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私見時事論談 ―――――――――――― by hideおじさん
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☆ 対華21ヵ条要求を考察する ――――――――――― 2009/06/15
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先週の紋起さんのお話に刺激されまして「対華21ヵ条要求」に限った形で、
私なりの研究(?)を述べさせて頂きます。
これは、現在書きかけの「私論:侵略国家日本」の一部を構成しているもので
私論が完成した際には大いにダブルと思いますが、先に紹介させて頂きます。
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「対華21ヵ条要求(1915年)」が、屈辱的・国恥的なこととして、中国の
民族意識の覚醒をよび起こし、さらに抗日・日貨排斥が激しくなった。
21ヵ条要求を受諾した日、1915年5月9日が「国恥記念日」とされた。
あの誇り高い中華民族が「恥」とするからには、並々ならぬ危機意識がこの日
に表れている。
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ーーーと、このように私たちは「歴史」として教わってきた。
ちなみに私が中学の頃=1970年頃の帝国書院の教科書には:
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このことは、中国人のわが国に対する感情をひどく悪くしてしまい、この要求
を受け入れた5月9日を国恥記念日ときめ、排日や抗日の運動がこれから急に
高まるようになりました。
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と記載されている。
これに対して現在は、「21ヵ条要求」はそれほど過酷なものではなかった、
という意見もある。が、このような意見は、一般民衆の支持を得られなかった
ことには変わらないのであるから的を得ていない、という批判が強く、
「良い悪い」の言い訳だと一般的には理解されているのではないだろうか。
しかし、この「21ヵ条要求」と「国恥記念日」について、誤認や誤解されて
いる事例もないのではないか思われる。
・その第一に、国恥記念日が、いつ、どのように決められたのか、
・さらに、今の中国においても重要な日として扱われているのか、
・さらに、一般民衆の理解を得られなかったとされるが、中国すべての民衆を
指しているのか、何がどのように理解されなかったのか、
このようなことを、私たちはほとんど判っていないのではないだろうか。
これらの点を踏まえて考えないと、「日本は悪くない、いや悪かったのだ」と
いう、今までの議論と何ら変わることがないように思える。
まず、
「国恥記念日」というが、この日が制定されたのは1930年7月10日で、
国民党政府時代である。これに対応するといわれる「対華21ヵ条要求」は、
先にも述べたように1915年で、袁世凱政権=清朝)の時代である。
「一般民衆の民族意識の高揚によって」とされるならば、何ゆえ「要求」の後
直ぐに「記念日」とされなかったのか、国恥記念日の制定は1930年である
が、この15年という差はいったい何を意味するのだろうか。
「支那問題辞典(藤田親昌編)」や「支那国定排日読本(東亜経済調査局)」を見
ると「国恥」という意識は、知識人や学生を中心に「要求」の時代からすでに
認識されているということが述べられている。
このことからも「民族意識の高揚」という認識が、戦前の日本においても理解
されていたことが分かる。しかし「記念日として制定」となると、どうしても
この「15年の差」を「民族意識の高揚」だけでは説明不足の感が否めない。
横道に逸れるが、私たちが現在「国恥記念日」というと「21ヵ条要求」とし
か理解していないと思う。ところが、昭和31年の岩波書店「広辞苑」には、
「5月9日(大正4年、二十一個条問題)をその日と定めたのに始まり、満州事
変を記念する9月18日に至る八記念日があった」と記されており「国恥記念
日」とされるものが「8日」もあることが判る。
