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祖父の朝鮮・満州懐旧談録 ――――― by hideおじさん

☆ 満州編(2) ―――――――――――――――――― 2005/05/13
当時の実情は、「村」にいる開拓団の先生に委ねられており、教育の充実とは
かけ離れた状態でした。これを、当時の朝鮮と同等にまでするというのはマン
パワーの絶対的不足、莫大な資金の必要性、そして何より、異なる民族が混住
している中、言葉も違う、習慣も文化も違う、それを「ひとつの教育」の枠に
収めるのは根本的に無理ではないのかと思ったようです。

台湾方式での教育も考慮されていたようですが、中国、それも満州と台湾では
言葉も違うし、文化の度合いや民度も全く異なる状況では、何の参考にもなら
なかったようです。

満州は、そもそも多言語地域であり、朝鮮語、満州語、モンゴル語、中国各地
の方言などが混在していました。これを、日本語、モンゴル語、北京語の3つ
を公用語と定め、学校教育によって識字率を高めていったそうです。

祖父が赴任した当初は識字率が驚異的に伸びたとはいっても、全体の2割程度
ではなかったかということです。ーーこれが太平洋戦争の終わる頃になると、
5割を超えていたということですから、ここでも日本の教育熱心さが伺われま
す。

本来ならば、今でいうところの「中国普通語(プードンファ)」が公用語となっ
てもおかしくないはずですが、当時はまだ「中国語」自体が体系化されておら
ず、地方地方で言葉が通じないというのが当たり前だったそうですから、そこ
でどうしても体系化された言語「日本語」を中心にした教育が不可欠だったと
のことです。

―― 祖父が満州に赴任して直ぐの頃

先に述べたように、新しい教育制度の導入が決まっていたようで、共通言語、
文化、知識の習得と、満州帝国国民としての国民意識の確立が基本方針だった
そうです。

一方、教育理念というのは満州帝国建設の理念である「王道主義」でアイデン
ティティーの確立に重点がおかれ「四書五経」を教えるというものであったそ
うです。しかし祖父が赴任した頃には、「日満一徳一心」ということが盛んに
いわれるようになり、教育も日本と同じような修身、国語、歴史、地理を教え
るようになり、日本史も必修科目になっていったようです。

『繰り返しになるかもしれませんが、当時の満州では、日満学生共同の学校が
あったり、日本人・満州人・朝鮮人・蒙古人というように別々の学校があった
り、捨て子の風習があった満州に独特の「○○堂」というような孤児院施設な
どが混在していたそうです。----この○○は忘れてしまいました----
┌--------
│編集部注:同善堂ではないでしょうか?ご存知の方、情報をお寄せ下さい。
└--------

祖父が満州に赴任したときには、満州全国で約1万1千ほど(就学人数約54
万人)の小学校しかなかったそうです。当時の全人口が3400万人といわれ
ていますから、初等教育の進行レベルは非常に低かったといえるでしょう。

ただ、全体的に識字率が高くなったということは、朝鮮人同様に同じ「漢字」
を使うという共通点があったこと、それと祖父が感嘆していたのは、「満州人
は外国語習得能力が優れていた」ーーーということも理由として上げられると
思います。

結局、初等教育の下調べをしている最中に戦争が終了してしまいましたので、
何も出来なかったと残念そうではありました。ただ、不思議に、大学のような
高等教育機関はたくさんあり、建国大学、満鉄の満州教育専門学院、ロシア人
大学の北満学院、かの杉原千畝(東洋のシンドラー)がでたハルピン学院等々、
特色のある大学が存在していました。

こうした高等教育機関の存在意義というのはいろいろあるのでしょうが、初等
教育はどうしても後手後手になっていたというのが実情のようです。現実的に
は、全てにおいて日本に余裕がなくなってきていたということだと思います。

よく、中国人・満州人の田畑を取り上げて日本人に分け与えたといわれていま
すが、祖父の見た限りでは中国人・満州人との棲み分けがあり、何かトラブル
があるようには見えなかったようです。ーーなにより、彼らの田畑と日本人の
田畑とでは形からして違っていたので、日本人の畑かそうでないかはすぐ区別
できたそうです。

