教
科書に載せているようだが、当時のマレー人は日本軍の勝利を喜んでくれてい
たのだ。今、華僑系マレーシア人に何を教科書に書かれようが、当時アジアの
人々が、西洋人から独立するのは不可能だとみんな思っている時代に、日本は
戦ったのだ。日本は戦争に負けたが、アジアの独立は達成されたのだ。

事実はどんな立場で見るかによって変わってくる。植民地にされるということ
は、他人に経済を独占されることである。日本は世界の情勢に目を向け、未来
の日本をシュミレーションしてみることを忘れてはいけない。日本の経済を外
国に占領されるようなことにならないよう、気を付けて政治家を選ばねばなら
ない。そして、真心の通じる相手に日本をアピールしていくことも必要ではな
いか。

幸いマレーシアやインドやインドネシアには日本に好意的な人々が多い。シン
ガポールの華僑にも親日の人はいる。今、日本人が世界でよい評判を得ること
が、未来の日本に影響する。日本の過去を悪く宣伝する国は、日本の未来に悪
い影響を与えようとしているのだろう。ーーー戦争中のマレーシアの日本人は
決して無口ではなかった。

日本のよいところを世界に認めてもらうように一人一人が気を付けていこう。

他の国と比べると日本は結構いい国だし、いいこともたくさんしてきている。
ここらで、自分で自分を褒めてあげてもいいのではないか。そして、さらに自
分に磨きをかけ、向かうべき最善の道を求めるべきだ。

日本の向かうべき道は、外国に経済を支配されずに、独立国日本として存続す
ることだろう!――――そして、インドネシアやマレーシアやシンガポールや
インドが、どこにも支配されず幸せに暮らすことを見守ることができたら最高
だ。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

資料1:トンク・アブドゥル・ラーマンについて
    マレーシアの独立について
    マレーシアが他民族国家になった由来について
資料2:「アジアに生きる大東亜戦争」ASEANセンター編
資料3:雑誌「わしズム」vol,23 2007年夏号
    小学館96ページ「インド独立の礎を築いた丸腰工作」井上和宏
資料4:最近のマレーシアの様子
外務省「最近のマレーシア情勢と日本・マレーシア関係」
マレーシアの教科書

                        = この稿おわり =
本当に冗談じゃネーよッ!‥‥と思われた方!「誰でもできる!1人1日1回の愛国活動」は、 ここをクリックして頂くことからはじまります!ーーークリックして頂くと票数がアップして、この問題を多くの人々に 知らせる事ができます!
    
┌―――――――――――――――――――――――――――――――――┘ └→ 意見や感想をよろしくお願いいたします。 ┏━┳━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┃┃ メールマガジン読後感アンケート結果。 ┗━┛ ◇ そうだこのとおり!(^○^) ---------------------------- 56人 (80%) ◇ そうではないと思う..(゜.゜) ------------------------- 3人 ( 4%) ◇ そうだったのか..知らなかった..(-_-) ----------------- 11人 (16%) ┏━┳━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┃┃ コメントボードに頂きましたご意見や感想。 ┗━┛ ┌──────────「プータローさん」 確かに東南アジアを旅行していると「日本人が自分達より豊かなのは面白くな い」という中国系現地女性の視線を時々感じますね!隣=チャイナとコリア) とは仲が悪い(嫉妬が強い)のもしょうがないのかも・・・・・・ └────────── ┌──────────「日本のお姉さんから」 戦争で負けた日本が、アメリカに優しく扱われて、経済的に発展して金持ちに なったのがムカツクのでしょうね。