日本のお姉さんのアジア! ――― by 日本のお姉さん
☆ しつこいですけどhangさんへ ――――――――― 2006/10/16
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この記事は「帝國電網省:歴史再考」の中の其々の記事から大部分を抜粋し、
編集したものです。 http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/html/
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―――もしもある日、支那がいきなり人民解放軍を日本によこして、「帝国の
支配から解放する!」といって日本を実効支配したらどうでしょう。日本人は
怒るでしょう。「帝国に支配なんかされていないのに、勝手に理屈をつけて攻
めてきた!!」といって激怒するはずです。

そこで安部首相が支那に文句を言いに出かけたところ、支那が安部首相を拘束
監禁し、日本との連絡をできなくしたうえで、連日脅迫と恫喝で責め立てて、
日本国を支那に合併するという書類にハンコを押させてしまったら? しかも
ハンコは支那が用意した偽のハンコだったら?

しかも、条約まで書かされてしまったら日本は支那のモノになってしまうのだ
ろうか? そんなバカなことがこの世で起こってもいいのだろうか?まさか。

でも、そのまさかが1951年(昭和26年)5月23日に起こったのでした。
┌──────────
北京に出向いたチベット政府の、ザサー・ソナムワンディ(索安旺堆)・トゥプ
テン・タンダル(土丹旦達)は、1950年10月7日、突然東チベットに奇襲
攻撃をしてきた支那人民解放軍に抗議し、事態の打開のために北京に派遣され
た代表団だったのです。

10月7日、支那人民解放軍が突如「宣戦布告」なきまま東チベットを奇襲し
「チベット帝国」への軍事侵攻を開始しました。そして、10月25日には、
支那政府は「宣戦布告」の代わりに、「300万チベット人を帝国主義者の弾
圧より解放する為、又、中国西部国境線防衛強化の為、人民解放軍のチベット
進軍を命令した」と勝手に宣言したのです。

北京に赴いたチベット代表団は、「チベット侵攻」の際、既に支那軍の捕虜と
なっていたアプー・アワンジグミ氏と共に、支那政府によって軟禁状態におか
れました。本国との連絡を一切絶たれ、連日、脅迫と恫喝を繰り返され、本国
政府の指示や意向を仰ぐ事も許されぬまま、ついに、支那による強制によって
『17ヶ条協定』に調印させられてしまいました。

協定調印の際に使用されたチベット側の「印璽」は、ご丁寧にも支那側が偽造
し用意したものだったのです。
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「歴史再考:3.チベットは支那の領土ではない」

チベットは古くは「羌」等と呼ばれ、その領土も現在の地図でいえばチベット
自治区・青海省・甘粛省南部・四川省西部・雲南省北西部・ブータン・シッキ
ム・ネパール北部・インド北西部・パキスタン東北部にまで及び、アジア中央
に位置した大国だったのです。

古来より中国とは密接な関係にあり、中国の五胡十六国時代には、中国域内に
成漢・前秦・後秦・後涼の四王国を相次いで建国しています。
又629年には、小国に分裂していたチベットを、ソンツェン・ガンポ大王が
統一、吐蕃[トパン]を建国します。

吐蕃はその後、東トルキスタンの要衝を押さえ、755年、唐(中国)に安史の
乱が起こると、混乱に乗じて遂に唐の首都長安に進駐します。アジアの大国唐
は、国内の反乱と共に「チベットの影」によって衰退したともいえます。

その後吐蕃は、843年にラテン・ダルマ帝が暗殺され分裂してしまいます。
吐蕃は、一度は長安も一瞬だけ支配したこともある大きな国だったのです。

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現在のチベット文化は、ラマ教(チベット仏教)が本格的に普及し、チベットの
国教になってから本格的に形成されました。チベット仏教の最高指導者、ダラ
イ・ラマが、宗教のみならず政治的にも権威を有し、首都ラサのポタラ宮殿が
事実上の政府になります。ネパール・ブータン・シッキム・モンゴルにダライ
・ラマの権威が及びます。

しかしこれは両刃の剣でもありました。モンゴルや青海地方の為政者は、度々
チベットに進駐し、ダライ・ラマの権威を背景に「ラマ教文化圏」に影響力を
行使するようになります。その最たるものが満州人の建国した清朝です。