祖父が僻地回りをしている時に、開拓団の人からは「騙された」という話をよ
く聞かされたと言っていました。―――日本で、満州は肥沃な土地に溢れてい
る天国のようなところという話を聞かされ、多少は良い暮らしが出来ると期待
して遠い満州までやってきた彼らは、とんでもないところに連れて来られたと
思ったことでしょう。

来てみれば、その日の食べ物にも困るような生活を強いられたわけですから、
「騙された」と感じるのも無理からぬ感想だと思います。何とか苦労して収穫
した作物さえも、関東軍に「食料支援をしろ」と言われて取り上げられたり、
不平不満は多かったようです。ーーあの時に食料がもう少しあったら病気にな
らなかったのにとか、病気が治ったのにとかいう話は良く聞いたそうです。

―― 満州人との摩擦としては、

強いていうならば土地の問題が上げられるかもしれません。しかし、もともと
「土地所有」という概念が、満州人と日本人とは雲泥の差があった訳ですし、
だいたい証明書なるものも存在しない、ーーどこからどこまでが○○さんのも
のという感覚が満州人には乏しかったようです。ただ、慣習的に「ここらあた
りは私たちのもの」という、非常にファジーなものであったようです。

例えば、今まで燃料となる焚き木等を、誰にも邪魔されずに満州人同士で分け
合っていた土地に、急に日本人が入ってきて開拓し始めるということがあると
彼らとしては「何だ!」と思われても仕方がなかったかもしれんとは言ってお
りましたが、
あくまで祖父が聞いた話しですから、どのような摩擦だったのかは計り難いで
すが、そんなにシリアスな問題とは感じられなかった言っていました。

それより、農繁期になると満州人が手伝ってくれたり、逆に日本人が作物の作
り方を教えてあげたりといった交流も珍しくなかったようです。

勿論、日本人が住んでいたところの全てで焚き木のような問題があったわけで
はなく、元々が誰も畑にしようとか住もうなどと考えないようなところに行か
されていたわけですから、問題の起こりようもなかったと思います。

満州国建国当初の都市部などは、祖父は見ていなかった訳ですから、地元の人
にどのようなことが行なわれていたか知りようもなかったでしょう。しかし、
あくまで祖父が見た満州の土地では、日本人開拓団の人たちが満州人の土地を
奪ったとかいうことは無かったと断言していました。

それより、あちこちに出没する山賊・盗賊の類いの被害が頻繁に聞かれ、そち
らのほうが、日本人を含め満州人にしても大問題だったようです。山賊・盗賊
の中には日本人を騙[かた]った輩もいたりして、それが満州人に誤解を与えた
こともあったようです。

                        = この稿つづく =
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┃┃ メールマガジン読後感アンケート結果。
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◇ このとおりだと思う ---------------------------------- 25人  (56%)
◇ そうではないと思う ----------------------------------  3人  ( 7%)
◇ どちらともいえない ----------------------------------  5人  (11%)
◇ 知らなかった。そうだったのか〜 ---------------------- 12人  (27%)

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┃┃ アンケートコメントボードに頂きました感想。
┗━┛
┌──────────「那珂邦和さん」

こんにちは。 

おじいさまの懐旧談はたいへん貴重ですが、部分しか見ていないかもしれない
ものを一般化するのは危険だと思います。また、ヒデさんでしょうか、なにも
分からないであろうお孫さんがコメントなさるのも抑えたほうがいいのではと
考えます。

おじいさまが直接ご覧になった範囲の中で、日本の開拓農民と中国人農民との
間にトラブルはなかったのかもしれませんが、これまでいくつか書かれている
ように、
開拓団が移ってきた段階で既に農地が開墾されていた事実、また敗戦と分かっ
た段階で、元々その土地を所有していた農民が襲い掛かってきたことなどから

わたしは土地の入手にかなりの問題があり、それが彼らにとって恨みとなって
いたことはまちがいないとみています。

最後に悲劇に至らなかった開拓団もあったようですが、この場合は、中国人が
立ち退く寸前にその村に到着した日本人開拓農民が、訳を聞いてびっくりし、
その後共同して農作し、風呂を提供したりと関係を良好に保った場合などがこ
れにあたります。