チュウゴク人は金が神さまだから、金持に なった人が偉いと思っている。売春婦のほうが貧乏人よりも金持なので偉いの です。 華僑は、昔、西洋の小間使いとしてアジアで金儲けをして原住民を支配してい た側だから、日本軍が来たら完全に敵対視して日本兵を殺しました。だから、 日本軍も華僑の軍と戦いました。その恨みを抱えているのです。西洋の小間使 いで満足しきっていたのに、日本軍が自分たちのジャマをしにきたからです。 現地の人々は、西洋の何百年に渡る支配から脱出したかったのですから、日本 軍に協力してくれたのです。日本は戦争に負けたけど、その後、アジアの国々 は独立できてよかった。 華僑(チュウゴク系現地人)にしたら、今でも日本は憎い敵のまんまなんでしょ う。でも、親日の華僑もいるので、区別して考えないといけないです。 華僑は今でも現地人に嫌われていますよ。商売の仕方が汚いから。腐った商品 の賞味期限を消して、新しい賞味期限を書き直して売ったり平気でするそうで す。それで病人が出ても知らん顔をするそうです。ーーーたくさんのインドネ シア人に聞いた話です。 └────────── ┏━┳━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┃┃ お便りで頂きましたご意見。 ┗━┛ ┌──────────「77歳のじじいさん」男性@七十代@神奈川 ハリマオは1960〜61にTVで紹介されたとありましたが、小生は、年代 はハッキリしませんが、1942?43?頃、日活の映画館(鳥越日活、東京 の下町鳥越神社付近)で、確か「マレーの虎」なる題名で(映画を)見て感激し たのを覚えています。 「マライのハリマオ」なる調子の良い歌もありました。俳優は、軍人役をよく やった中田某なる人でした。その後、昭和20年3月10日の大空襲で、命か らがら助かりました----既に大焼け野原になっていた御徒町駅の傍に早いとこ 逃げて助かりました。そこにはもう何も焼ける物が無かったので---- 戦後、これらの空襲の総指揮官の「Curtis Lemay(ルメイ)」将軍に旭日一等の 勲章を授けた日本政府の気がしれない!ーーーひと晩で10万人ともいわれる 日本人の命が失われたのに・・・・。 そして今、working poorなる人々を作る日本人。どうして国を護れると思って いるのか?――――それでも小生は、豊葦原の瑞穂の国を守りたい!我が国が 如何に清い水に恵まれているか。 !!海外へ出たら、買い物ばかりでなく、よく見て来い!! └────────── ┌──────────「日本のお姉さんから」 「マレーの虎」という映画があったことは知りませんでした。「マライのハリ マオ」という歌があることも知りませんでした。ハリマオのテレビ番組も見て いないのですが、そういう番組があったというのは本で読みました。 ハリマオの名前は、子供のときに聞いたことがあります。ハリマオのことは、 学校や大人になってからはまったく耳にしませんでした。 日露戦争で頑張った人の話も、国民はまったく習いません。昔は、日本は情報 を集めたり、他国の中に入って工作したりしていたようです。今は外国に工作 されほうだいです。他国のような、情報を集める機関もないようです。外国の スパイを取り締まる法律もないので、スパイや工作員は堂々と日本で仕事をし ているそうです。 大学の教授や助教授は、全員チュウゴクの工作員だそうです。テレビに出てく るような人は目立つから、たとえ最初はスパイではなくても、チュウゴク政府 に脅されたら言いなりになってしまうでしょうね。 国費留学生で、チュウゴク大使館によく出入りしているような人や、大学や企 業の重要な研究室に出入りしている留学生は、スパイとしてチュウゴク政府に 使われているか、今後使われる可能性は非常に高いそうです。 