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祖父の朝鮮・満州懐旧談録 ――――― by hideおじさん
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| ☆ 満州編(4) ―――――――――――――――――― 2005/05/27
軍は当然ですが、一般民間人や満州人、また役人連中が手分けして連絡をする
よう走り回ったそうです。その時の満州人の勇気は有難かったと言っていまし
た。ハルピンに戻ってきた同僚の話によると、運良く連絡がついたとしても、
逃げろと言っても聞かない人が多く、まさかそんなことがあるわけがない、と
頑なに拒否する人が少なくなかったそうです。
汗水たらして耕してきた畑を捨ててさあ逃げなさいと言われも、当事者にとっ
てはふざけた戯言としか聞こえなかったのでしょう。中には、こんな田舎にま
でロスケが来るわけがないと、普段通りに近くの川で洗濯しているおばさんも
いたそうです。
そう言われてしまうと「気を付けてな」と声をかけるのが精一杯で、後ろ髪を
引かれる思いで立ち去らなければならなかったということでした。
しかしソ連軍の攻撃は早く、まだ何とかなるだろうなどと思っていた祖父らの
期待はあっさりと裏切られ、関東軍のある将校から、有事の際は新京―関東州
(ほぼ現在の大大連市)まで撤退して抵抗すべしと命令されている、と聞かされ
て、既に自分らが置いてけぼりにされて、ハルピンは全くの無防備に近い状態
になっていたことに唖然となったそうです。
そうこうしているうちに、攻撃の「ドーン・ドーン」という砲声が聞こえてく
るようになり、これはいよいよかと思っているところに(地名は忘れましたが)
「ロスケの攻撃を押さえている部隊があるから、まだ少し時間がある」と聞か
されたそうです。
そこで、後方へ下がる部隊のトラックが出るらしいからそれに乗る、というこ
とになったのですが、自分らだけが逃げ出すということで非常に苦しい思いを
したと言っていました。
また、辺地からハルピンに逃げてくる人たちがどんどん増えて、祖父らがハル
ピンを脱出する頃には、街の中に入り切れないほどに増えーーー中には、どう
しようもないのでまた自分らの村に戻る、という人たちも現れるような状況に
なったそうです。
トラックで新京へ向かう途中の道でも、大勢のハルピンへと向かう日本人避難
民とすれ違い、「ハルピンはもうダメだから新京まで下がれ!」と声をかけて
も、「新京までどうやって行けばいいんだ!」と詰め寄られる場面も多々あっ
たそうです。
祖父は「そりゃそうだ。汽車がアテにできるわけでもなし、ただやみくもに逃
げろと言ったって歩くしかないんだから、我々の話なぞ空疎に聞こえたことだ
ろうな」と自虐的に語っていました。
暫くすると、トラックに乗っている自分と、ただ歩いている日本人を比べるの
が辛くなって、ずっと顔を下に向け、回りは見ないようにしていたそうです。
同乗している人たちも無言で、目の前に展開する現実を、ただ無表情に受け流
すだけになったと言っていました。
新京に近づくにつれて避難民の数も増え、もうどこそこまでロスケが来ている
とか、いや関東軍が撃退したらしいとか、いろんな噂が混乱して飛び交ってい
て、正確な状況判断などとても出来るような状況ではなかったそうです。
ともかく新京を目指して来たのはいいけれど、祖父の役所も騒然としていて、
祖父自身も既にまともな判断が出来るような状態ではなかったようです。
これが最後かもしれないという汽車で奉天(現在の瀋陽)まで逃げることになっ
たのですが、汽車は人で溢れかえっていて、中には蒸気機関車の釜の部分にま
でぶら下がっている人までいたそうです。
家族だけ無理やり汽車に乗せて自分は残るという男、人を押しのけて乗ろうと
する人、そんな人々をただじっと見ているだけで、なにも出来なかったそうで
す。ーーー「お願いです!子供だけでも!」という母親の悲痛な叫びが耳に飛
び込んできた時には、もう逃げる気力すら失せはてていくような、
が、
気が付いてみたら、同僚と一緒に汽車の連結部にしがみついていたそうです。
その時祖父は、「あの子は汽車に乗れただろうか」と、ただそれだけを思って
