大東亜戦争中、日本は占領地に民生部を置き統治を行ったのだが、他国と一番
異なる点は、そこに「文教課」を設けたところといわれている。ーーー字のご
とく教育に携わる部署である。
「教育」とはいうものの「占領地を日本化するための教育機関」という批判が
ありそうだが、そう単純なものではない。
昭和17年7月、インドネシアに一人の男が降り立った。
民生部文教課長「鈴木政平」である。
海軍の司政官である鈴木は、昭和19年12月までの2年半、インドネシアの
教育改革にあたる。
最初にインドネシアの教育事情を聞かされた鈴木は驚いた。学校と呼べるもの
がほとんどない。本屋すらない。さらには共通語がない。
学校の授業内容を見ても、歴史教育がない。――――神話、民話、童謡すらほ
とんど教えられない教育。バリ島においては、歌の「ドレミファソラシド」の
使用は許されなかった、現地の音階のみである。要は歌うことさえままならな
かった。ーーー唯一の例外は「オランダ国歌」。
絵画もバリ風の伝統的手法のみ許され、風景画、遠近法、図案などなど、一般
的な絵の手法を用いたものは焼却処分となった。
入学式、卒業式、運動会、学芸会、遠足なども禁止であった。
「読み書き算盤」以下の教育がインドネシアの実情、「土人は常に土人である
べし」ーーーそれが数百年に渡るオランダ統治の現実であった。
鈴木を一番驚かしたのは、卒業証書、官吏・教員の辞令までの税金であった。
印紙を購入しなければ紙一枚手に入れられなかったのである。ーーーこの風習
(?)は今でも一部残っている。
鈴木は最初に授業料の廃止を手がけ、6年間の男女平等の初等教育を目指した
のだが、余りにも学校の数が少なく、またインドネシア人教員も少なかった。
そこで、学校建築を進めるとともに師範学校を設立し教職員の充実を計った。
即製では限界があるものの、インドネシア各地に学校が建てられ、昭和19年
4月には、バリ島だけで500に及ぶ小学校が設けられた。校庭を作り体育を
教科に採り入れ、運動を通して体力と連携の大切さを学ばせた。
女子児童数も、昭和17年4月では僅か数パーセントだったのが、19年には
42パーセントと激増している。
さらに鈴木は、将来国家を担う人材育成の為、農業・漁業・造船・工業・医学
などの専門、または訓練学校を創り、教師として多くの日本人を投入、
統治初期、約600人程度だったといわれるインドネシア知識層が、終戦直前
には約10万人程度まで増えたという記録もある。ーーー独立後国家建設の中
心となった人材は、ほとんど日本の学校で学んだ人であった。
鈴木は教育改革をスタートさせるにあたり、数少ないインドネシア教師に次の
ように語った。
┌--------
教育とは、知識を授けたり技術をみがいたりするだけのものじゃあない。読み
書き算盤などは、教育のほんの一部分でしかない。教育とは人間をつくるもの
である。
└--------
そこから、当時共通語となりつつあったムラユ語(現インドネシア語)を教育用
語として採用、その次に高度な知識を理解させるため日本語教育へとつなげて
いった。
多民族国家であるインドネシアに、言葉を通じてアイデンティティーを持たせ
その後の独立戦争への足がかりとなっていったのである。
「日本語教育をした」ということで朝鮮・台湾と同じように批判する人がいる
が、それまで共通語さえ持たされなかったインドネシアで、初めて国語を手に
入れることができた事実は、インドネシアでも高く評価されている。
終戦後、インドネシア人に「日本がした良いこと・悪いこと」を聞いたところ
現地の人は口を揃えて次のように答えたという。
「悪いことは、私たちを無理やり学校に行かせたこと。そして良いことは、そ
れでも無償で私たちに教育の大切さを教えてくれたこと」
戦前日本は、どの地に行っても国家建設の基本である「教育」を重視した。
戦前戦後を通じ、所謂占領地で学校教育を施政の中心としたのは日本以外には
ないのだ。
= この稿おわり =
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┃
┃ お寄せいただきましたご意見や感想。
┗━┛ ┌──────────「珈琲好きさん」
昭和17年〜20年の僅か3年(2年半)で、600人から10万人の知識人を
育てたのですか・・・。昔の日本人って凄いですね。(^^)
└──────────
▼
┌──────────「hideおじさんから」
日本の特色として挙げられるのは、占領地で必ずといってよいほど「教育」を
取り入れたことです。インドネシア、マレーシア、ミクロネシア各地、その他
小さいながらもアジア各地で「教室」程度のものは数多く設けられています。