しかし、今ではそのほか7つの記念日がすっかり抜け落ちている。
昭和44年、昭和53年の広辞苑を見ると、現在に近づくにつれ「21ヵ条」
しか取り上げられなくなっている。
さらに「最後通牒で」という文言が加わり、日本側の「強制」を想像させる内
容になっているだけでなく、小学館の「大辞泉」になると、中華民国という名
が消え、「特に中国」という記述になり、さも中国以外にも国恥記念日を持っ
ている国があるかのような記載も出てくる。
このような偏った状況で、果たして正確に「国恥記念日」と「対華21ヵ条要
求」の時代背景政治状況を理解できるのだろうか。21ヵ条が、日本の中国侵
略の第一歩とされてはいるが、
これを「過酷な要求=中国民衆の反対=民族意識の高揚=日本は悪=日本の敗
因」ーーーという構図で良いのか、私は疑問を持っている。
さて、「東洋歴史大辞典(昭和12年発行)」にも「21ヵ条が当初」とされて
いるので、これが中国を刺激したキッカケとなったのは間違いないであろう。
しかしこの辞典には「排日的なもの四、排英的なもの三、その他一」と紹介さ
れ、国恥が「21ヵ条」だけではないことが記されている。国民党政府によっ
て定めたとされるものは次の通りである。
1.1932年1月28日「上海事件」
2.1927年5月3日 「済南事件」
3.1915年5月9日 「21ヵ条問題」
4.1915年5月30日「五卅[ごそう]事件(5・30事件)」
5.1925年6月23日「沙基街事件」
6.1842年8月29日「南京条約」
7.1901年9月7日 「辛丑条約」
8.1931年9月18日「満州事変」
また、中華民国の「国恥史」には「外国人と中国人の戦争史」であるとして、
その対象となっている国に、日本だけでなく、イギリス、フランス、ロシア、
アメリカがあげられている。
さらに具体的な国恥として、アヘン戦争、太平天国の乱と、その後、中仏戦争
によるベトナム喪失、義和団の乱と北京陥落、日清・日露戦争、日本の満州侵
略、ロシアの北満州侵略、イギリスのチベット侵略、ビルマ・タイの喪失等々
と、さらにこれらに関連する不平等条約などが上げられている。
これを見ても、国恥としたのは21ヵ条に限ったものではなく、中国の誇りを
傷つけた事例が全て「恥」と考えていたことが分かる。(この他にも、全部で
38以上の「恥」があげられている)
ここで気になるのが、ベトナムやチベット、さらにビルマ・タイまでも「奪わ
れた」として認識されていることである。まるで自国領土のような表現である
が、ここに強烈な中華思想が読み取れないだろうか。
この意識に中には、当時の国際法や自国の不備に原因というものがなく、自国
の責任という感覚は薄いように思われる。
そしてこの1930年という年代から考えると、この時代に北伐を経た国民党
が、中国における政治的主導権を確立したことを内外に明らかにして、さらに
国民意識の醸成と統合のシンボルを「記念日」として図り、政治基盤の確立を
狙ったものではないかと思う。
「21ヵ条」というと、日本の行為だけに目がいってしまうが、入江啓四郎の
「外交提案要」によれば、袁世凱の売国的行為による国恥記念日という認識が
あることが記されている。
孫文らの反袁世凱の動きが活発であった中国の国内政治の側面から考えると、
「21ヵ条」を利用して中国人の怒りを煽り、それを「要求」を受諾した袁世
凱に向け、皇帝になろうとしていた彼を攻撃する意図があったのではないだろ
うか。
何故なら、日本に対する抗議を主目的とするならば、「中国国民(孫文)・袁世
凱vs日本」となるはずであり、私たちが学んだ教科書の記載のとおりである
はずである。
しかし、孫文らの動きを見ると「袁世凱vs日本」のみならず、「孫文vs日
本」もあり「袁世凱vs孫文」という対立軸もあることが判る。
袁世凱が、帝政をひこうと国民党を強制的に解散させたり、国会議員の資格剥
奪を図るといったことが行われたことを見ると、独裁政権に対する反発がより
大きかったとみるべきではないのだろうか。
帝政復活に対する人民の怒りは、広東省、四川省、広西省、湖南省、などが独
立を宣言するという事態が起こったことからも、
「日本・袁世凱vs反勢力(孫文ら)」という図式のほうが強いように見える。
孫文は、袁世凱を打ち破ることが第一であり、その後日本を攻撃するという流
れではなかったか、だからこそ、孫文の流れを汲む国民党が主流になった19