いたと言っていました。
奉天へ向かう道すがらでも、たくさんの日本人避難民が「汽車に乗せてくれ」
と懇願してきたそうです。ーーー同僚の中には「俺が残るから」という人もい
たそうですが、一人や二人が降りたところで、避難民全員を救える訳でもなく
モタモタしていると、今汽車に乗っている全員が危なくなってしまうわけです
から、「次の汽車があるから」と半ば嘘を告げるしかなかったそうです。
いや、
事実、次の汽車はあったそうですが、既にソ連が行く手を阻んでいたこともあ
り、筆舌には尽くし難い悲惨な状況が繰り広げられたと言っていました。
奉天(現在の瀋陽)まで来たところで終戦を知り、「置き去りにされたんだ」と
痛感したそうですが、ーーーしかしハルピンから奉天まで、自分もたくさんの
日本人を置き去りにして生き残ってきたわけなので、こんなことなら最初から
ハルピンに残っていれば良かったーーーとも思ったようです。
ところが満鉄に勤めていた或る朝鮮人が、たまたま父の知り合いだったことが
幸いし、彼の家に暫く身を寄せられることになりました。朝鮮人より朝鮮語が
上手いといわれた祖父でしたから、周りからは日本人とは思われなかったそう
で、その後やってきたソ連兵にも疑われることはなかったと言っていました。
当時の奉天市内や周辺には、朝鮮人がたくさん住んでいたそうで、祖父の同僚
共々、いろいろと助けてもらったそうです。しかし、いつまでも彼らの世話に
なっているわけにもいかず、また、いつ日本人とバレるかしれないため、とに
かく奉天を出て、現在の北朝鮮あたりまで、朝鮮の知り合いと一緒に逃げてき
たそうです。
ーー祖父は、奉天から朝鮮までのことについては、一切話しませんでした..。
ただ、「毎日お経をあげながら歩いた」とだけ話していました。
亡くなってしまった今となっては聞くこともできませんが、推測できるとすれ
ば、最初に祖父が言っていた「私は、自分が助かりたいが為に..多くの日本人
を見捨ててきた..」ということに尽きるのではないかと思います。
一介の役人が、どうあがいたとしても、満州にいた日本人全部を救うことなど
できなかったと思います。ーーーそれでも祖父は慙愧に堪えなかったのでしょ
う、帰国した日本人の中には、新しい政府の役人になった人も多かった中で、
最後まで役人に戻ることはありませんでした。
ーーー北海道の田舎に引き篭もり、農業をして暮らしました。
祖父が息をひきとる間際に、混濁した意識の中で口にした言葉は「コンブハム
ニカ?」でした。「勉強をしてますか?」という意味です。ーーーたぶん朝鮮
時代の、子供が電灯の下で勉強しているまぼろしを見ていたのではないかと思
います。ーーその子供たちに「勉強しているか?」と聞いていたのでしょう。
祖父は朝鮮を愛していました。 祖父の同僚達もまた朝鮮を愛していました。
今、どう批判されようと、これは事実です。当時、多くの日本人は、誰も朝鮮
を植民地だなどとは思っていなかったですし、同じ「国」として愛していたの
だと思います。
年々少なくなってきてはいるそうですが、韓国との国交が回復して以来、朝鮮
時代の同窓会が催されていると聞きます。たくさんの韓国の教え子達が日本人
教師に会いに来るというのです。ーーーこれが何を物語っているかは、説明す
るまでもないと思います。
ーー私は、中国や韓国がどう日本を批判しようと、それはかまいません。
しかし、祖父ら多くの日本人が、満州や朝鮮を愛していたことは記憶に留めて
おいてもらいたいと願っています。
= 満州編完 =
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◇ このとおりだと思う ---------------------------------- 36人 (77%)
◇ そうではないと思う ---------------------------------- 1人 ( 2%)
◇ どちらともいえない ---------------------------------- 2人 ( 4%)
◇ 知らなかった。そうだったのか〜 ---------------------- 8人 (17%)