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清朝は1720年、内陸アジアの大国、ジュンガルに占領されていたチベット
に進駐、ダライ・ラマ7世を首都ラサに入れると共に、カンチェネ、ポラネの
2人を「宰相」に任命、チベットを間接統治するようになりました。

1728年には、宰相ポラネが内乱を鎮圧し清朝から全チベットの蔵務総理・
郡王に任命され、事実上の「チベット国王」となります。しかし、1750年
チベットで反清暴動が起こり、ポラネの子ギュルメ・ナムギェル郡王が暗殺さ
れると清軍が進駐し、これ以後、清朝による直接統治の色合いが濃くなりまし
た。

インドを手中に収めたイギリスが、1893年、清朝との間に蔵印条約(シッ
キム・チベット条約)を調印。更に1903年にはヤングハズバンド大佐率い
るイギリス軍がチベットに遠征、翌1904年には遂に首都ラサに侵入、武力
にものをいわせてラサ条約を調印してしまいます。

この時、ダライ・ラマ13世はモンゴルへ亡命、1910年、清軍が進駐する
と、今度はインドへと亡命してしまいます。

1912年のこと。辛亥革命により清朝が滅亡すると、亡命先のインドからイ
ギリスの支援を受けたダライ・ラマ13世がチベット本国に帰還、「チベット
帝国」の「独立」を宣言します。

しかし1951年、中国人民解放軍がチベットに進駐、翌1952年には人民
解放軍チベット軍区が設置され、中国は「独立国」チベットを廃止し「チベッ
ト自治区」を設置してしまいます。

時のダライ・ラマ13世が「チベット帝国独立宣言」を発し、蒙古(外蒙古:
現在のモンゴル国)と共に清朝=満州人による支配)から「独立」しているの
です。しかし、支那はチベットが「独立国」であった事を否定しています。

けれど、その後の「歴史」を紐解けば、チベットがれっきとした「独立国」だ
った証拠は枚挙に暇[いとま]がありません。例えば戦時中の1942年、米国
は「チベット帝国」に対し、連合国の一員として協力、対日参戦するよう要請
していますし(「チベット帝国」は局外中立を宣言)、1950年の支那軍侵攻
に際しては、エルサルバドルが国連において同問題の討議を提起しています。

又、1914年から1959年迄の間、チベット外交使節団が自国=「チベッ
ト帝国」)が発給した旅券(パスポート)を使って、米英その他多くの諸国を訪
れていた事実。これらの事から、チベットが辛亥革命以降、れっきとした「独
立国」だった事は疑うべくもない事実なのです。

それでも支那は、チベットが「中国の絶対不可分な神聖なる固有領土」を建前
に、頑として「独立国」だった事を否認しています。そして、逆に支那は『中
央人民政府とチベット地方政府のチベット平和解放に関する協約(十七ヶ条協
定)』『中央人民政府和西蔵地方政府関於和平解放西蔵辨法的協議』を楯に、
チベット支配の正当性を主張しているのです。

「歴史再考:97.チベット解放」

『17ヶ条協定』については、既に国際法の見地から明らかに不法であり、無
効であるといわれています。例えば、一般的に国の代表者に対して、強制の下
で締結された条約については、伝統的国際慣習上から法的に無効であるとされ
1980(昭和55)年合意の『条約法に関するウィーン条約』第51条にも、

条約法に関するウィーン条約
第51条(国の代表者に対する強制)

条約に拘束されることについての国の同意の表明は、当該国の代表者に対する
行為又は脅迫による強制の結果行われたものである場合には、いかなる法的効
果も有しない。

第52条(武力による威嚇又は武力の行使による国に対する強制)

国際連合憲章に規定する国際法の諸原則に違反する武力による威嚇又は武力の
行使の結果締結された条約は無効である。

「歴史再考:98.チベット17ヶ条」

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1951年、中国人民解放軍がチベットの首都ラサに進駐、「チベット解放」
を宣言した時、チベットの混乱の中、チベットの政教一致の最高指導者=国家
元首)ダライ・ラマ14世は、側近と共にチベットを脱出、インド領ダラムサ
ラに臨時政府を樹立しました。