当時の満州の農業は、当然ながら、日本人開拓団によって維持されていたので
はありません。清朝の時代、華北から移民(初めは季節的開放だったという)し
た中国人農民によって開拓、発展していたのです。

それがいかに粗放農業であったにせよ、日本人が移ってきて過去以上に大きく
収穫量を増やしたという例は多くないそうです。日本人が持ち込んだ「北海道
式」という寒冷地農法も、結局は従来の地場のやり方に戻し、いくばくの成果
を上げたものです。

日本人が来る以前、多くは水稲耕作に従事する朝鮮人と、陸稲は知っていても
水稲を知らない中国人との間でのトラブルや土地問題は多発していました。
日本人開拓団がゼロから開墾したものは、ほんの一部であるはずですが、要は
「開拓」とか「入植」などといったレベルではなかったのではないか、という
ことです。

「元々が、誰も畑にしようとか住もうなどと考えないようなところに行かされ
ていたわけですから、問題の起こりようもなかった」というのは、おじいさま
の見方でしょうか。----事実はかなり違うのではありませんか。

わたしの亡くなった叔父(群馬出身)は、満蒙開拓青少年義勇軍の2期生として
黒竜江省に赴きました。主に、北安あたりで「屯田兵」をしてい、その後現地
召集を受け、ほんの短期間、名ばかりの関東軍に応召。それが原因でシベリア
抑留(約3年)となりました。 

この叔父も過去をしゃべりたがらなかった点では、おじいさまに似ています。 
寡黙ではありましたが、「いいことをした」などとも言いませんでした。

└──────────
 
┌──────────「hideおじさんから」

お便りで頂きましたご意見への答復のほうにまとめさせて頂きます。

└──────────
┌──────────「ミカの赤い服さん」

hideおじさん、こんにちは。
今回も「知らなかった。そうだったのか〜」に投票しました。

初めて伺う話ばかりでした。これからもお願いいたします。

「あちこちに出没する山賊・盗賊の類いの被害が頻繁に聞かれ、そちらのほう
が日本人を含め満州人にしても大問題だったようです」という記事について:

当時、満州に渡って『馬賊王』と呼ばれた『小日向白朗さん』をモデルに横山
光輝さんが書かれたマンガ『狼の星座』があります。(今年、30年ぶりに復
刻されました)
その中に当時の様子が描かれていますが、混沌としていたようですね。

└──────────
 
┌──────────「hideおじさんから」

ミカの赤い服さん 毎回コメントを頂き大変励みになっております。

今回、祖父の話をするにあたり、記憶を辿ったり、当時の自分の日記をめくっ
てみたりしておりますが、改めて、祖父は一体どんな気持ちで戦前を振り返っ
ていたのだろうと考えさせられました。

大学時代の私は「どんな偉そうなことを言っても、満州を侵略したのは日本だ
し」と、当時の日本政府・軍・民間をひとまとめに「悪い」と決めつけた言い
方をしていました。

もっと私に聞く耳があったなら、祖父はまた違った話しをしてくれたかもしれ
ません。本当は、祖父はもっと話をしたかったのかもしれないと思うと悔やま
れることしきりです。そうすれば今回の懐旧録も、もっともっと正確なお話し
ができたのでは?と残念に思っています。

「狼の星座」は私も見たことがあります。懐かしい漫画ですね。復刻されたと
いうことですから、探してまた読んでみたいと思います。
「馬賊」といっても、悪い連中がいたり、日本も含め外国排除に活動していた
パルチザンがいたり、満州の大地主の私兵のような連中があったり、共産党の
共賊といわれる人たちもいたり、とうそう混沌としていたようですね。

祖父が渡満したころには、治安も良くはなってきていたそうですが、それでも
自然の脅威より、これら匪賊のほうが怖かったということは話していました。

ただ、日満関係なく助けてくれた「賊」もいたようです。実際祖父が満州から
逃げてこられたのも、このような人たちによるものかもしれません。

祖父の話の中で「慰安列車」というのがありました。なんでも、雑貨屋のよう
な、デパートのような列車であったそうです。たまにこの慰安列車が来ると、
日本人や満州人が集まってきて日用品やらお菓子やら、雑誌等々を買っていく
のだそうです。