上海の大使館員が、チュウゴクの公安に、付き合っていたチュウゴウ人女性を 殺すと脅迫され、日本に送る通信の暗号を教えろとしつこく脅されて逃げ切れ ず自殺したときも、外務省は事件を隠して当時の首相に報告しなかった。 大分たってから、公になって当時の首相も国民もびっくりしました。首相や国 民に大事な事を知らせないなんて、外務省は傲慢すぎます。外務省は日本の首 相や国民より偉いのでしょうか。 戦争前の日本を全否定して、卑屈になっていると、物事の本質を見失うと思い ます。戦争に至った理由はちゃんとあるのです。日本だけが悪いのではなく、 アメリカも相当悪かったので戦争になったのです。 アメリカは、戦争が終わってから急に日本に優しくなった。罪もない一般人を 焼夷弾による絨毯爆撃で10万人以上も焼き殺し、原爆を広島、長崎に落とし て、それぞれ14万人と7万人を溶かして殺したことを気にしているのでしょ うか。戦争の前は、日本人移民から土地を取りあげたり、日本人移民に対する 差別がひどかった。 日本人は、戦争に勝った国や周りの国が怒らないように、言いなりになってい れば優しくしてくれると思っているが、チュウゴクや朝鮮半島やロシアはアメ リカとは違って、こちらが礼儀正しく大人しくしているとつけあがるし、ロシ アは不当に奪った日本の領土を返さない。 韓国などは、戦後なのに、日本の領土である竹島を武力で占領する始末。チュ ウゴクも中央線まで来て、日本の領土にあるガスを吸っているが、平気で日本 にいろんな援助金を頼みに来る。日本は、ガスを盗まれながら金もせびられて いる。 これでは、日本は普通の国というより、外国にいいように扱われているだけで このままでは変だと思います。ちゃんとした独立国らしく、駆け引きなどをし て日本の利益も出さないといけないでしょう。 東京は、1943年(昭和17年)4月から終戦まで、130回のアメリカ軍機 による空襲を受けました。(ドゥリットル奇襲を除く) 死者の合計は11万5 千人以上。負傷者15万人。(死傷者数合計は26万人) 被害を受けた家屋85万戸。羅災者約310万人(開戦当時の居住者は735 万人。敗戦後の居住者347万人。空襲、戦災それに伴う家屋の取り壊しなど で、住居の約56%が消失した。(「東京空襲を記録する会調べ」から抜粋) 1946年(昭和20年)3月10日の第一次東京大空襲で丸焼けになった東京 の町の写真 → http://tsujib.com/010512Terui01.htm 東京の被害は、広島の原爆に匹敵するのです。 広島の人口密度は 35000/平方マイル 東京の人口密度は130000/平方マイル  広島の破壊面積 4.7平方マイル 東京の破壊面積15.8平方マイル 広島の死者と行方不明者数は7万人〜8万人    負傷者は 7万人(死傷者合計は14万人) 東京の死者と行方不明者数は8万人4千人(83600人)    負傷者は10万2千人(死傷者合計は10万6千人) この記録の死者は確認できた人の数です。東京の3月10日の空襲で川から海 に流れていった人や、公園に仮埋葬された人を入れると推定10万人死んでい ます。 広島に落とされた爆弾は一個。飛来したアメリカ機は一機。 東京に落とされた焼夷弾(日本の家屋を焼くことを念頭にした爆弾)は1667 トン。飛来したアメリカ軍機はB29が350機。 東京23区のうち19区が被害を受けました。深川、本所、城東、浅草、日本 橋の大部分は消失しました。6区は半分消失。焼失家屋26万7千戸。羅災者 101万人(死者は10万人)。焼夷弾70万発が40k平米に落とされたので 17坪(57平米)に1発です。空襲は2時間。 荒川と隅田川に挟まれた人口密集地に絨毯を敷くように爆弾を落とされ、市民 は逃げ惑ったそうです。焼夷弾は、たくさんの油で一杯の爆弾がひとつの入れ 物に入れてあり、空中でパッと分解して広がる仕組みになっていたそうです。 燃え盛る火の塊が、どかんどかんと、屋根を突き破って降ってきたそうです。 