チベットは、満州人の国清朝に征服されていたのであって、中国に征服されて
いた訳ではありません。又、辛亥革命の際、清朝からの独立を宣言したのです
から、その地位は孫文の建国した中華民国と対等だった筈です。つまり現在の
チベットの状況は、満州同様、中国による不法占拠であり、チベットに進駐し
た「人民解放軍」は「チベット抑圧軍」だった訳です。

又、「反革命分子」の総帥と決めつけられているダライ・ラマ14世の地位は
現在も「チベット帝国」の正統な「国家元首」であり、北インドのダラムサラ
にある亡命政府は「独立」チベットを代表する正統政府な訳です。

先のドイツ連邦議会での「チベット決議」がそれを何よりも物語っているとい
えます。

「歴史再考:108.中華民国は清朝の後継国家ではない」
  
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――― 日本の対外戦争は、有史以来、 

倭・高句麗戦争(朝鮮半島で両国が交戦したと高句麗好太王碑に刻まれている)

白村江海戦(日本・百済軍と唐・新羅軍が朝鮮西海岸の白村江で交戦)

元寇(蒙古襲来 二度にわたる蒙古・高麗連合軍による北九州への軍事侵攻)

朝鮮出兵(太閤秀吉による二度にわたる日本の李氏朝鮮への軍事侵攻)

日清戦争(朝鮮半島の権益を巡って日清両国が衝突)

日露戦争(満州の権益を巡って日露両国が衝突)

大東亜戦争(アジア・太平洋の権益を巡って日米が衝突した史上最大の戦争)

の7回だけです。(厳密には、幕末の「薩英戦争」等もあるが含めない)
しかも、戦争によって領土を得たのは、日清=朝鮮半島・台湾)・日露=満州
・南樺太)の両戦役だけです。その他は一時的な占領であって、併合も総督府
(植民地行政府)の設置もなされてはいません。

――― かたや中国はどうでしょうか。

中国の歴史を紐解いてみれば分かりますが、戦争の歴史・侵略の歴史・抑圧の
歴史といっても過言ではありません。例えばヴェトナム(以下、越南)。

越南は、元々は中国南部の沿海部(今の福建省から広東省にかけての地域)にあ
った国で、古来より「越」と呼ばれてきました。しかし、中国が秦の始皇帝に
よって統一されると、次第に南へ南へと圧迫されていき、紀元前111年、前
漢の武帝によって遂に征服されてしまいました。越南はこれ以来、939年に
呉権が呉朝を建国するまで、一千年以上にわたって中国歴代王朝によって支配
されたのです。

中国が侵略した国は越南だけではありません。朝鮮・満州・蒙古・チベット・
台湾・中央アジア。これら東アジアの全域にわたって、幾度となく侵略を繰り
返してきました。現在でも、満州・内蒙古・チベット・トルキスタンが中国の
「占領」下にあります。その事は、チベットやトルキスタンでの独立運動等を
みれば分かる通りです。

日本は戦後、海外の全ての領土(朝鮮半島・台湾・南樺太・南洋諸島)を放棄し
ました。それに比べて中国は戦後、先の地域を「人民解放軍」による「解放」
の名の下に「占領」しました。又、今現在も台湾に対しては「武力による統一
も辞さず」というスタンスで臨んでいます。

そんな国に、日本の過去の「軍国主義」を批判する資格などあるでしょうか?
日本の過去の「軍国主義」や「植民地支配」を云々する前に、中国は自らの犯
している行為を、彼ら流にいうところの「自己批判」すべきではないでしょう
か。

「歴史再考:8.中国は『軍国日本』を非難する資格はない」

1911(清の宣統2・明治45)年の武昌蜂起に始まった辛亥革命は支那全土
に波及し、翌1912年1月1日、孫文が臨時大総統(大統領)に就任、ここに
曲がりなりにも「中華民国」が成立したのです。

しかし、成立したとはいえ清朝が崩壊した訳ではなく、かといって、民国政府
も発足したとはいえ全土を掌握する実力がある訳でもなく、情勢は混沌とした
ままだったのです。

このような中、時の実力者・袁世凱が、清朝・民国政府両者を仲介、「ある条
件」を以て宣統帝・溥儀──ラストエンペラーの「退位」を引き出し、同年2
月20日、宣統帝が「退位」、約300年続いた清朝が「滅亡」したのです。