これは病院の役目もあったり、夜には映画館となったりと、当時唯一の楽しみ
であったそうです。ちなみに、日満関係なく、病気の治療費は無料だったそう
です。(治療といってもタカが知れているとは言ってましたが)

「田舎にいると、慰安列車が楽しみでな〜。装飾された汽車が来るとワクワク
したもんだ」と愉快そうに話していましたが、こんな時に仲良くなった満州の
人たちにも、祖父はいろいろ助けられたようです。

祖父が亡くなる前に、お見舞いにやってこられた中国の方がいらっしゃいまし
たが、恩讐を越えて手を取り合う姿を見た時には、私のように、戦後生まれの
平平凡凡と過ごしてきた者には分らない「当時を一生懸命生きた人間」の姿を
見たように思いました。

これは何も祖父だけではなく、軍人にしろ、満州開拓団の人にしろ、当時満州
にいた全ての人たちは、一生懸命生きていたのだと思います。今では「悪」と
いわれるかもしれませんが、その時その時をその人なりに生きていたことを、
私はどうしても単純に「悪者」という言葉で片付けられないのです。

満州侵略を全て「悪」ということにしてしまうと「語りたくとも語れない」こ
とが多くなってしまうのではないでしょうか。それもある意味「歴史改ざん」
に繋がるのかもしれません。

ーーしかし、書き続けるというのは大変な作業ですね。
ーー他のライターさんのすごさに脱帽するばかりです。

└──────────
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┃┃ お便りで頂きました感想。
┗━┛
┌──────────「toshirouさん」

hideおじさん、私も満州生まれ、満州育ちですので、お話は特に身近なものと
して楽しんでおります。

瀋陽にも同善堂があり、ここの救生門の道路に面した穴に嬰児を入れるとその
重みでベルが鳴り、救生室で引き取る仕掛けになっていたようです。

└──────────
 
┌──────────「hideおじさんから」

Toshirouさん 同善堂のお話ありがとうございました。なかなか思い出せず、
喉に骨がひっかかっているようでムズムズしていたのですが、これでスッキリ
しました。

祖父はこのシステムを非常に興味深く感じていたらしく、聞いた感じでは親の
無責任さと受取られるかもしれんが、子供を大切にする満州人の心に触れたと
感心していました。実際にこのシステムが善意のことなのかどうかは分りませ
んが、日本にはない風習に感銘を受けたのではないかと思います。

ーーToshirouさんは満州生まれということですが、何か思い出等ありましたら
お聞かせ頂ければ幸いです。

└──────────
┌──────────「那珂邦和さん」

みなさん( OJIN さん)、こんにちは。

那珂邦和(ペンネームのつもりです)と申します。上海在住で、しがない著述
業者です。いつも有意義な記事を読ませていただき、ありがとうございます。

先に…
「満洲(国)」については、わたしも当然ながら本で読んだり、人に聞いたりし
た伝聞の知識に拠っているレベルです。
わたし(=hideおじさんの年齢より1歳下のようです)の、先年亡くなった叔父
(群馬県人)が、満蒙開拓青少年義勇軍の一員--確か2期生--として、黒竜江省
北安郊外で、鋤[すき]と鍬[くわ]、さらに銃を携えた、いわゆる辺境の屯田兵
として従軍していた縁もあり、「満洲(国)」には大きな関心をもっています。

そういう観点からのものも含め、「hideおじさん」ご執筆の「祖父の懐旧談録
:満州編」につき、若干の卑見を申し述べさせて頂きます。

(一)おじい様の懐旧談と「hideおじさん」のコメントは、文章表現上として
   も厳然と峻別すべきではないかと考えますが、いかがでしょうか。

(二)懐旧談の内容は、おじい様が直接見聞したことでしょうから、それはそ
   れで貴重な事実と思います。が、期間と対象が極めて限定されている上
   一般化しにくい内容を含んでいるのではと受け取れます。