ひとつ落ちればあたり一面火の海で、消そうとしても次々と降ってくるので、 消しようもなかったし、落ちてくる焼夷弾で鉄の鍋でも穴が開くほどだったの で、当たれば即死だったそうです。爆弾を落とされていない区域の家も、電線 から火が燃え伝って多くの家が焼けたそうです。 墨田公園や言問橋の上は縁日のような状態で、背中に荷物を背負った人がぎゅ うぎゅうになっていて、火の粉が荷物に飛び移って燃えるのですが、あんまり すし詰めになっているので荷物を捨てることもできず、全員立ったまま焼死し たそうです。橋の上は、荷物に火がついてすし詰めになったまま燃える人々で イルミネーションのように輝いていたそうです。 川の中に逃げ込んだ人も、火災によって強風が吹いて、火炎の熱に煽られて、 荷物に火がついてほとんどの人が死んだそうです。子供も溺れ死に、背中にお ぶった赤ちゃんは、3月の水の冷たさで死んでいったそうです。川の中は芋の 子を洗うような状態で、川に飛びこんだ人は殆んど助からなかったそうです。 また、防空壕に逃げ込んだ人も、全員熱で蒸し焼きになったそうです。逆に、 防空壕に入れなかった人のほうが生存率が高かった。富士小学校に逃げ込んだ 人は校庭やプールにいたのですが、小学校の窓という窓から炎が水のように噴 出してきて、それが水が流れように校庭に流れ落ちてきて、校庭にいる人々に 襲いかかったそうです。 だから、小学校の校庭とプールにいた人はほとんど助からなかった。プールの 中では800人が死にました。プールの中は、亡くなった人々の服のボタンで いっぱいだったそうです。   あまりの熱さに、市電のレールが火花を散らしながら、丸まりながら移動して いたそうです。火の粉をかぶらずに逃げきれた人も、防空頭巾も焼けて髪も全 部焼けてしまって丸坊主だったそうです。 火傷で立ち上がれない人や、火傷で皮膚がヒラヒラしていて、まるで浴衣を着 ているような人でいっぱいだったそうです。真っ黒になった焼死体がマネキン のようにあちらこちらに転がっていて、地獄のような景色だったそうです。3 月10日の空襲で燃えた家屋は27万戸。死者10万人ですから、広島よりも 死者は多いのです。 このような、東京・大阪のような都市部を絨毯爆撃で焼くことを考案して実行 に移したのはアメリカのルメイ司令官で、アメリカで実物大の日本の家屋の模 型を作って実験を繰り返し、効率よく燃やせるように研究したそうです。その ルメイ司令官に、日本政府が旭日一等の勲章を授けたとは知りませんでした。 日本政府は気がおかしくなっていたのではないですか?一般人を効率よく殺傷 することを目的とした焼夷弾を開発して、絨毯爆撃をしたから勲章ですか?罪 もない民間人を焼き殺して旭日一等の勲章ですか? 「77歳のじじいさん」の、日本を守りたいと思う気持ちを若い日本人がひき ついで、周りのいろんな根性の卑しい人々から日本を守らねばなりません。日 本の中に反日の日本人がいるのはどういうことでしょう。 「77歳のじじいさん」のメールのおかげで、東京大空襲のことを調べること ができてよかったです。ーーーあんまりヒドイのでびっくりしました。  └────────── ┌──────────「77歳のじじいさん」男性@七十代@神奈川 日本のお姉さん、失礼致しました。小生は貴女のような賢い人に、買い物ばか りでなくもっとものを見てこい等と無礼な事を言うつもりで書いたのではなく ツアーで買い物にしか目のいかない多くの人々に言いたかったのです。 日本政府とルメイへの怒りの為に指が動いてしまいました。どうぞお許し下さ い。 勲章は、確か有名な「gold circle」とか「money circle 」という人が政府の 要職をやっていた時でした。理由は航空自衛隊設立に力あったと考えたと思い ました。その他 nord korea,liniar motor car試験線etcでも有名な方です。 米国の笠に保護(本当かどうか、安保の英文をmofaが訳した文は客観的に正し いか国会で議論された?)されていて原爆の違法性を議論できないでしょう。 