┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ━┓ |
┃ ┃ ┃ |
![]()
心が元気になる話 ――――――――― by hideおじさん
![]()
|
☆ 彼らに言葉を ―――――――――――――――――― 2008/09/22
1878年京都に日本で初めての「聾学校」が創られた。
設立者は古河(古川とも書かれる)太四郎、もともと小学校の教員であったのだ
が、3人のハンディキャップをもった生徒を担任したのが聾唖教育に係るきっ
かけであったといわれる。
彼は日本で初めて「手話」を考案した人物で、身振り手振りが主であったが、
手話の基礎を築いた人物である。
日本の聾唖教育の歴史というのは、江戸時代に遡ることができる。
幕末から維新前夜にかけて、海外聾唖学校の視察や、コミュニケーション方法
など西欧から学習している。
しかし、古河の時代はまだまだ確立した教育方法があるわけでもなく、それこ
そ手探りの状態であった。筆記によるものだったり、あくまで家の中でのみ通
じるジェスチャー程度のものであったらしい。
古河の努力が実り「東京聾唖学校」が設立、日本の聾唖教育がスタートする。
そして、ここを卒業した日本人教師が朝鮮に渡り、朝鮮における聾唖教育の基
礎を築いていくことになる。
ただ、非常に残念ではあるが、これら多くの記録、また関係者がほとんど存在
せず、詳細については判らないケースが多い。
大韓帝国時代の朝鮮においても、近代化の流れの中、学校教育の一環として聾
唖教育というのが、取り上げられており、独自に欧州に視察団を派遣したり、
また東京聾唖学校にも見学に来ていた。
しかし、当時の朝鮮においては、アメリカ人宣教師の婦人「ミセス・ホール」
が創った平壌の学校があるのみであり、それも女子だけだった。 日本の統治
がなかったら大韓帝国が独自の聾唖教育を進めていただろうと言われるが、そ
れはあくまで両班クラスの資産階級のみを対象にしていたともいわれている。
古河を師と仰ぎ、朝鮮聾唖教育に心血を注いだ日本人がいた。
大場光蔵、そして自らも目が見えないというハンディキャップを持った根元介
蔵である。
大場は朝鮮総督府に掛け合い、教育部門に聾唖教育担当部署を設けることに成
功する。
根元は、自身盲目という立場から生徒の気持ちを良く理解し、ともすれば自暴
自棄になったり、今でいう「引きこもり」になりがちな子供たちを「学校」と
いう仲間が集う場所の素晴らしさを説いて回った。
当時の資料が残っていないため詳細は判らないが、教育方針は日本の学校を模
したものであっただろうといわれている。
当時、なかなか社会には受け入れてもらえなかった聾唖教育ではあるが、朝鮮
総督府は厳しい財政状態の中でも聾唖教育の予算を削ることはしなかったとい
う。
終戦までに、千人を越えるハンディキャップを持った子供が社会に出て行った
という。 そしてその子供たちが、後の韓国における聾唖教育の基礎となり活
躍していくのである。
日本・台湾・韓国のハンディキャップを持った人たちは、お互い手話を通じて
会話ができるという。それも相当高度な意思疎通を計れるというのである。そ
れは日本人がもたらした手話という技法が、今でもこれらの国のベースになっ
ているからである。
私たち健常者は、お互い通訳がいないとコミュニケーションが取れない。
しかし、彼らは通訳など必要とはしない。古河、大場、根元が本当に目指して
いたのはこんなことだったのかもしれない。
= この稿おわり =
┌―――――――――――――――――――――――――――――――――┘
└→ 感想や激励をよろしくお願いいたします。
|