(三)懐旧談の内容に「hideおじさん」自身による少し視野の広い検証を加え
   てから発表して頂くというのがベストだったのではないでしょうか。

上記3点に基づいて、気付いたところを挙げさせて頂きます。
ーーこれは、決してイチャモンではありません。
ーー引用は恣意であり、一部は私なりに手直ししています。ご了承ください。

「不思議に、大学のような高等教育機関はたくさんあり、建国大学、満鉄の満
州教育専門学院、ロシア人大学の北満学院、かの杉原千畝(東洋のシンドラー)
がでたハルピン学院等々、特色のある大学が存在していました」

----満洲国は、これらに政府直系の大同学院などを加え、先に政府指導層を養
成しようとした点で、よく理解できる事実だと思います。私は、かつて香港で
「満鉄系の商業学校出身」という中国人企業経営者に出会いました。
ーーこれは中級管理層の養成が目的だったのでしょうが、かなり後になってか
ら作られたもののようです。

「本来ならば、今でいうところの「普通話(プートンホワ)」が公用語となって
もおかしくないはずですが、当時はまだ「中国語」自体が体系化されておらず
地方地方で言葉が通じないというのが当たり前だったそうですから、そこでど
うしても体系化された言語「日本語」を中心にした教育が不可欠だったとのこ
とです」

----「満州人(昔の言い方に沿えば"満人"でしょう)」と日本人が呼んだ現地人
の多くは、山東省を含めた華北からの漢族移民です。これに満族と蒙古族を加
えてみた場合、彼らにとっての共通語として敢えてあげれば北京官話がありま
した。
もし、五族協和の精神に則[のっと]り、最大公約数的な調和を尊重するならば
共通語としての北京官話の採用が最善だったと思います。私はかの時代の日本
語は、言語としてそれほど体系化されていたとは思っていませんが、--日本の
軍隊用語や方言がそのまま持ち込まれたりした--やはり支配階級の言葉として
日本語が中心となったというのが事実ではありませんか。

「よく、中国人・満州人の田畑を取り上げて日本人に分け与えたといわれてい
ますが、祖父の見た限りでは中国人・満州人との棲み分けがあり、何かトラブ
ルがあるようには見えなかったようです」

----おじい様の見方としてはそうだったのでしょう。しかし、わたしの見聞し
た限りでは、開拓団が入植した段階では、先に移民して耕作してきていた漢族
の畑(既耕地)を、政府(満洲拓殖公社=満拓)がビタ銭に安い金額で買い上げ、
追い出した、、、というのが実際だろうと思います。

またこれ以外に、日韓併合前後から大陸に流入した朝鮮人の一部が、水稲耕作
を始めていました。そういった視点から見て、確かに住み分けはあったかもし
れません。もちろん、とても自然に住み分けたわけではないと思っています。

「勿論、日本人が住んでいたところの全てで焚き木のような問題があったわけ
ではなく、元々が誰も畑にしようとか住もうなどと考えないようなところに行
かされていたわけですから、問題の起こりようもなかったと思います」

----日本人にとって、ゼロから始める完ぺきな開拓は少なかったと思っていま
す。この例は、かえって戦後日本に戻ってからの(那須野ヶ原や成田近辺など)
経験の場合が多いようです。

終戦前後の開拓団の悲劇について語られる際に引き合いに出されるのは、「匪
賊(これは本当に曖昧な言葉です)」に襲われた開拓団と、そういう被害に遭っ
ていない開拓団のふたつがあったことです。

ーー後者は「満人」との関係が良好だった場合がほとんど。なんの本だったか
思い出せないけれど、なかには、追い出した「満人」農民の家族を引きとめ、
一緒に開墾し、毎日風呂を提供していた例などがあったと記憶しています。

緑営の馬賊もいた時代ですから、「あちこちに出没する山賊・盗賊の類い」も
確かにいたと思えます。しかし、日本人の入植によって「匪賊」となった農民
も多かったことは容易に想像できます。