と、ここ迄は皆さんもご存じの歴史だと思います。そして、皆さんは、清朝の
滅亡により「後継国家」としての中華民国が成立したと認識されている事と思
います。ーーーしかし実際にはそうではなかったのです。ズバリ言えば、中華
民国は清朝の「後継国家」などではなかったのです。

という訳で、宣統帝退位に伴った「ある条件」を軸にこの問題について考察し
てみたいと思います。

宣統帝・溥儀の退位に伴った「ある条件」とは一体何だったのか? それは、
一般に『退位協定』と呼ばれるもので、その中に清朝にとっての各種優待条件
があったからこそ、清朝──宣統帝が「退位」を受諾した訳です。そしてその
『退位協定』とは以下のようなものだったのです。

中華民国政府が清朝と締結した『退位協定(抜粋)』
┌──────────
・大清皇帝(宣統帝・溥儀)は、辞位(退位)後も皇帝の尊号を廃止せず、中華民
 国(支那共和国)は外国君主に対する礼を以てこれを待遇する。
・大清皇帝は、年金として毎年400万両(テール)を中華民国より受領する。
・大清皇帝は、暫時紫禁城内に居住し、後日、頤和園に移住する。
・大清皇帝の宗廟・陵(墓所)は永遠に奉祀し、中華民国はこれを慎重に保護す
 る。先帝・徳宗景皇帝(光緒帝)陵の工事は予定通り続行する。その奉安の儀
 式も旧制のままとする。
・紫禁城内の各職員は従来通り使用出来る。但し太監(宦官)は今後採用出来な
 い。
・大清皇帝の私有財産は中華民国が特別に保護する。
・禁衛軍(皇帝守備軍)は中華民国陸軍部の編成下に置かれる。
└──────────

『退位協定』にはこの他、清朝皇族・満州・モンゴル・ウイグル・チベット各
民族に対する優待条件等も規定されていましたが、やはり核心は宣統帝溥儀に
対する処遇であった事は確かです。

支那王朝史上、幾多の皇帝・王がその地位を失い、玉座から引きずり下ろされ
てきました。いわゆる「廃位」です。そして廃位された皇帝は「廃帝」(但し
王朝最後の皇帝は「献帝」・「哀帝」・「末帝」等、諡号[おくりな]は様々)
と呼ばれ、自殺した者、殺害された者も多く、縦[よ]しんば生き永らえたとし
ても、「庶人(平民)」の地位に落とされ、惨めな生活を送る事となった者も数
多くいました。

しかし溥儀は確かに「ラストエンペラー」ではありましたが、決して「廃帝」
ではなかったのです。溥儀は形式上、中華民国政府によって「放伐」=支那人
の易姓革命観に基づくもので、徳を失った皇帝を討伐して放逐する事)された
のではなく、「禅譲」=皇帝が帝位を世襲せずに徳のある者に譲る事)した事
になっていました。

溥儀が無理矢理帝位から引きずり下ろされたのならば「廃帝」という事になる
訳ですが、彼は禅譲した事になっているので「遜帝」=そんてい:帝位を譲っ
た元皇帝)と呼ばれていました。そして「遜帝」であった証拠が『退位協定』
における、
大清皇帝(宣統帝・溥儀)は、辞位(退位)後も皇帝の尊号を廃止せず、中華民国
(支那共和国)は外国君主に対する礼を以てこれを待遇する、だった訳で、

退位後も皇帝の尊号を名乗る事が許され、「皇居(紫禁城)」に住み続け、高額
の年金を支給され、側近等の使用人もそのまま使い続ける生活をも保証された
のです。
つまり、
中華民国政府にとって溥儀は、新政府に「禅譲」した「先帝陛下」だったとい
う事になり、その視点に立てば、中華民国は正に清朝の「後継国家」という事
ができる訳です。しかし、敢えていいます。それでも中華民国は清朝の「後継
国家」ではなかったとーーー。では何故、中華民国が清朝の「後継国家」では
ないのか?―――その答は、その後の歴史が図らずしも証明しているのです。

『退位協定』締結から僅か2年後の1914(大正3)年2月、清朝と中華民国
政府を仲介し、『退位協定』の締結に深く関与した袁世凱──この時、中華民
国大総統の地位にあったのですが──彼の公布した大総統令、