インドネシアにおける知識人10万人という数字は、ある程度誇張されたもの
かもしれませんが、戦後のインドネシア建設の中心になっていったことを考え
ると、相当数の人間に教育が行われていたと考えるべきでしょう。
大東亜戦争以前を見ても、清国における学校建設や日本への留学制度等々。
あの江沢民ですら、日本の後押しで建てられた「南京中央大学」で学び、「海
ゆかば」を流暢に歌えるとも、日本語を話せるとまで言われています。
これを「日本化の一環だった」と否定する人たちも多いですが、特にインドネ
シアの場合は、日本の占領によってインドネシア語(共通語)の基礎が創られた
ことが特筆されます。
それまでオランダは、共通語を持つと反乱の惧れがあると、現地語(地方語)以
外は使用させませんでした。インドネシア人の識字率は3%程度だったと言わ
れますから、どれだけ過酷な支配だったのか伺えます。
それを変えたのが日本という点も見ないと、何でも「侵略」という片手落ちの
歴史しか理解できないのではないでしょうか。
└──────────
┌──────────「jaramuさん」
昔の日本人達は、エイシアを白人達のプランテーションから、近代国家にすべ
く努力をした訳ですが、しかしそのような精神が、今日の日本人には受け継が
れていない事が全く残念でなりません。
多くのエイシアンは日本に憧れており、日本で働きたい、日本で勉強したいと
考えておりますが、しかし今日の日本人、特に右に強く傾く者達はその事に強
く反対いたしております。
ドイツが失敗したというのであれば、それは教訓とすべきであり、米国が今後
も発展すると思われるのは、やはり移民を受け入れている点にある筈です。
手段については侃々諤々と考えていけばいい事でありますが、しかし何もしな
いうちから石橋を叩いて割ってしまうようなあり方には、全く残念でなりませ
ん。
└──────────
▼
┌──────────「hideおじさんから」
昔の日本人は、「教育」というものに心を砕いてきました。それは、近代化に
は「教育」が不可欠というのが福沢諭吉の持論でもあり、日本の基本だったか
らです。
だからこそアジア諸国に出張った時にも、まず「教育」を持ち込んで意識改革
を即したのであって、単に批判されるものではないはずです。
仰るように、当時の日本人の心意気が、今あるのか?といわれると非常に心も
とないというのが正直なところでしょう。何より日本で学びたい働きたいとい
うアジアの人々が多いにも係らず、受け入れる体制が非常にお粗末であり、お
役所も柔軟性に欠けています。
外国人受け入れというのは、ある意味異文化も受け入れるということです。
体制も勿論ですが、果たしてそれだけの度量と、消化できるだけの容量が今の
日本人にあるのかということも考えなければならないのではないでしょうか。
そこを考えずに受け入れると、お互いの利益にはならないと思います。右側の
人が反対するとかしないとかの問題以前に、彼らが日本を理解した上で、その
力を十分発揮し、日本の活力になってもらえるようなシステム作りと、私たち
自身への教育も必要ではないでしょうか。
開闢以来、本当の意味での多民族国家を経験していない日本は、他国より慎重
に考えなければ、アジア人を受け入れても宝の持ち腐れになってしまう可能性
があると私は思います。
└──────────
┌──────────「在北京日本人さん」
インドネシアには学生時代留学しておりまして、本当に懐かしく思いました。
インドネシアでは、日本軍がオランダ支配を開放し、第二次世界大戦の終結と
ともに日本軍が撤退した後にも、当地に残り、インドネシア建国を支えた多く
の日本人を国家英雄墓地に安置し、毎年大統領がお参りしてくれています。
インドネシア人にとっての日本人とは、尊敬と親しみの念を持って認識されて
おり、とても重要な国と思われています。
それで、今回のアフガンの伊藤さんの件で、外務省、福田総理の対応はなんな
んですか?せめて、総理の緊急会見でも行い、途上国支援を行った伊藤さんに
対し、
「我が国の誇りです。国民の皆さん黙祷を捧げましょう」と言って欲しかった
と思います。恒久平和は、国民の強固な意志無くして作れません。
アメリカや中国と一線を画す、日本の平和理念を世界に伝播させるべきです。
└──────────
▼
┌──────────「hideおじさんから」
インドネシアへの留学とは非常に貴重な経験ですね。
戦前の日本が、なんでもかんでも良かったとは言いませんが、現地の人が今で
も敬意を表してくれること、それと同じことが今の日本もできるはずです。
それを、「侵略したから」とか「迷惑かけたから」という綺麗ごとで責任逃れ
をすべきではありません。