└──────────
 
┌──────────「hideおじさんから」

那珂邦和様、コメント頂戴しありがとうございました。
那珂様のようなコメントは本当に有り難く、また参考になりました。

最初に誤解のないようお話ししますが、私はこの懐旧録を書くにあたり、歴史
書を作るつもりではありませんし、祖父の話が当時の全てを表しているとも考
えているわけではございません。

ですから懐旧録の初めにも「史実と違う、時系列が異なっていることも多々あ
ると思う」ということを記しました。ですから、あくまで「懐旧録」であり、
これを歴史の常識として一般化しようなどという気持ちはございません。

ただ、一人の老人が話していたことをここでご紹介し、当時の市井の人間が感
じていたことを、多少なりとも皆様に感じとって頂ければと考えて書き始めた
ものなのです。

また、何も知らない孫がコメントしないほうがよろしいのではというアドバイ
スですが、こと満州時代については、祖父はあまり語りたがりませんでした。
ですので、私も原稿を書くに際に苦労しましたが、「祖父は○○と言ってまし
た」「○○と申してました」だけではあまりにもお粗末なものになってしまい
ます。なので、私の個人的な感想も加えさせて頂いています。

読みぐるしいとか、個人の感情のおもむくままの文章もあるかと思いますが、
プロのライターではございませんので、幼稚な文章力と自分自身も反省をして
いるところでもあります。

「知らないならコメントは差し控えたら」というお気持ちも分りますが、それ
では何も進まないのではないでしょうか。安易な推測や憶測で語るなというこ
とでもあるかと思いますが、知らないからこそ、多くの先輩方から話を聞きた
いと思いますし、勉強したいと思っています。

しかし、アドバイスにあるように、無責任な憶測だけは慎みたいと思っていま
す。

土地問題につきましては、私も祖父が見たのは「ある一面」であろうと思って
います。ですから文章中、建国当初都市部において地元の人にどのようなこと
が行なわれていたか知らなかっただろうと書かせてもらいました。

一方、那珂様のお話しも、事実であると思いますが、これも「ある一面」だと
思います。
満州拓殖公社に勤めておられた方から聞いた話では、貨幣価値に疎かった満州
人に対し、非常に安い金額で立ち退きを迫ったこともあったとのことでした。
しかしそれでは抵抗が多く、非効率であったが為に、結果的に日本からの開拓
団の人達は、満州北部の荒地に向かうことになったとも話されておりました。

あれだけ大袈裟に満州開拓団を募っていたのに、計画の5〜6%しか満たせな
かったということは、満州人の田畑を奪っていたということだけでは説明がつ
きにくいです。満州人から奪ったまともな田畑が豊富に用意されていたのなら
日本人開拓団の応募ももっともっと多かったのではないでしょうか?

先の満州拓殖公社に勤めていらした方も、「開拓団にまともな土地を紹介でき
なかった」と漏らしておりましたが、元々満州人の土地に入植できた人たちは
ごく限られていたのではないか、だからこそ政府の入植計画も結果的に頓挫し
たのではないか、と私は思っています。

私の説明も不足だったのかもしれませんが、満州において、土地を「奪った」
「奪わない」という単純なものではなかったのではないでしょうか。逆に結果
として奪ったことも事実、奪わなかったのも事実であっただろうと思います。

だからこそ多くの人々の話しを聞くことが大切なのではないかと思うのです。

ですから、那珂様の叔父様の話などは非常に重要なものでありますし、読者の
皆様でも「叔父はこう言っていた」とか「祖父さんはこうだった」というお話
をたくさん頂戴したいと思っています。そうすれば私たちが知らなかった満州
という国もより具体的に見えてくるのではないかと思います。

誤解なさらないで頂きたいのは、祖父が話していたのは「開拓団の人たちが」
満州人の土地を奪ったということは聞いていないということです。全ての日本
人が潔白だとは申しておりません。

一所懸命荒地に向かい、真面目に働いている開拓団の人々を見て感動し、また
満州人と交流している日本人を、崇高な気持ちで見ていたのではないかと思う
のです。そんな開拓団が、満州人の土地を奪ってイザコザを起こしていたとい
うことは到底考えられなかったのだろうと思います。