30年まで、15年という時間が必要だったのではないだろうか。
また、1930年というのは満州帝国成立の1年前であり、強まる日本の圧力
に対して、早急に「シンボル」としての記念日を作る必要があり、人民の啓蒙
を促す目的があったと思われる。
横道に逸れてしまったが、だからといって「21ヵ条」が無罪などというつも
りはない。中国にとっては「象徴的な事件」のひとつだったことには変わりが
ないからである。
これが、日本の中国への圧力が強まるにつれ、中国人民の自発的な動きを国民
党が政治運動として組織化し、幅広い国民運動として統一されていったのであ
ろう。その象徴としての「21ヵ条」が「抗日運動」「反帝国主義」というも
のに収斂していったのではないだろうか。
21ヵ条があったので民衆の怒りを呼び、抗日運動が激化したという単純な図
式とはいえない複雑な背景があったのではないか。
さて、現在我々が理解するところの「国恥記念日」は、1940年には単独と
しての記念日ではなくなっている。たった10年間しか独立した記念日として
存在しなかった。ーーーこれはいったい何を意味するのだろうか。
さらに、現中国にはこの「国恥記念日」は存在しないという。
----間違いであったら指摘してください----
抗日運動の始まりという象徴的な記念日で、中国民衆の怒りと誇りをいたく傷
つけた事件であったといわれているのに、10年という短命で終わるというの
は普通考えにくい。
推測するに、これら記念日を制定したのは中華民国であって、中華人民共和国
が制定したものではないという理由もあるだろうが、中華民国中央宣伝部が記
念日を取りまとめていたことから、多分にプロパガンダの様相を帯びたもので
あって、
1940年以降その役目は終わったからと考えるのが自然ではないだろうか。
「この要求によって日本の中国大陸侵略が始まり、その結果抗日運動が高まっ
た。そして、これらのことが中国民衆の理解を得られなかったことで、その後
に続く日中戦争の敗因となった」
確かにそれも一因だったかもしれないが、先にも述べたように、中国の複雑な
内部事情を考えずに、「余りにも過酷だった」ということだけを見て抗日運動
が高まった、民衆の理解を得られなかった、それが「敗因なのだ」とするには
拙速のような気がしてならない。
では、あらためて問題となる「対華21ヵ条要求」を見てみたい。
個々の条項については、ネットで検索すると非常に簡単に調べることができる
のでここでは省略するが、当時の外務大臣「加藤高明」の外交を調べてみると
そこには「当時の国際感覚から見て比較的常識的なものしか通せなかった」と
されている。
通った条項の中には、結果的に欧米列強の利益や権益を保護するものも含まれ
ており「イギリスやフランスは反対しなかった」というのは、あながち間違い
とは言い切れない。
当時新聞記者だった石橋湛山(後の首相)などは「日本単独の利権として残るの
は2ヵ条にしか過ぎない」という主旨の発言をしている。さらに、石橋湛山を
代表する当時の世論を見ると、講和会議のごたごたから
「譲歩に譲歩を重ねた結果、これだけの成果を得るだけで、これほど国際的騒
ぎを引き起こした」との批判が出されている。当事者の日本ですらネガティブ
な意見しか見られない。ーーー「過酷な要求」を飲ませたのならば、日本にお
けるこの批判はなんだったのだろう。
結果的に、日本側の要求は目立った成果を得られなかったから批判を浴びた、
と考えるのが普通ではないだろうか。
現在言われるように「最後通牒」やら「武力を背景にして」など、日本側の強
力な圧力の下、中国に耐え難い要求を飲ませたというイメージには結びつきに
くい。
中国において国恥という反発が生まれていると認識しているにも関わらず、日
本にはその対策というものが見られない。戦争において宣撫政策が不可欠であ
るが、ここまで大きく取り上げられている「21ヵ条」にも関わらず、とおり
一遍以上の対策が見られないのが不思議である。
日本は、国恥の動きを大したことではないと軽視していたのか、それとも武力
で押さえつけられると思っていたのだろうか。だとしたらそれこそが大失態と
いえるもので、日本の敗因に繋がるものといえるのではないだろうか。
しかし、日本軍の対外施策として住民宣撫を重視することが示されていること
をみると、何もしなかったということは考えられない。ということは、この時