今回のアフガニスタンの事件は、非常に残念ではありますが、現地に根付いた
活動をする人たちを日本としてどうカバーしていくのか、また彼らをどう守っ
ていくのか、真剣に考えるべきではないでしょうか。
日本独自の平和理念があるのなら、なおさら海外活動のシステムをちゃんと確
立すべきだと私は思っています。
だいたい、面倒臭いことをNGOに任せていること自体間違っています。何か
あったら「自己責任」と批判するのは簡単です。しかし、アフガニスタンなど
治安の良くないところでも、思う存分力を発揮できるような体制作りをしなけ
れば、同じ悲劇は繰り返されると思います。
└──────────
┌──────────「morineko1908さん」
よい話です。後付の批判はいくらでもできますが、実際沢山の子供達が教育を
受けられた事は文句無くいいことですね。
バブルの頃でしたが校長や教員退職者のグループとお付き合いがありました。
彼らの一部が、突然東南アジアに興味を持ち、タイに2箇所、ネパールに4箇
所の小学校を作りました。おかげで私は3回も、古い教材やノートを山ほど抱
えてネパールへ行く羽目に、、。
100万前後で1校作れましたので、お金も時間もある皆さん燃えた燃えた。
結局、現在残っているのはネパールに2校のみ。
ガラス一枚割れても山道を徒歩で10キロ・・トホホ
当時から私が何度「作るの簡単、維持大変よ〜」って言ってたんですが、やは
り皆さんの高齢化と資金不足でした。2校残ったから良しとしましょう。何百
人かの子供達が、たとえ数年でも教育を受けられたのは良かった。
初等教育を受けるのさえ贅沢行為の所はまだ多いですね。というより、教育を
受けられるのが当然な国のほうが少ないか。日本のガキには有難味わかんねぇ
だろうなぁ。
└──────────
▼
┌──────────「hideおじさんから」
仰るように「批判」は簡単です。日常生活でも、褒めることより批判すること
のほうが楽で人の耳目を引きます。でもそれでは何の進歩もありません。戦前
日本の良いことは、それはそれで引き継いでいってしかるべきです。
驚くことに、日本が占領したという東南アジア諸国や太平洋諸島では、必ずと
いっていいほど「教育」という言葉が返ってきます。学校とはいえなくても、
「兵隊さんが勉強を教えてくれた」という話は数限りなくあります。
まして、学校を作るという発想自体、欧米にはなかったものです。そりゃそう
でしょう「教育は植民地支配に有害である」と言って憚らなかったわけですか
ら。
それからすると、日本の占領政策というのは、やはり一味違ったものといって
いいのではないでしょうか。
morineko1908さんもご苦労されたようですが、本来なら国として取り組むべき
問題ですね。しかし、他国の教育を心配するより以前に、日本の教育も見直さ
なければならないのかもしれません。
「勉強できることがどれだけ幸せなのか」今の子供たちは判っていないのでは
ないでしょうか。
└──────────
┌──────────「井口さん」
毎回の記事を拝見しています。そして、小生の視野を広めていただいておりま
す。ありがとうございます。
今回も遅くなりましたが、今拝読しました。日本人がインドネシアにあっても
教育を重視する政策をとったということ、まさに特筆すべきものと思います。
ヨーロッパ諸国がアジアへ進出して搾取に明け暮れたこととは、雲泥の開きが
あると思います。
こうした内容の記事を継続的にお聞かせいただいておりますが、これらはまと
めて記録として残してほしいものと存じます。
逆に、現在の日本国内の状況が恥ずかしい状況ですから、後世のものが反省し
立て直しを図るために示唆となるものと思いますので。
ご活躍を祈ります。お元気で。
└──────────
▼
┌──────────「hideおじさんから」
コメントありがとうございました。
今も昔も、世界から尊敬されたり、信頼されている日本人は多いです。でも、
名も無き日本人にこそ、日本人たる誇りが強烈に感じられる、というのが私の
思いです。
今回のインドネシアでも、一時期日本を批判的に記載した教科書がありました
が、それでも「教育をもたらした」「インドネシア語が飛躍的に発展した」と
いうプラス面も取り上げています。
日本はというと、批判ばかりが目に付きます。これで何が判るというのでしょ
うか。人間の行いには、必ずプラス面もあればマイナス面もあります。その両
面を見て初めて進歩があるのではないでしょうか。
戦前の日本人が行っていたことでも、必ずや今の社会でも受け入れられるもの
があるはずです。そこに、日本が世界に貢献できるヒントもあるのではないで
しょうか。
└──────────