「大清皇帝(溥儀)は、本日を以て永久に皇帝の尊号を廃除し、中華民国の一国
民として、法律上一切の権利を同等に享有する」

によって、いとも簡単に反古にされてしまったのです。

つまり大総統令は「遜帝」或いは「先帝」である溥儀を「中華民国の一国民」
=「庶人」に落とすと宣言しているのです。(満蒙皇族についても同様) しか
も溥儀等には何らの相談もなく一方的にです。

『退位協定』はれっきとした契約であり、契約というものが当事者間の交渉で
改定・廃棄される事を考えると、これは明らかな「契約違反」といえる行為で
す。溥儀等からすれば到底受け入れることなどできよう筈がなく、彼等は民国
政府による一方的な協定変更を認めず、『退位協定』を盾に従前同様の生活を
続けたのです。しかし、溥儀等の抵抗も長くは続きませんでした。

民国政府側は『退位協定』の一方的な改定後、更に輪をかけるような行為を繰
り返しました。――――1924(大正13)年10月23日、時の権力者・呉
佩孚の部下だった馮玉祥がクーデター=北京政変)を起こし、首都・北京を占
領、呉佩孚の追放に成功すると、同年11月5日、馮玉祥は軍兵を紫禁城に差
し向け、溥儀等を紫禁城から追放したのです。(溥儀等は天津租界の日本公使
館に保護された)

しかし、事はそれだけでは済みませんでした。民国政府は、主人(溥儀)を失っ
た紫禁城から、清皇室の財産を悉[ことごと]く没収し、財宝の掠奪を欲しいま
まにしたのです。そして更には、あろう事か西太后を始めとする清朝歴代諸帝
の御陵にまで軍兵を差し向けて盗掘し、副葬品として埋葬されていた財宝まで
をも掠奪、それらを売却して内戦の軍費に充当したのです。

さて、話を中華民国が清朝の「後継国家」であったか否かに戻しましょう。

ここ迄みてきたように、中華民国が清朝との間に「退位協定」を締結し、宣統
帝溥儀から「禅譲」という形で政権を移譲された事は確かです。しかしその後
一方的に『退位協定』を改定、明記されていた各種条項を悉く破棄し、財産没
収・財宝掠奪等の暴挙を働いたのも事実です。

つまり見方を変えれば、中華民国は清朝から「禅譲」された政権の「正統性」
を自ら放棄した──「後継国家」としての地位を擲[なげう]ったといえ、それ
は図らずも、清朝歴代諸帝御陵に対する盗掘が何よりも証明しているのです。

「遜帝」溥儀が、民国政府による『退位協定』の一方的な改定・破棄によって
「廃帝」にされ、更には紫禁城を逐われて、天津租界の日本公使館に保護され
たのは前述の通りです。その後、関東軍によって父祖発祥の地である満州に迎
えられ、「後清」ともいえる「満州国」の皇帝に返り咲いたのは周知の事実で
す。

しかし、もしも民国政府が『退位協定』を一方的に改定・破棄することなく、
「遜帝」溥儀をはじめとする清朝・満蒙皇族の身分を保障し、満蒙・ウイグル
・チベット各民族に対する優待条件を遵守尊重していたとしたら・・・・

溥儀がわざわざ「満州国」の皇帝になる必要もなかったでしょうし、或いは非
漢民族による支那国内の分離独立運動も起きなかったかも知れません。その意
味では、その後の「歴史」は支那(民国政府)自身が招来した事ともいえるので
す。

「歴史再考:108.中国は正当な清国の『後継者』ではない」

                        = この稿おわり =
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┌──────────「ken39 さん」

日本のお姉さんの発表スタイルは、理性的且つ事実の積み上げで全く問題あり
ません。こういうスタイルでも未だ抜け穴探して反論し自己主張するのが世界
の常識なのでしょう。

しかし、日本のお姉さんの論理が世界の常識にならないと、歴史は死にます。
是非これからも頑張って日本、支那、世界をリードしてください。応援させて
もらいます。

└──────────
┏━┳━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┃┃ お便りで頂きましたご意見。
┗━┛
┌──────────「yamato44さん」男性@五十代@神奈川

日本のお姉さんへ、楽しいメルマが毎週ありがとう。

実は日本人は残虐な民族ではありません。古くは元寇の役、新しくは上海事変
及び通州事件等で、在留日本人が大変残虐なことをされました。それを鎮圧部
隊が目のあたりにして、それまで一般民衆に手を出さなかった鎮圧部隊が怒り
心頭に達し反撃をしたのです。