点では特別なことを施さなくてもよいという認識があったのかもしれない。
一方、在中アメリカ人ジャーナリストのレポートとして、日本の申し出に対し
て袁世凱は、公になる前から「概ね了解していた」という記述が残っている。
但し「内容はこれで結構だが『要求』ということにしてくれまいか。そうした
ほうが見栄えがする。やむなく調印したのだという風にしたい」と申し入れて
いるとされている。
さらに「中国にしては日本に脅迫されてやむなく調印した」ということで国内
の中国人に納得してもらうためであったのだろう」という記載も見られる。
このような体裁を整える為、「日本側も協力していた」との噂も流れており、
「裏で相当な金が動いているはず」ということまで流布していたようである。
これを裏付けるかのように在中ジャーナリストのジョージ・ブロンソン・リー
の手記に「当時、外国人記者の間では、この辺の裏事情は良く知られていた」
と書き残されている。
このような「腹黒い」ことも外交のひとつであっただろうし、21ヵ条そのも
のも、中身と結果が民衆に正確に伝わっていたのかどうかも判らない。
とすれば、日本の過酷な要求によって一般民衆が立ち上がった、事実その徴候
はあっただろうけれども、中身の問題より「日本から出された」ことが象徴的
であり、これを政治利用しようと考えた中国国内の政治勢力が大きく影響して
いたのではないかと思える。
次に抗日運動が盛り上がっていたとされる1930年代をみると、中国全体が
抗日一色だったとは思えない記述が散見される。
オーストリアのジャーナリスト、コリン・ロスの「日中戦争見聞記」には、
「自分たちは中国の民衆を相手に戦っているのではないという日本人の主張は
正しい。中国の民衆は日本軍を敵視していず、むしろ『新秩序の伝道者』とし
て受け入れていたのだ」という私たちの認識とは異なった記述が見られる。
さらに、「日本人は『中国人の共感を得ようと努力して』おり、驚くべき有様
で『一般に何らの摩擦もなく中国の生活に溶け込んで』いる。道筋には『侵略
者日本の暴虐に対して立ち上がれ』とアジる反日宣伝ポスターが貼られている
が、民衆は全く相手にしていない」というような話まで載っている。
コリン・ロスは「親日ジャーナリストだから」という批判もあるので、差し引
いて考えなければならないだろうが、他の外国人ジャーナリストからも普通に
過ごしている中国人の生活を描写していることを考えると、一概に虚偽とはい
い切れない。
北村稔・林思雲氏の「日中戦争」には「どこかの匪賊と思われていたかもしれ
ない」という話が載っているが、そもそも中国の一般民衆が、日本という国を
認識していたのだろうか、さらに日本という国を知っていたのかどうかも判ら
ない。
このような実体だったからこそ、国恥記念日も必要とされ、さらに国民党によ
る反日教育も必要となったのではないだろうか。
結論として、「21ヵ条」は中国民衆の刺激にはなったものの、その本筋は中
国旧体制の打破であり、単に「中身」の問題ではないこと。日中の摩擦が深ま
るにつれ、多くの国恥が纏まっていき、最終的には反帝国主義が「反日」とい
うキーワードに収斂されていったことではないだろうか。
さらに言えば、日本の敗因のひとつは「中国民衆の理解を得られなかった」こ
とには間違いないが、それは21ヵ条に求めるのではなく、中国における「反
日」というものの理解が日本には不足していたことなどにも起因するものと考
える。
それが「反日プロパガンダ」を有効に利用できる手段となったのではないだろ
うか。
ーーー常々思うことだが、
日中の歴史を、日本側からしか見ていないことが多いのではないだろうか。
「日本が21ヵ条を持ち出さなければ」とか「日本が中国に進駐しなければ」
など、日本のせいで戦争が起こり、民族運動も高まっていったというのは、私
たち日本人の傲慢ではないだろうか。
そこには中国独自の考え方があり、独特の政治風土、状況があり、中国人自身
の手で判断し、戦いに向かっていったことを忘れてはならないように思う。
まるで日本がいなかったらアジアは平和だった、などというのは、逆な意味で
日本の驕りのような気がしてならない。
最後に忘れてはならないのは、日中の歴史はそれこそ卑弥呼の時代から綿々と
繋がっている。中国から多くを学び、近代になってからは日本から多くの文化
が中国へと渡っていった。
そして、中国の将来を憂い、学びの場を日本に求めた中国青年が万を越える数