しかし、祖父の沈黙の中には複雑な歴史があったのでしょう。それを推測する
には、あまりにも自分勝手になるかと思いますので、もっと勉強した上でお話
出来ればと思っています。

最後に、祖父は「自分は良いことをした」とはひと言も申しておりません。
「日本人は、それでも良いことをした」と話していたのです。当時、いろいろ
な日本人がいて、祖父のような役人もいれば、軍人も商売人も、農家の人もそ
れぞれ自分の生活を営んでいたでしょう。

「良いことをしている」と、自負を持って「公」に尽くした人もいれば、良い
ことをしたなどとは考えもせず「その日を精一杯生きる」人もいたでしょう。
だからといって「良いことをした」という人間が「偉い」などとは、さらさら
言うつもりはありません。またそうは言わない人が「偉い」とも思いません。

そんな低いレベルの話ではなく、当時の日本人が自負を持って生きていたと思
うのです。現代の基準からすれば「良いこと」とは到底言えないことであって
も、当時の日本人の心に「公」が存在していたのであれば「良いこともした」
と私は認めたいのです。

余談ですが、もしお時間と余裕があれば、最近出版された「紫禁城の黄昏」を
是非お読み頂ければと思います。--岩波のものはダメです。肝心な部分を削除
してありますから--

ーーーーここにも、日本人が知らなかった満州が描かれています。

└──────────
 
┌──────────「那珂邦和さん」

hideおじさん、こんにちは。

第559号にて、たいへん丁寧なご回答をいただきありがとうございました。
当初コメントボードを通し卑見をお伝えしようとしたところ、うまくアクセス
できなかったようで(と思い込み)、もう一度書き直してメールで再送付しまし
た。したがって、お手元には似た内容のメールが届いてしまったようです。
ーーーわざわざ両方に答えていただき、かさねがさね恐縮しています。

実は、浅学のわたし自身にも、満洲国や日本人による開拓史など、なお詳細に
は分かりきってはいません。当時の関係者にしても、直接携わった事業以外、
とてもその全貌については語れないだろうと思います。この懐旧談録も自学自
習に当たっての教材のひとつとして受け止めています。

ご提示の「紫禁城の黄昏」、ぜひ改めて読み直してみたいと思っています。

└──────────
 
┌──────────「hideおじさんから」

那珂邦和さん、コメント、また、フォローをありがとうございました。

「いちゃもん」などとは全然思っておりません。逆にいろいろサポートを書き
添えて頂いて大変有り難く思っています。このように色々な意見を頂いたり、
書き添えて下さる方がいらっしゃることが、この懐旧録を書くに当たっての私
の希望でもありました。

懐旧録スタートの際、祖父の話をできるだけあるがままに書き連ねようという
気持ちで始めました。ですから、この「話し」に色がつかないように、敢えて
下調べや裏付け等の作業はしませんでした。今になって思えば、最低限はして
おくべきだったかと反省していますが、既に脱稿していますので、お見苦しい
点はご容赦下さい。

繰り返しになりますが、祖父は満州においての仕事の内容についてもほとんど
話をしていませんでした。当時の満州では、日本人は勿論、満州人(満人)、漢
人、蒙古人、白系ロシア(共産党を嫌ってソ連から出てきた人たち)、ユダヤ人
そしてアイヌに近い少数民族が混住していたそうです。

ご指摘のように、「北京公官語」というものがありながら「何故日本語を」と
いうのは私も疑問を持ちました。それで祖父に尋ねたところ、の答えが「体系
化された言語である日本語を使用した」だったわけです。

祖父によると、北京語は漢人とか北洋軍閥の人たちが使っていた言葉であり、
一般的に知られてはいたけれど、満州人の言葉ではなく、満州では満州語をと
いうのが満州帝國政府の方針だったそうです。

ところが満州語とはいっても、教科書で教えるレベルでの、文法を始め初歩の
学術的な研究もされてはおらず、これを一から整理するのは大変な作業になる
ということで、日本語を教えたほうが効率的という日本側の判断だったようで
す。
例えば小学1年生では、読み書きはどのレベルまで教えるのが良いのかとか、
基本的な教育システムが整っていなかったせいでもあったのだそうです。
満州以外、所謂中国でも、基本的な教育システムが未整備であり、北京公官語
もそのままの状態では学校教育に取り入れることは無理があったようです。