それをよいとは言いませんが、現地でそのような状況に遭遇した兵隊を当時止
めることは難しい事と思っています。頭の隅に留め置いてください。

└──────────
 
┌──────────「日本のお姉さんから」

満州では、支那人が起こした殺傷事件が5年間で300件起き、日本人が次々
に殺されたのでみんな頭にきていました。

昭和2年31件、3年37件、4年77件、5年95件、計240件、在満朝
鮮人迫害やテロを含めると、昭和6年9月には300件以上の事件が勃発して
いました。日本国籍の朝鮮半島人も狙われたので朝鮮では反支暴動が発生し、
それが支那で排日を激化させることになりました。

民間人だけではなく、軍人も支那人によって殺されました。しかし支那はその
事実を認めず、日本の愚連隊が自国の軍人を殺したんだと内外に宣伝していま
したが、隠しきれなくなるとやっと認めました。支那人は満州の民間人や軍人
を殺すという卑劣な仕打ちを日常的にしていたのです。

日本にしてみれば、満州は、日本がロシアと戦って清国に取り戻してあげた土
地で、それ以前には既にもう清国のものではなくなっていた。

日本人が命をかけて南下してきたロシアと戦ったのであって、清国がロシアと
戦ったのではない。清国は満州で戦った日本に対し「清国は関係ないよ」とい
うメッセージを送っています。日本がロシアと戦って勝った。その結果、満州
での利権を「得た」のでした。

「当時の世界」の常としては、満州は当然日本が手に入れても良い土地だった
が、あえて清国に返してあげた。当時のイギリス人は、それを「奇妙なこと」
だと評しています。

日本は西洋諸国の目も気にしていたので、植民地にみえることを恐れ、満州で
軍制をしかずに、満州鉄道を使う権利を足がかりにして日本の経済を立て直そ
うとしていました。
アメリカは、南米や太平洋でどんどん植民地を作っていましたが、満州で日本
が繁栄することには不満だと表明しました。アメリカも満州に利権を得ようと
していたのです。

アメリカと西洋は、異常に高い関税をかけるという方法で、貿易をして生きて
いる日本のような(資源や植民地を)持たざる国を苦況に追い込んでいました。

アメリカは、ヨーロッパからの移民は受け入れているのに、突然日本人の移民
を拒絶する法律を作りました。「当時の日本」にとっては、満州は生命線であ
り、「当時の考え」では、満州鉄道の管理は日本が戦争で得た正しい権利だっ
たのでした。だからアメリカも、東京裁判でも日清戦争や日露戦争のことまで
は遡って言及しようとはしていません。

支那人のナショナリズムは、異常に高揚していた。ロシアが支配してノーマン
ズランドだった満州を、日本が莫大な資金をつぎ込んで開拓し、満州鉄道を整
え、繁栄する地域に変貌させたのでしたが、支那人はそんな日本を妬み、清の
故郷である満州を支那人の土地だと言いだしました。そして満州に住む日本人
や朝鮮半島の人々を襲いだしたのです。

万里の長城の北が満州人の土地であるのはみんなが知っていることでしたが、
支那では内戦が続き国も政府も無いような状態だったので、支那から逃げ出し
て満州に入った支那人が3000万人にもなっていました。日本人は何百万人
しかいなかった。

支那人が開拓していない土地は最悪の土地で、日本政府は積極的に募った開拓
民を北のほうに送り込んで開拓させた。----終戦間際逃げ遅れて、彼らが一番
悲惨な最期をとげた。---- あまりに土地が悪かったので、日本の開拓民のた
めに支那人の農地を日本政府が買い取る場合もありました。

あまりに支那人が日本人を襲うので、日本軍は満州を支那から切り離したいと
考えるようになりました。しかし、日本が自国民を支那人の暴行から守るため
に満州を支那から切り離して独立させのは、西洋には許されても日本には許さ
れないことだったのです。

満州で、毎年何十人と支那人による犯罪で日本人が殺されても、日本はずっと
我慢していたが、それを支那は弱いとみて、どんどん「反日」「侮日」「日本
商品不買運動」などを行いました。