人間は感情の動物といわれますが、最も我々日本人に合っている定義ですね。 ipcc報告書の環境庁に依る翻訳は、馬鹿げた理由で誤訳されていると伊勢雅臣 氏の「国際派日本人養成講座」に書かれております。 話があっちこっちへ行ってすみません。 Taipei Times 2007 Feb 10のeditorialsにAl Goreが会わなかったと言われる Bjorn Lomborg助教授の一文が載ってます。 ーーー先ずはお詫びまで。 └────────── ┌──────────「日本のお姉さんから」 「国際派日本人養成講座」2007年7月29日の記事ですね? http://www.come.to/jog/ IPCCの、最も悲観的な地球温暖化による気温上昇が、21世紀までの百年 間で2.4度から6.4度、海面上昇は26cmから59cm、――――楽観 的にみて温度上昇率が0.3度から0.9度、海面上昇は18cmから38c mといわれているのに、 日本の環境庁の翻訳では6m上昇するとなっているのは、「いろいろ書かれて いる事をまとめたらそうなった」という理由なのだそうです。 「Taipei Times 2007 Feb 10」の「editorials」の「Bjorn Lomborg 助教授」 の記事には、アル・ゴアが、映画「不都合な真実」で、将来海面が6mも上昇 すると映像で語るのは、政治的には衝撃的でいいのかもしれないが、メディア が大騒ぎするような科学的な根拠はないと書いています。 ーーー科学者やジャーナリストは、政治に利用されることなく事実を伝えるべ きです。海面が38.5cm上昇するのは問題だが、人間が生きていけないほ ど生活が脅かされるというほどでもないから落ち着くようにと書いています。 IPCCレポートの製作者は、「人々にショックを与えて、もっと環境問題に 気を配るように書いた」ようですが、 CIAのレポートの製作者が、「イラクに関するレポートを、人々にショック を与え、政府がもっとシリアスな行動をとることを願って書いた」と言ったと したらどうでしょうか、とも書いています。 人間は感情の動物だから、感情に訴えショックを与えると、事実ではなくても 注意を喚起することができるといういい例です。 日本は、本当にアメリカの核の傘に保護されているのかよく分かりませんが、 保護されていてもいなくても、アメリカ軍が日本にいるというだけで日本の敵 に対してはかなりの脅威になります。そして、アメリカの核が日本にあるかど うか分からないですが、核があってもなくても、アメリカ軍が日本にいるとい うだけで他国に対して感情的に効果があります。ーーー簡単に日本を攻めるこ とは難しいぞという事になります。 また、日本がアメリカの核の保護を受けているとしたら、日本がアメリカに対 してあまりしつこく原爆を落としたことを責めたりなじったり、感情を露わに して、いつまでも相手を憎んで過去を赦さず、復讐心を抱いていつか反撃を加 えるつもりでいたなら、おかしなことになってしまいます。 戦争に関することは、ちゃんと過去にケジメをつけて、これ以上過去を蒸し返 してお互いの責任を問わないと話し合ったのだから、アメリカと日本は同盟国 になったのです。いつまでも憎みあっていたなら、同盟国にはなれなかったで しょう。 チャイナも、いつまでも国民に日本を憎ませるなら、日中友好などやめればい いのです。過去を思い出させて事実を学ぶだけではなく、怒りや憎しみを日々 新たに起させています。いつまでも日本に対する怒りの炎を民衆の心にともさ せる教育はまずいです。今後、日中間に戦争を起させる火種になるでしょう。 特に、チャイナ人の復讐心はすさまじく、死んで骨になっても骨にまで八つ当 たりするし、憎い敵の銅像を使って毎日つばを吐いたり蹴りつけたりするよう な民族です。復讐するまで過去を赦さないというのでは、友好などありえませ ん。 永遠に戦争をし続け、勝ち負けを決めて、負けた相手を抹殺しないと気が済ま なくなります。