だからといって、小学校内で北京語や満州語が使われていなかった訳ではなく
「混在していた」というのが実情のようです。――授業としては満州語が国語
とされ、日本語は1日1時間の必修科目だったとのことです。

これはあくまで私の想像ですが、体系化された日本語が良いとはいっても内実
は日満一体の政策の上で共用語として取り上げる場合、北京語を選択するより
日本語を学ばせたほうが日本にとって便利であるとの判断であったのではない
でしょうか。ーーーこの点は那珂さんと同意見だと思っています。

一方、当時、1年間に数十万という単位の漢人が満州に流入してきたそうで、
都市部では北京語が普通に使われていたとも話していました。

今後チャンスがあれば、単なる祖父の話ということではなく、私なりの意見も
述べさせて頂きたいと思っていますので、またご意見を頂戴出来ますよう宜し
くお願い致します。

└──────────
┌──────────「たろおじさん」

欧米各国の植民地では、宗主国の言葉が文化語として使用されました。なぜか
というと、植民地では言葉そのものの能力が文明内容を表現できない(単語、
文字、論理的な体系など)ことが普通だったからです。

中国では、民衆が話す言葉と文字の一体性が欠如していたそうです。理由は、
極端な方言性のために、発音や文法?までが地方ごとにまるで異なるため。
―――そのために、意味の部分でのみ漢字が機能していた。

意味の部分でのみの機能のために、中央政権の行政を機能させるための文書用
言語として、孔子の末裔が管理する文書係養成機関として、科挙の受検教育が
存在し、孔子の末裔がそのお家元として尊敬されてきた。
----中国山東省にある孔子廟を見ると、歴代の皇帝がお参りしたということの
意味がやっと解るようになります。

科挙で学ぶ漢字は、孔子の儒学の本から来ていますが、それを学んでいた子供
は、日常語と無関係なため、意味がさっぱり解らずにただ丸暗記していただけ
ということです。ーー意味が解るようになるのは大人になってから。
┌--------
ご指摘のように、「北京公官語」というものがありながら「何故日本語を」と
いうのは私も疑問を持ちました。それで祖父に尋ねたところその答えは「体系
化された言語である日本語を使用した」だったわけです。
└--------
ということで「祖父の回答」は、全く正当な理由だったと思います。日本人も
含めた当時の満州で、全員に理解でき、機能できる言語を探したら日本語しか
ないから日本語を教育したのだと。

ちなみに、現代の中国で、広州の人と、上海の人と、北京の人と、大連の人と
日本人が、大連で打ち合わせをしたとき、言葉が通じないので共通語を探した
ら英語しかなかったので、英語で(商売の話を)した・・・ということを聞いた
ことがあります。

今の中国ではアメリカ留学帰りの人も多いですから、そのような現象が起こる
ことは容易に想像できます。(国内取引だったらそうはいきませんね)

└──────────
 
┌──────────「hideおじさんから」

たろおじさん、詳しいご説明ありがとうございました。祖父もたろおじさんと
同じことを言いたかったのかもしれません。きっと話の前後にそのような説明
をしてくれていたのかもしれませんが、残念ながら記憶にありませんでした。

たろおじさんの説明で、日本語教育がけっして自分らの都合だけで行なわれて
いたわけではなかったと理解出来ました。

「言われてみれば」ですが、香港の人と上海の人が、電話で話しをしても通じ
ないので文字(FAX)でやりとりしていたという話を聞いたことがあります。
面白いジョークだなと思っていましたが、まんざら嘘でもなかったのかもしれ
ませんね。

今ソウルにいます。こちらは、日本領海侵犯違反の対応で熱く盛り上がってい
ます。なんでも、日帝時代に韓国の魚を奪ったから、今の韓国漁民が苦労して
いるんだそうです。ーーこれでまた「奪った」ものが増えたようです。(苦笑) 

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└→ 感想や激励をよろしくお願いいたします。 
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