がいたこと。ーーーその青年たちが日本で学んだ「独立の種」を、その後の日
本が十分活かし理解してやれなかったところにこそ、日中の悲劇があったので
はないだろうか。
かつて「国恥記念日」を持った国と、今だに「国恥記念日」を教える国、本当
に乗り越えるべきは、「誰が悪かった」ではないのではないだろうか。
= この稿おわり =
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┃●┃ 読後感アンケートの結果。
┗━┛ ◇ なるほどこのとおり ---------------------------------- 25人 (61%)
◇ どうなのか?よく分からない -------------------------- 5人 (12%)
◇ 知らなかった..初めて知った -------------------------- 10人 (24%)
◇ 日本をよく見せる捏造だ ------------------------------ 1人 ( 2%)
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┃●┃ お寄せいただきましたご意見や感想。
┗━┛ ┌──────────「Hal さん」
疎漏のない資料調査、抑制された筆致、毎回hideおじさんの論考を読むのが楽
しみな Halです。今回の“対華21ヵ条要求を考察する”も、いちいち頷きな
がら拝読しました。ご労作、ありがとうございました。
特に、「結論として」以下のご考察、両国が本当に乗り越えるべき点のご示唆
は、両国民が等しく敬虔な気持で拝読すべきだと思いました。両国の心ある人
たちの蒙を開く素晴らしい論文でした。
ーーーありがとうございました。
└──────────
▼
┌──────────「hideおじさんから」
Hal さん、大変ご丁寧なコメントありがとうございました。
あくまで私個人の視点での論考ですから、賛否があると思います。
いつも思うのは「日本が悪かった」だけでは何の反省にもなりませんし、何の
勉強にもならないのではないかと思います。言葉では「反省」を口にしますが
それはどこか自分勝手な言い分にしか過ぎないように思えてならないのです。
「ごめんなさい」を連発したところで、相手に通じるものでしょうか。相手の
言いなりになることが反省なのでしょうか。逆に相手を侮辱しているような、
そんな感じも否めません。
中国との戦争ひとつとりあげても、彼らにだって悪かった点は多々あります。
国際的な約束は守らない、お金は払わない等、それらを無視して日本が悪かっ
たからだけで済ましてはならないはずです。
さらに、彼らには彼らの論理があって戦いを選んだはずです。それも認識すべ
きことではないでしょうか。
日本の欠点や罪状を並べ立てることだけで「反省した」と満足してはならない
ような気がします。相手に対して言うべきことは言ってこそ、お互いに何が悪
かったのか、今後どうすべきなのかが見てくるのではないでしょうか。
私はそう思っています。
└──────────
┌──────────「しょーちゃんさん」
東洋歴史大辞典は、学生時代にチラ見でした。国恥史も知りませんでした。
まだまだ勉強不足なことを気づかせて頂き、本当にありがとうございます。
└──────────
▼
┌──────────「hideおじさんから」
しょーちゃんさん、コメントお寄せ頂きありがとうございました。
昔読み流していたものが、今読み返してみると非常に興味深いことが書かれて
いることがよくあります。そこに新しい発見があると、さらに面白くなってき
ますし、「日々これ勉強」ということをつくづく感じております。
今回の「21ヵ条」については、いま書いている考察の一部分だけですので、
全体的にぼやけてしまった感が否めませんが、中国の視点でもこれを見ないと
本当の意味が判らないのではないかと思います。
私も現状に満足せず、勉強を続けていきたいと思います。しょーちゃんさんも
新しい発見なりございましたら、ご教授頂ければと思っております。
└──────────
┌―――――――――――――――――――――――――――――――――┘
└→ 感想や激励をよろしくお願いいたします。
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