蘆溝橋で夜間演習中の日本軍に、発砲して戦闘を誘発しました。

支那の民衆が日本と戦うことを強く望んだこともあって、蒋介石は日本と交戦
するようになりました。力ではとてもかなわないので、アメリカを使って情報
戦で日本を悪く言う作戦をよく使いました。紹介石は、上海では民間人を空爆
し、多くの外国人や支那人を死なせました。日本軍の応戦を、アメリカは日本
が外国人を殺傷したと批判しました。

明治34年の北清事変=義和団の乱)講和議定書=辛丑条約)に基いて、当時
の北支には、日本をはじめ英米仏伊各国が軍隊を駐屯させており、自由に訓練
・演習を行う権利を持っていたのです。各国の兵力については取り決めがあり
ましたが、治安情勢に伴って増派と撤兵が繰り返されるのが普通のことであり
それは各国の情勢判断に任されるのが実状でした。

ソ連共産党の手先の支那人が、支那軍に紛れて、支那軍と日本軍が戦争をする
ように常に工作をしていたようです。蒋介石も本当は日本軍と戦いたくなかっ
たので何度も停戦協定を取り決めたのですが、当時の支那人は日本と戦争をし
たがったのです。蘆溝橋での日本軍側戦死11名、負傷36名。支那軍側死傷
者100名以上。

┌--------------------「引用ここから」

http://yokohama.cool.ne.jp/esearch/kindai/kindai-sina1.html ←これが
開けない場合は http://chinachips.fc2web.com/repo4/047material01.html

最初の発砲は、今日では「最初の射撃は宗哲元指揮下の国府第29軍に潜入し
ていた中共側である」とする説が有力で、また北京に潜入し劉少奇そそのかさ
れた北平大学、精華大学の学生を中心とした学生ゲリラがそれを支援していた
ともいわれています。

共産党は7月8日早朝、述安の本部から全国へ「蘆溝橋で日本は攻撃を開始し
た。全国民衆の愛国運動を結集して侵略日本に立ち向かうべし」とする電報を
発信しています。この打電時刻は日支両軍司令部でさえ事態の真相をつかんで
いない時で、この時点でこのような電報が打電されたことは、共産党が影でこ
の事件を計画して実行したということを十分推察できます。

また、モスクワのコミンテルン本部も、
1−あくまで局地解決を避け、日支の全面的衝突に導かねばならない。
2−そのためにはあらゆる手段を利用し、
3−民衆工作によって彼らに行動を起こさせ、国民政府を戦争開始に到らしめ
  る。
といった指令を発しています。

共産党は、これらの指令に基づき、幾度も停戦協定を破りました。その後日本
側から働きかけた事変解決の和平交渉をすべて流産させたのです。

7月17日、蒋介石は、蘆溝橋事件は日本側の計画的挑戦行為であり、「最後
の関頭」の境界である、とする重大な決意を声明しました。日本はこれを対日
全面戦争を決意したものと判断しました。

7月25日、天津と北京の中間で、軍用電線を修理中の日本の部隊が、張自忠
の部隊から攻撃を受け多数の死傷者を出す「郎坊事件」が発生。

蘆溝橋付近における支那軍の挑発的態度に変化なく、北平や南苑付近でも各種
小事件が発生、26日には広安門城壁上から、トラックに分乗した日本の部隊
を射撃する「広安門事件」が起こりました。

さらには29日、安全であるはずの通州で、支那の保安隊が叛乱を起し、特務
機関長細木繁中佐以下の日本人居留民260人を惨殺する「通州事件」が発生
しました。

└--------------------「引用ここまで」

「通州事件」での惨殺状況は、――――電柱には針金で吊された日本人の裸の
死体がブラブラ揺れており、女性は、子供から老婆まで輪姦されて乳房を切り
取られ、妊婦は腹をえぐられ胎児を刺し殺され、女性はほとんど全て、陰部に
棒を差し込まれて殺されていた――――。

頭は斧で割られていた。頭だけではなく、手足を切り離されたり、首を切断さ
れている死体もあった。また、死んでから引き回した跡がある死体もあった。

通州の日本人は、留守を守る女性が多かった。死体は裸で、顔も分からないぐ
らい損傷しており、白足袋を履いているので日本女性だと分かる有様。この時
の写真を、支那は、あろうことか南京での虐殺の証拠写真だとして反日教育に
使っている。