実際にチベット人は、僧侶は殺害され、宗教のリーダーはチャ イナ政府が勝手に決めて神秘性を奪われ、寺院には指導者であるダライ・ラマ の写真も貼ることができません。女性は強制的に堕胎手術をされたり避妊手術 を受けさせられて、だんだんチベット人の人口が減っているそうです。 日本人が戦争での相手の行動を赦し、戦争だったから仕方が無いとしてアメリ カ人と友好関係を結ぶというのは、チャイナ人には考えられないことだそうで す。それにしても、 東京の家と人間を効率よく燃やすために、日本の家屋の模型まで作って、なん ども焼夷弾をテストして、1945年3月9日から10日の東京大空襲を実行 し、原爆投下の実行責任であったカーチス・ルメイ将軍に勲章をあげるのは、 どうかと思います。 カーチス・ルメイ将軍は生粋の爆撃機乗りで、欧州からCBI戦線を経てマリ アナに転戦し、ハンセル将軍の後を継いでB29爆撃機軍団の総司令官になっ たそうです。彼が東京市街夜間低空焼夷弾爆撃を編み出し、これが以後の無差 別爆撃の端緒になりました。原爆投下の際、日本側に警戒態勢をとらせないた め、B29の高々度の単機使用というのは彼の発案だったそうです。 原爆投下から19年目の1964年12月7日、航空自衛隊育成の『功労』に より日本政府(佐藤栄作首相)より勲一等旭日大綬章を授与されました。日本の 航空自衛隊創設に際して戦術指導を行なったそうです。 ルメイは戦略爆撃に精通し、また日本の防空体制の弱点(夜間防空)を把握して いるため日本側には有益だったとされ、参議院議員で元航空幕僚長の源田実が 勲章を与えたいと推薦したそうです。源田自身が米国政府から勲章を受けた事 に対する返礼であったそうです。 勲章は、本来、授与に当たって天皇から渡されるのが通例ですが、昭和天皇は カーチス・ルメイ将軍と面会することはなかった。日本国内では叙勲に対する 批判が根強くあり、国会でも社会党などを中心に反対論があったそうです。 カーチス・ルメイ将軍は、第二次世界大戦後空軍中将に昇進し、その後戦略空 軍司令官、空軍参謀総長を歴任しました。 戦後、日本のジャーナリストが彼の自宅を訪問し、「ロサンジェルス郊外。海 に面したニューポートビーチの静かな邸宅。ハンブルグ大空襲からベトナム戦 争の北爆まで深く関わってきたルメイ将軍。ひとつ聞きたい。なぜ、東京のあ の地区を狙ったのか?」と質問したが答えてくれなかったそうです。 東京のあの地域に焼夷弾の集中攻撃を行ったのはなぜか、という質問には答え なかったが、棚の中にある勲一等旭日大綬章の写真は撮ってもよいと言ったそ うです。棚の中に飾ってあったということは、勲章を受けたことは嬉しかった のかもしれません。 なおルメイは、叙勲について自ら進んで公表することはなかったそうです。生 前に、自分は戦争に負けていれば自分が戦犯として裁かれていたと言っていた そうです。 アメリカが日本を占領していた頃は、GHQは日本の武道を禁止したが、カー チス・ルメイ将軍は柔道の普及を勧め、アメリカ軍の訓練にも柔道を取り入れ たそうです。おかげで柔道は禁止されずにすんだとか。 1990年10月、彼は83歳で長寿を全うしたが、この死を比較的大きく報 道したのは、広島の『中国新聞』だけだったそうです。 初期の東京空襲の際に、一般市民への攻撃をためらって、機体の故障を理由に 戻ってくるアメリカ兵が多数いるのに気が付き、命令に逆らう者は厳罰に処す ると厳命して、一緒に飛んだそうです。また、やる気満々で原爆を用意してい たそうです。しかも大阪空襲の際に、原爆投下の練習のために、中身は原爆で は無いが原爆と同じ形の爆弾を落としている。 カーチス・ルメイ将軍は、軍人としては超一流だったのかもしれませんが、ア メリカにこんな将軍がいたのは日本にとっては不運だったーーー。 └──────────
日本のお姉さんのアジア!の目次に戻ります







SEO [PR] お金 ギフト  冷え対策 わけあり商品 動画無料レンタルサーバー ブログ SEO