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┃ ┃ アンケートコメントボードに頂きました感想。
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┌──────────「ミカの赤い服さん」
hideおじさん、こんにちは。「知らなかった。そうだったのか〜」に投票しま
した。
満州編の記事を執筆いただき、ありがとうございました。当時の様子を垣間見
ることが出来ました。次回からの『天安門事件』編も期待しています。
└──────────
▼
┌──────────「hideおじさんから」
祖父が語る満州は、余りに少なく苦労も多かったですが、少しでも当時の雰囲
気が伝わってくれたならば嬉しい限りです。―――満州にも温泉があったとか
スキー場があったとか、日本酒は「満州桜」が旨かったとか、そんなたわいの
な」い話もしていました。
ある意味..ノー天気な祖父でしたが、楽しい話しで悲しい思い出を忘れようと
していたのかもしれませんね、、、。
「天安門事件」は、私にとって非常に大きなインパクトがあった事件でした。
真面目に中国のことを勉強しなければと思ったのも、この事件がきっかけとい
えます。
上手く皆さんにお伝えできるかどうか不安もありますが、これからもお付合い
戴ければ幸いでございます。
└──────────
┌──────────「PACKMANさん」
この通りだと思うに入れました。以前に、藤原ていさん(新田次郎の奥さん)の
書いた「流れる星は生きている」という本を読み、残留孤児の問題にも関心を
持っていますが、ともかく大変なことであったと思います。
過去の現実と、歴史とその認識は一筋縄になれるものではないと思います。
エンドレスな歴史認識論争も否定するわけではありませんが、マイナスにはし
たくないですね。
└──────────
▼
┌──────────「hideおじさんから」
PACKMAN さん 私も歴史認識論争も必要なことだと思いますが、戦前の日本が
全て「悪い」とか「良い」とかいう認識は、お互いにマイナスだと思っていま
す。―――人間の行なったことですから、良いことも悪いこともあったでしょ
う。
一方的にお互いを責めてみたところで、感情論になってしまい、先人らが本当
に伝えたかったことを忘れてしまうのではないかと思います。
残留孤児については、まだまだ語られない部分も多いように思います。やっと
帰国された孤児の方々の生活もそうですが、彼らにも、気兼ねなく話が出来る
ような雰囲気になってもらいたいです。
└──────────
┌──────────「まさしさん」
私も台湾からの引き揚げですが、軍人家族が最優先でした。友との連絡も取れ
ず、小学校に集合、1週間後に乗船しました。
兄は将校でしたので、引率の為、我々家族とは本州に着くまで会えませんでし
たが、一般人を置いて帰国したことを引け目に思い、その後の生活は常に損な
役回りをすすんでしていました。
└──────────
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┌──────────「hideおじさんから」
まさしさん コメントありがとうございます。
きっとお兄様も、自分なりのケジメをつけていたのでしょうね。軍人家族が最
優先だったことは、当時けっしておかしなことではなかったと思います。
満州での場合でも、最後まで残った軍人さんもたくさんいらっしゃったでしょ
うし、残る人も去る人も心残りはあったのではないでしょうか。―--軍の命令
ですから軍人として当たり前のことだったと思いますが、終戦後の身の置き方
を拝見しますと、立派な軍人さんだったのではないかと思います。
楊素秋さんの「日本人はとても素敵だった(桜の花出版)」を読みますと、日本
軍人と台湾人との交流が描かれていますが、お兄様は、きっとこの本に書かれ
ているような方ではなかったかと思います。
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└→ 感想や激励をよろしくお願いいたします。
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