日本の鎮圧部隊が声をあげて「日本人はいるか〜!}と呼ぶと、片腕を切られ
た老婆や、腹を刺されて血まみれになった妊婦が、ひとり、ふたりと物陰から
出てきたそうです。実際に見た日本兵が東京裁判で証言をしています。

支那の叛乱保安隊は、日本人260人を居住区からわざわざ連れ出して、逃げ
ないように門を閉めてから輪姦したうえで殺したのでした――――。


ここからは、なぜ日本軍が南京へ向かったのかという説明になります。
詳しくはこちら↓で読んでください。
http://yokohama.cool.ne.jp/esearch/kindai/kindai-sina2.html ←これが
開けない場合は http://chinachips.fc2web.com/repo4/047material02.html

┌--------------------「引用ここから」
 
ついに支那派遣軍は軍事行動の意見具申を中央に打電、不拡大主義者・作戦部
長石原莞爾も、事ここに到っては決断せざるを得ず、居留民・権益保護のため
の動員派兵が決定されました。

参謀本部では、出兵は北支にとどめ、上海・青島には拡大しないよう極力努力
していたが、昭和12年8月9日、1830陸戦隊西部派遣隊長大山勇夫海軍
中尉と斎藤与蔵一等水兵が支那保安隊よって射殺される事件が発生。
第3艦隊司令長官・谷川清中将は、南京政府に対し、停戦協定区域内における
支那軍・同軍事施設の撤去を要求。

8月10日 閣議で海軍大臣・米内光政大将は、上海方面の状況を説明したの
ち、真相判明を待って対処したいが、さしあたり陸軍部隊の動員準備を願いた
いと発言した。石原部長は反対したが、杉山陸相はこれを諒承、閣議では現地
居留民保護を再確認し陸兵派遣の準備を容認した。

8月11日、支那側は公然と軍隊を上海に増派し、兵力は計5万にも及んだ。
対する日本海軍陸戦隊は4千に過ぎず、この夜応急警備についた。

第1次上海事変(昭和7年3月)でも日本軍と激戦を交わした張治中指揮の支那
軍は、8月13日、総攻撃を開始、日本陸戦隊は14日には優勢な支那軍の包
囲攻撃を受けるに至った。

8月14日、支那空軍は上海租借地を爆撃。初戦果を挙げた。アメリカは支那
を責めずに、無防備な都市を日本軍が空爆したことを責めた。

└--------------------「引用ここまで」

11月の上海方面での日本人死者累計は9115人。負傷者は31259人。
8月29日までの北支での日本人死者累計は2300人、負傷者6262人。

日本軍は頭にきていたので、上海から逃げていく支那軍を追って当時の首都南
京へ向かっていった。「悪い支那が日本人を襲わないように懲らしめる」とい
う考えだった。

あまりにも早い速度で攻めていったので、食糧が届かず、現地調達となった。
食事もするヒマがなく、ダイコンをかじりながら南京に向かった隊もあったと
いう。兵士たちの中には、通州で起こった民間人260人虐殺の事件を知って
いる者もいた。

南京城内にたどり着く前に、日本兵の消耗もひどく、全滅した部隊もあった。
生き残った小人数の部隊の中隊長の判断で、大勢の民間服を着た捕虜を始末す
るようなことになった。民間服を着ているが、銃や手榴弾を隠し持って日本軍
に襲いかかる支那軍と、民間人を区別することは難しい状況だった。巻き込ま
れた民間人もいただろう。

一瞬でも躊躇したら自分が死ぬという状況下では、人間は普通の精神ではいら
れない。みな発狂したような興奮状態でいたのだ。戦争とはそういうものだ。

だから戦争にならないよう、世界中が努力しないといけない。当時の支那は、
常に日本と戦争をしたがっていたということを支那人は忘れている。戦後、周
りの弱い民族を次々と侵略して征服したことも忘れている。

日本だけを責めるが、日本は常に支那との戦争を避けようと努力していたのだ
が、日本と支那を戦わせようとする、ソ連、アメリカ、イギリス、支那共産党
の思惑どおりになったというわけだ。

一番得をしたのは、北方領土やカラフトを手に入れ、支那を共産化できたソ連
だろうーーー。

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